第1羽

 あたしには二つ年上の姉がいる。昔から要領が悪い上にどんくさくて、姿形も凡庸そのものな姉が。

 そんな人を実の姉だと認めるのも癪だったけど、事実なのだから仕方ない。あたしはせめてああなるまいと、おしゃれにもメイクにも神経を注ぐようになった。社交にだって明るくなったし、友達にも彼氏にも困らない。

 幸いあたしの方が可愛かったし、両親はあたしを目一杯可愛がってくれた。欲しいものは全部買ってくれたし、やりたいことも全部やらせてくれた。


 おかげで今、あたしは順風満帆な人生を送っている。

 それなりにいいとこの大学を出て、悪くない条件の会社に正社員として入って、悠々とした生活を楽しんでいる。

 仕事でちょっとミスしたとしても、謝れば係長はすぐに許してくれるし、オフィスに嫌な同僚がいたら、人事部のほうに文句を言えばすぐ対応もしてくれる。女たちが妬ましそうに見てくるのは、所詮負け犬の遠吠えで、僻みだ。


 そんな中、姉があたしの勤めている会社に派遣社員としてやってきた。

 正直舌打ちものだった。なんでよりにもよってここなんだと腹が立って仕方なかった。

 あれがあたしの姉だって噂はすぐに広まり、しばらく周囲の目がうざったらしかった。だけどしばらくして、逆にいい機会だと思うようになった。


 今も相変わらずどんくさくて地味な姉がいれば、あたしの優秀さや可愛さがいっそう際立つのではないだろうか。


 予想通り、周りの評判はすぐに変わった。

 以前にも増して、みんながあたしに一目置くようになった。当然だ。姉はあんなわかりやすくダメなのに、妹はこんなにも違うのだから。

 それを周囲に知らしめることができて、あたしはようやくスッとした。姉は前よりさらに会社で気まずそうにするようになったし、あんたにはそうやって縮こまってる姿がお似合いよ、と内心鼻で笑った。


 それなのに、どういう陰謀が働いたのか、あの姉に彼氏ができた。

 しかも相手は、あたしたちの会社の営業部のトップエースだ。なんで姉の相手に、あんな優良物件が……。

 純粋に面白くなかった。姉にはふさわしくないと思った。その人は社内でも有数のイケメンで、仕事ができて優しいことでも知られていた。姉なんかの隣にいるべき人ではない。


 だからあたしは、その彼を姉の手から奪ってやったのだ。


 ***


「……もう! ホント最悪なんだから」


 自宅の最寄り駅のホームを降り、改札を出ながらあたしは小声でぶつくさと文句を垂れていた。

 外はすでに暗く、駅前には帰宅を急ぐサラリーマンやOLたちがバタバタと往来している。そういうあたしも、今は仕事帰りだ。


「あの男、あたしがあんなにアプローチしてるのに、なんでなびかないのよ。趣味悪いんじゃないの」


 一人でいるときは、普段のかわいこちゃんの猫をかぶらなくていい。誰にも見られていないのをいいことに、あたしは思いっきり悪態をつく。


 悪態の原因は、つい先月うちに転属してきた新しい部長の男だ。


 トップエースの彼……雅也くんと晴れて付き合えた頃は全てが思い通りだった。

 姉のときより、みんな目に見えて羨ましそうにあたしたちを祝した。雅也くんはイケメンで、あたしも可愛いのだから当然だろう。

 しばらくの間は、姉も遠目からよく泣きそうな顔であたしたちを眺めていた。分不相応に調子に乗るからだと、その顔を見るといつも清々としたものだ。


 だけどあの部長が来てから、また少し社内の空気が変わった。あの男は、あろうことか姉と親しげにし始めたのだ。

 あんな要領も顔もよくない女のどこがいいのか、あたしにはさっぱりわからない。美醜の区別もつかないほど女性関係に乏しい可哀想な大人なのかとさえ思った。


 だからまた引き離してやろうとした。

 あんな女よりあたしの方が百倍魅力的だし、ちょっとすり寄ってあげれば彼もすぐ現実が見えるはずだと。

 それなのに、部長はあたしに振り向く気配すら見せなかった。あたしが話しかければかけるほど、むしろ彼はあたしと壁を築いていった。


 そのあり得ない状況があたしの神経を逆撫で、心に火をつけていく。


 今まで、あたしにアプローチされて落ちなかった男はいなかった。あたしはその辺にいる頭がお花畑な女たちとは違う。可愛くいるための努力は惜しまないし、勉強だっておろそかにしない。大学はかなり上位の成績で卒業している。

