転生ホームズの事件録
今井涼
第1章『緋色の調査録』第1話:名探偵、目覚める
浮気調査。
この言葉を聞いて胸が躍る人間が、果たしてどれだけいるだろうか。少なくとも、俺にとっては心が死んでいく響きだ。
午後八時。飲み屋街の路地裏に停めた軽自動車の中で、俺はミラーレンズ越しにとある居酒屋の出入口を見張っていた。依頼人の妻は、今夜、上司と称する男と二人で店に入っていった。もちろん“上司”という肩書きは建前で、真実はもっと俗っぽい。
「……はい、ツーショット、ゲット。不貞の証拠、いただきましたっと」
シャッター音を最小にして、俺は連写する。別に望んでこんなことをしているわけじゃない。俺は本来、殺人事件や誘拐事件を追いたくて探偵になったのだ。子どもの頃からシャーロック・ホームズに憧れ、事件を解くことにロマンを感じていた。だが現実は甘くない。
浮気、素行調査、家出人捜し、迷い犬探し。依頼内容はいつもそんなものばかりだ。俺のような個人探偵に、新聞に載るような大事件が舞い込むはずもなく、俺は毎日、現実という名のモヤの中を漂っていた。
——せめて、一度でいいから、本物の事件を解き明かしてみたい。
そんなことを思いながら、車内で缶コーヒーを開けた——その瞬間だった。
後部座席のドアが、バンッと荒々しく開いた。
振り返る間もなく、何かが突進してきた。
「……うわっ——!?」
背中に衝撃が走り、体が前のめりに押し出される。額がダッシュボードに激突し、目の前が一瞬で真っ白になった。
「てめえ、コソコソ何してやがる!」
怒鳴り声が耳に届いたが、その意味を理解するより早く、意識は闇に沈んでいった。
***
意識が戻ったのは、どれくらい時間が経ってからだろうか。
まず感じたのは、空気の匂いだった。土と紙と、どこか甘ったるいような香り。次に聞こえたのは、木製の家具が軋む微かな音。瞼を開けると、天井に見慣れないランプが吊るされていた。
「……ここ、どこだ?」
体を起こすと、ベッドの軋みとともに、視界に広がったのはクラシックな書斎のような空間だった。重厚な机、革張りの椅子、書棚には洋書がぎっしりと並んでいる。窓の外には馬車が通り過ぎ、通りの角にはガス灯が灯っていた。
混乱しながらも俺はベッドの脇に置かれた鏡を手に取る。映った顔に、思わず声が漏れた。
「……う、うそだろ……?」
そこには、見覚えのある端正な顔立ち。尖った鼻に鋭い眼差し。——まさしく、シャーロック・ホームズその人が、鏡の中にいた。
「ようやく目が覚めましたか、ホームズ」
落ち着いた声が背後から聞こえた。振り向くと、そこには……あの人がいた。
「ワ、ワトソン……?」
白髪混じりの口髭を蓄えた男性が、穏やかな笑みを浮かべて俺を見つめている。着ているのは、19世紀末風の上着。間違いない。これは完全に、俺の知っている“あの世界”だ。
「……まさか、本当に……」
俺は呆然とつぶやいた。浮気調査の最中に突き飛ばされたと思ったら、目覚めたらここがベイカー街221B?
これは——
「夢……なのか?」
夢にしては、あまりに現実的すぎる。息苦しいほどのリアルさ。家具の木の質感、ワトソンの体温、紅茶の香り……。
(これ……まさか、シャーロック・ホームズに、転生した……のか?)
これが夢だとしても、起きたくない。
心の底から、そう思った。
俺はまるで、長年憧れていた舞台に立っているようだった。
ここは、間違いなくホームズの世界だ。窓辺には実験器具が並び、暖炉の上にはパイプ。新聞は『ザ・タイムズ』で、外を通る馬車の音、煤けたロンドンの空気まで、すべてが本物だった。
「どうかされましたか? 顔色が優れないようですが……頭でも打たれましたか?」
ワトソンが心配そうに近づいてくる。いや、ワトソンじゃない、ワトソン医師だ。ホームズの相棒であり、世界で最も有名な聞き手。まさか彼とこんな風に言葉を交わす日が来るとは。
「……ああ、少し夢を見ていたようだ。だが、もう大丈夫だ」
なるべく“らしく”言ってみる。声が自分のものではない感覚に戸惑いながらも、体は勝手にホームズとして動き始めていた。
「それよりワトソン。今何年だ?」
「なんです、急に。1881年に決まっているでしょう」
1881年……まさに、『緋色の研究』でホームズとワトソンがルームシェアを始めた年。
この世界では、すべてが“始まったばかり”なのだ。
ソファに腰を下ろしながら、俺は胸の奥に湧き上がる高揚感を噛みしめていた。
これは現実じゃないかもしれない。でも、こんなにもリアルで、こんなにも幸福感がある世界に、どうして抗う必要があるだろう。
「さて……」
ふと視線をやると、新聞の片隅に小さく、こんな記事が載っていた。
>【警察発表】ブリアン・ドレッバー氏、ローレストン・ガーデンにて死亡。現場には“RACHE”の文字。
(……出た!)
思わず声が出そうになるのをこらえる。『緋色の研究』における最初の事件だ。
俺のホームズオタク魂が、今にも歓喜の舞を踊り出しそうだった。
だが、ここで落ち着いて演じなければならない。俺は、今やホームズなのだから。
「ワトソン。そろそろ我々の出番のようだ」
「……また、どこかで事件でも?」
「そうさ。面白い謎が、我々を呼んでいる」
ワトソンは眉をひそめながらも、慣れた様子で上着を羽織る。どうやらこの世界では、すでにホームズ=名探偵という立場が成立しているようだった。
俺は帽子を手に取り、221Bのドアを開けた。曇天の下、石畳の街並みが広がる。
(本当に、ここが……俺の舞台になるのか)
胸が高鳴る。子どもの頃から夢にまで見た“本物の事件”が、今、目の前で始まろうとしている。
ホームズの記憶をなぞり、原作の展開を思い出しながら、俺は一歩、ロンドンの街へと踏み出した。
——そして、俺の「転生ホームズ」としての最初の事件が、静かに幕を上げた。
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