【BL】頭が痛い
ハムニバル
第1話 宇宙人
元々、早起きは苦手だった。人生の大半において、決まった時間に起きるということは、自分にとっては困難と苦痛でしかなかった。だが最近はやたらと朝の時間を持て余す。隣の部屋に、昼まで寝続ける男がいるからだ。
ノックもなく部屋のドアを開けると、アラーム音が虚しく響いている。ベッドに近寄って毛布を剥ぎ取るが、尚もその男は目を閉じ続けている。肩を揺すると、数回の瞬きのあと、驚いた様子で目を見開いた。
「……おはようございます。」
「おはっ…。え、今、何時?」
「7時半です。」
時刻を告げられたこの青年は、井枝清貴。職業は大学三年生。私の雇い主の次男坊だ。
清貴はすぐさま寝巻きを脱ぎ捨てると、パンツ一丁の装いで洗面所に駆け込む。私は彼の寝巻きを回収し、それを洗濯機に放ってスイッチを入れた。最近の洗濯機は性能がいい。洗濯物の重さを測って、洗剤も自動で投入してくれるというのだから。
清貴とは彼が小学三年生からの付き合いになる。有体な表現しか出来ないが、本当に大きくなった。洗面台で顔を洗っている彼の背中は広い。枝のようだった手足にも、程良く筋肉がついているのが一目で分かるほどになった。
タオルで顔を拭いながら、清貴がこちらを振り向いた。ついでに出しておいた着替えを差し出すと、清貴は困ったように笑う。
「また、いいの選んでくれますね。」
「それは良かった。」
「神場さんて意外にセンス良いですよね。」
私はなんの返事をせずに、くるりと体を翻してリビングに向かった。
朝の情報番組で流れる星座占いを眺めながら、清貴は優雅にカフェラテを啜っている。実家にいた頃の清貴であれば、占いを見ることはなく、駅に向かって歩いている時間だ。11位の双子座に落胆している姿を見ているだけで、こちらが不安になる。
「坊ちゃん。今は学生だからいいとしても、そんな悠長にしていて遅刻してるようじゃ、先が思いやられます。社会に出て困るのは坊ちゃんですよ。」
ダイニングテーブルの木目を見つめながら厳しく言い放っているつもりだが、清貴は意に介した様子を微塵も見せない。トーストを齧り、軽く目を閉じながら頷いている。
「その、俺のことを坊ちゃんて呼ぶのは、いつまで続きますか。」
「坊ちゃんが一人で起きられるまでは、坊ちゃんです。」
「じゃあ坊ちゃんでいいや。」
政治家一族の末っ子には、これまで清貴の他にも五万とお目にかかってきた。私の中での統計にはなるが、彼らには共通点がある。自己肯定感を一度として手折られることなく育ち、底なしの楽天家に仕上がるということ。
「…私は先ほど、申し上げましたよね?社会に出てそんな有様で困るのは、坊ちゃんの方ですよって。」
「俺が社会に出たって、神場さんがいるじゃないですか。」
「私は先生の秘書であって、あなたのお守り役ではありません。」
再び冷たく言い放ったものの、めっきり手応えを感じない。半月ほど前、清貴が私のマンションに転がり込むことになった時以来の感覚だ。
「いや、俺だって反省してますよ。小学生の時は参観日に来てもらう程度だったのにね。年を重ねるごとに、お世話をかけちゃって。」
涼しい顔でそう言うと、清貴は再びカフェラテに口をつけた。私は相槌すら返さずに立ち上がり、スーツのジャケットと鞄を持って部屋を出た。
エントランス前に車をつけると、微塵も急ぐ様子を感じさせない清貴が、私の隣に乗り込んだ。
「…怒ってます?」
少し走り出してから、清貴がポツリと尋ねた。その声色には特に後ろめたさなど感じられず、窓ガラスの向こうで広がる青空のように、平淡なものだった。
「坊ちゃんに怒ったことなんて、ありますか?」
「小学五年生の頃なんて、俺の顔を見るたびに怒ってきたじゃないですか。」
小学五年生の頃といえば、専ら清貴はスケートボードにハマり、顔やら手足やら、体中に生傷を作って帰ってきた。
「…怒ってはないです。叱ったんです。」
こんな怪我をする遊びはやめなさいと私が言えば、遊びじゃなくて立派なスポーツだと応戦する清貴とのやり取りが、昨日のことのように思い出される。
当時、清貴を目の前にした大人たちは、皆一様に口を揃えて言った。天使のような美少年だと。私も当時は清貴を見るたびに、現実感のなさを感じていた。下界に降りてきた天使だと、誰かが彼について説明したならば、私はそれをあっさりと受け入れられただろう。それほどまでに清貴の美しさは別格だった。そんな子供が、車輪のついた板に乗るだけでは飽き足らず、何度も転げて傷を作って帰ってくるのだ。今になって思い返せば、あれは完璧に怒っていた。しかし、体面を保つため私は取り繕った。