 そんなあたしに、振り向かない男がいる。その事実があたしを愕然とさせ、信じられない気持ちにさせていた。


 そんなの、あたしのプライドが許せない。


「あの男、絶対手に入れてみせるんだから……!」


 静かにそう決意したとき、鞄の中でスマホが鳴った。取り出すと、大量のメッセージ通知や不在着信が届いている。

 全部、雅也くんからだ。


『仕事お疲れ様。返事、見たよ。なら次はいつ会える?』

『俺の方の仕事の予定表は全部送った。あとは亜希の予定次第だ』

『仕事、もう終わったはずだよな? なぜ連絡がない』

『今どこにいるんだ?』

『教えてくれ』

『俺を無視してるのか?』


 マシンガンのように数分刻みで飛んでくるメッセージの数々に、あたしは辟易してアプリを立ち上げて既読をつける気力すら失せ、そのまま画面を閉じて気付かないふりをした。

 雅也くんはあたしを愛してくれているから、明日の朝になってから「気付かなくてごめんね」と素知らぬ顔で謝ってもきっと許してくれるだろう。


 スマホをしまい、暗い住宅街の道を歩く。

 あたしの家はここから遠くないとこにあるアパートだが、夜にもなるとさすが周囲は薄暗い。

 数メートルおきにポツポツ置かれている街灯の明かりがアスファルトの地面を灰色に照らし、周りの明るさも相まって舞台のスポットライトみたいになっている。


 その丸い光の中に、奇妙な影が立っていた。


 錆びついた銀色の鳥籠を手に持った、髪の長い女のようだった。

 ゆったりとした、丈の長いベージュ色のマタニティウェアを着ており、顔は長い黒髪に隠れて見えない。


「……気味悪い人」


 関わらないでおくのが吉だろう。あたしは道の端に避け、できるだけその女と離れたところを通って街灯の下を通り抜けようとした。


「もし」


 蜂蜜のようにねっとりと甘い声があたしを呼び止める。

 たった二文字しか発していないのに、それがあたしに向けられたことがなぜだか強烈に察した。足が途端に動かなくなり、あたしはその場で硬直した。


 あの気味の悪い女が、いつの間にか目の前に立っている。悲鳴を上げそうになったが、金縛りに遭ったように声が出ない。

 女の目が、あたしを見つめている。その目は真っ黒に染まり、白目が全く見えなかった。艶のいい髪の合間からのぞく顔は美しく、蝋人形のように青白い。


 この世のモノではない。そう直感した。


「少し、恵んでくださらない?」


 女が上品に首を傾げ、ふわりと微笑む。見惚れるほど美しい笑みなのに、背筋がゾッと震えた。

 グチャ、と気持ち悪い音がする。動かない目線をどうにか下の方に向けると、女が手に持っている鳥籠が目に入った。

 薄暗くて中身は見通せなかったが、醜悪な肉の塊のような入っている。途端、吐き気がこみ上げるが、動けない体ではどうすることもできない。


 そういえば、こんな巷で都市伝説はなかっただろうか。

 深夜、無人の町を一人で歩いていると、長いドレスを着た女が出る。その女はうぶめさんと呼ばれ、気まぐれに目を付けた人間に声をかけるのだという。


 ――少し、恵んでくださらない? と。


「恵んでくださるなら、その名前を教えてちょうだい?」


 そしてうぶめさんは目を付けた人間に一枚の羽根を渡す。カラスの羽根に似た漆黒の羽根らしい。

 その羽根の先に自分の血をつけ、誰かの名前を記せば、名前を書かれた者は姑獲鳥サンに消されてしまうのだとか。


 オカルト好きの女子勢で流行っている軽い怪談話だと思っていたのに、あたしの手には今、目の前に立つ本物のうぶめさんに握らされた、真っ黒な羽根がある。


 まさか、本当に実在していたなんて。


 金縛りが解け、あたしが慌てて周りを見渡す頃には、直前まで存在していたはずの人影が夜闇に溶けるように消えていた。


 ***


 最悪だ。夕べも最悪だったけど、今朝は輪にかけて最悪だ。あの女のせいで、ちっとも眠れなかったせいだ。

 パウダーやコンシーラーを厚塗りしてなんとか目の下のクマは誤魔化したけど、


 あの真っ黒な羽根は、気味悪いしなんか汚い感じがしたから家に置いてきた。

 本当は捨ててやろうかとも思ったけど、誰でも一人消してくれる、という姑獲鳥サンの噂は気になる。うぶめさんが本当なら、その噂も本当なのかな。


 しかしそんなことを気にしている余裕はすぐになくなった。


 この日、会社ですごく嫌なことが起きたのだ。


 あの部長の男が、あたしにひどい言葉を浴びせてきたのだ。

 彼氏がいるのに他の男にベタベタするのは節操がないのではないかとか、断りもなく触ることはそもそも相手に対して失礼だとか、適度な距離感を保つべきだとか。

 今まであたしの中では常識だったことをことごとく否定してきたそいつに、カッと怒りが沸騰した。

 あたしはそうやって生きてきたのだ。それを知ったような顔で偉そうに説教なんて、あいつは何様のつもりなのだろう


 その後のことは、あまりちゃんと覚えていない。とにかく頭に血が上って、家に帰ると真っ先に玄関の花瓶を手に取り、床にたたきつけていた。

 フローリングに飛び散ったガラス片と水を見ても、イライラして高ぶった心臓と息遣いはちっとも収まらない。


 バカにして、バカにして、バカにして。


 屈辱的だ。あたしが大勢の前であんな仕打ちを受けるいわれなどあるわけがない。あの部長、いつか訴えてやる。

 頭の中であの男のことを百回は殺しているのにまだ腹の虫がおさまらない。どうして、いつも完璧なあたしがこんな扱いなど……。


 そうだ。姉だ。

 あの女が部長にあることないこと吹き込んだんだ。部長もあんな女に入れ込んでいるから性格が悪いんだ。そうに違いない。

 あの人がいるから、あたしがいつもいつもこんな苛立つ羽目になるんだ。昔からあたしの怒りや不機嫌は、元をたどればだいたいが姉のせいだったじゃないか。


「……さっさと消えればいいのよ」


 あんな女、いらない。もともと姉と呼ぶにも恥ずかしいような女だった。今のあたしになら、できる!

 あたしは衝動的にあの日うぶめさんにもらった羽根を取り出し、カッターを自分の手のひらに思い切り突き立てた。


 ***


 姉の名前を書いてやった。胸がスッとした。

 あの人さえいなくなれば、あたしの人生だって、きっともっとうまくいくはずなのだ。


 翌日会社に行くと、姉は休みだった。会社はまだ騒ぎになっていないけど、もしかしたらうぶめさんがもう消してくれたのかもしれない。

 手のひらの怪我は痛かったけど、周りはみんな猫撫で声で心配してくれたからそんなに悪い気はしなかった。昨日のことがショックで、ボーッとしてたら怪我しちゃって、と少し殊勝に悲しんでみせれば、すぐに同情してくれる。