「怒ると叱るとでは別ですから。」
「いいや。俺は神場さんには怒られてばっかりだ。」
「それならそれで坊ちゃんも行動を改めるべきでしょう。」
前を見たまま眉間に皺を寄せると、清貴の手が伸びて私の頬を撫でた。細長い指の一本一本は、健康状態に不安を覚えるほどに冷たい。ハンドルさえ握っていなければ、素早く手で払っていただろうに叶わない。
「神場さんお肌きれいですね〜。なんかお手入れしてるんですか?」
「してない。触らない。」
窓ガラスの向こうには、同じ目的地を目指して歩く学生たちが見えてきた。知っててやっていると言わんばかりに左目にちらつく指先は、頬を超えて私の唇に触れる。苛立ちが頂点に達し、左の瞼がピクピクと痙攣する。
「清貴!」
「あはは、ほら怒った。」
清貴の背丈がぐんぐんと成長するにつれ、こっそり持っている昔のアルバムを開く頻度が増えた。アルバムの中の清貴は純真で愛らしく、天使そのものだ。
私に謎の口説き文句を語り始め、今のようなタチの悪いイタズラを始めたのも、全ては高校を卒業したところから始まった。何がどうしてこうなってしまったのか。隣にドヤ顔で居座る男に、あの天使だった姿は見る影もない。車を停めると、私は大仰に両手で顔を覆った。
「…会いたい。」
「ん?俺は隣にいますよ。」
「…かわいかった頃の坊ちゃんに会いたいです。」
「俺はずっとかわいいでしょう。」
これ見よがしに溜息をつき、シートベルトを外して降車すると、足早に助手席側に回ってドアを開けた。私の前に清貴が立ちはだかり、口元を緩ませながら私を見下ろしている。そこそこに背が高い私をあっさり追い抜いたのも、やはり高校卒業ごろだったか。10年前は、容易に抱き上げられたというのに、こうして目線が逆転してしまった今となっては幻の思い出だ。一抹の悲しみに襲われながら、清貴の肩を掴んで揺すった。
「いいですか?今度あんなアホみたいな記事出されたら、もう二度とうちに入れませんからね。」
清貴は笑いを堪えもせず、嬉しそうに頷いている。こちらの切実な意図が伝わっていないのがよく分かり、頭に血が昇っていくのを感じた。
「ちょっと。分かってるんですか?」
更に説教を繰り広げようとする私に、清貴は私の背中に両腕を滑り込ませた。しまったと思った時には既に遅かった。私も清貴の肩に手を置いているので、うっかり抱き合う形になってしまった。長いまつ毛の下にある、色素の薄い瞳が私を捉えて離さない。
「…ちゃんと分かってますよ。周りの人間全員、マスコミだと思って行動するんですよね?」
私はもう声を荒げる元気も残っていなかった。頭の中では矢印がぐるぐると回転して、懸命にこの状況を処理している。しかし自分のキャパシティを大きく超えた事態に、とるべき言動が割り出せないようだ。
「でも俺は神場さんが好きだって、早く世界中の人に言いたいです。」
終いにはもう、涙が出てきた。この予測不能の言動しかしない宇宙人による、ストレス性の涙だろう。宇宙人は惚れ惚れした顔で私の涙を拭うかと思いきや、頬に唇を当てた。
「泣くほど嬉しいんですか?良かったです。」
優しく私の腕を解いた宇宙人は颯爽と身を翻し、キャンパスの中庭へと続く、職員専用の階段に向かって歩み始めた。私は無言でその背を見送り、粛々と運転席に乗り込んだ。誰かに見られていただろうか、記者が張り込んでいなかっただろうか。その辺はあまり考えずに、私は後部座席に体を捻って手を伸ばし、車で仮眠をとる時に使う枕を引っ掴んだ。私はそれを強く口元に押し当て、声が出る限り叫んだ。
どうにかなりそうだった。下界に堕ちた天使を守り慈しむかのように、はたまた自分の弟も同然に、持てる愛情の全てを注いできた存在。それが俺にとっての清貴だ。しかし今となっては意思疎通も困難な宇宙人になってしまった。悲しい。深く、悲しい。それにも関わらず、宇宙人に性愛の対象とされた結果、しっかり自分の体が反応していることが一番信じられないし、叫ばずにはいられない。
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