 部長はどこか決まり悪そうだった。あたしが遠回しに、部長のせいで怪我をしたと噂を広めたからだろう。

 そう。あんたは悪いことをしたんだからちゃんと反省してもらわないと。これでしばらく、あんな口も利けまい。


 あたしの怪我を知って、雅也くんは半狂乱だった。正直うっとうしく思うくらい大げさで、あたしは五分間相手してすぐに疲れてしまった。

 全然引き下がってくれない雅也くんにイラつきながら、適当な言い訳で彼を追い払ってさっさとエレベーターに乗り込む。


 その日はしばらくぶりに気持ちよく過ごせた一日となった。


 夕方になり、いつものようにあたしは定時に仕事を切り上げて家に帰る。今日は気分がよかったから、帰路に就く足取りも軽かった。


「ただいまー」


 誰もいないとわかっているけど、今のあたしは機嫌がいいからこんなことも言っちゃう。

 玄関で靴を脱ぎ、鞄を置いてさっそくお風呂に入り、部屋着に着替える。夕飯は……面倒だからデリバリーでも頼んじゃおう。


 スマホを持って電話をしようとしたとき、チャイムが鳴った。

 誰だろう。特に何も買ってないと思うのだけど、宅配便の配達員さんかな。はーい、と返事をして、あたしはスリッパを引っかけてドアを開ける。


 立っていたのは、顔から表情がごっそり抜け落ちた雅也くんだった。


 どうしたの。


 そう問いかけようとしたけどできなかった。

 口を開くより先に、お腹に鋭い痛みと異常な熱を感じる。下を見ると、雅也くんの手に握られたナイフがあたしのお腹に深々と刺さっていた。


「……亜希が悪いんだよ」


 逃げようとした体はすぐさま引き戻され、雅也くんはナイフをさらにあたしの体の奥までねじ込む。


「亜希は俺の彼女だろ? それなのに他の男にばかりうつつを抜かして。これって浮気だよな? 信じてたのに……」


 痛くて痛くて叫び出しそうだったけど、口から出てくるのはかすれた呼吸音だけで、体からはどんどん力が抜けていく。


「お前は俺のだ。誰にも渡さない。お前が、他の誰かのものになるくらいなら、俺が殺す」


 間近まで迫られて、ようやく死を実感する。怖い。怖い。怖い怖い怖い。

 死にたくない。


 雅也くんがナイフを引き抜く。玄関が一瞬で血だらけになった。あたしは反射的に家の中に逃げようとする。

 でも足にまるで力が入らなくて、二歩歩いたところですぐ倒れてしまう。

 顔を上げ、少しでも進もうと床を這う。視線の先で、黒い影が揺らめいた。電気がついていない廊下の奥に、髪の長い女のシルエットが見える。


 嘘……うぶめさん……?


 うぶめさんが鳥籠を揺らしながらゆっくりと近づいてくる。

 あたしは後ずさろうとしたけど、血を流しすぎて朦朧とした意識ではそれもできない。

 雅也くんの声はもう聞こえない。彼には見えていないのか、それとももうここにいないのか。

 なんでもいい。誰でもいい。助けて。どうして、うぶめさん……。あたし、ちゃんと生贄を捧げたのに。


 うぶめさんの手の中で、鳥籠がガタガタと凶暴な音をたてる。視界はすでに霞み始めているのに、どういうわけかその籠だけははっきりと見えた。


 その奥に覗く、おぞましい欲望を孕んだ凶悪な眼も。


 鳥籠の扉がゆっくりと開く。何かがそこからゆっくりと滑り出し、床に落ちる。

 それがこちらに向かってはいずりながらのろのろと口を開けるのが見えて、あたしは悲鳴を上げた。


 首の骨が折られる音だけが、耳元でやけに生々しく響いた。


 ***


 路地のガラクタの上に打ち捨てられたラジオから、本日のニュースを伝えるキャスターの声が途切れ途切れに流れてくる。

 夕べ血まみれの刃物を持って街を徘徊し、駆けつけた警察によって現行犯逮捕された男性は、交際していた恋人をナイフで刺して殺害したことを自供。その女性、福原亜希の自宅では大量の血痕が発見されたが、亜希さんの遺体は見つからなかった。

 逮捕された男性、涌井雅也は亜希さん殺害の容疑は認めたものの、死体遺棄に関しては一貫して容疑を否認しており、警察は消えた遺体の行方と、共犯者の有無について引き続き捜査を続けている。


 ラジオの音声にザザッとノイズが走り、キャスターの声がすぐにぼやけてただの雑音に変わる。

 ベージュ色のマタニティドレスの裾が薄暗い裏路地に翻るたび、それが通り過ぎた場所から全ての音が消えていくようだった。

 銀色の錆びた鳥籠の中で、グチャグチャと何かを咀嚼するような音が絶えず響く。籠の隙間からは、ネイルを塗った綺麗な指先が血まみれになって垂れている。


 綺麗で心優しい肉体と魂なんて、まずくてとても食べられるものじゃない。

 食べるなら、やっぱり性根の腐った汚い連中じゃないと。


 だからこれは、あなたへの罰よ。

 ちっとも栄養にならない餌をわたしに捧げようとした、あなたへの。

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