エンタメ霊媒師ナルの怪事件
井上伸一郎
第1話 製作委員会は問題だらけ!?
01. プロローグ
「あっ!」
と思った時には、体が宙に浮いていた。
階段を落ちている、と気がついたのは、次の瞬間だ。
視界を確保しようと、思い切り体をひねる。
階段の一段一段が、スローモーションのように目の前を通り過ぎてゆく。
階段の最下段の向こうには、硬そうなリノリウム製の床が見えた。
思わず手を突き出して、衝撃を和らげようとするが、無駄なあがきだった。
体重90キログラム。若い頃から20キロ以上太った体に、重力加速度が加わっている。
床についた手は衝撃に負けて折れ曲がる。
額から床に激突した。
ボキッ! と自分の頸椎が折れる音を聞いた。
壊れた。
体の大切な場所が壊れてしまった。
自分の体に修復不可能な事態が起こったことを認識する。
死ぬのだ。
まだやりたいことが、やらねばならないことがたくさんあったのに。
視界が暗くなってゆく。
私の網膜に、階段を落ちる前に見たものが焼きついている。
あの、文字。
あれは、私にとって大切な……。
* * *
渋谷のスクランブル交差点には人が溢れている。
若い恋人たち、家族連れ、学生の集団、外国人観光客……。
ゴールデンウィーク初日。
大型連休が始まるとあって、交差点を行き交う人たちの表情はみな明るい。
「はあぁ〜」
そんな人々を見て、ため息をつく男がひとり。
ここはスクランブル交差点を見下ろすQ-FRONTビルの2階。
男は窓際のカウンター席で、覇気のない目で交差点を眺めている。
世界で最も売り上げを上げるというスターバックスSHIBUYA TSUTAYA店は、今日も満席だ。そのなかで、男の席のまわりだけ、空気が暗くよどんでいる。
それは男がかもし出す負のオーラのせいか。
「このままじゃあマズいよな。確かに失敗したよ。失敗、たくさんしたよ」
男の名は
この席に座ってから何度目だろう。紅葉は気だるげな動作で、スーツのポケットからスマホを取り出した。
仕事用のSlackの画面を開く。
『すみません。用事が長引いてしまって。少し遅れるかもしれません』
『ごめんなさい。やっと終わりました。30分くらいお待たせしてしまうかもしれません』
『いま海浜幕張駅です。京葉線に乗りました。お待たせして申し訳ありません!』
『終点の東京駅に着きました。山手線に乗り換えます。1時間くらい遅れると思います。お詫びの言葉もございません!』
待ち合わせ相手からの謝罪の言葉が、時系列順に並んでいる。謝罪の言葉のバリエーションが尽きるのも、時間の問題だろう。
「ちょっと待てよ。京葉線で来るのなら、途中の新木場駅でりんかい線に乗り換えたほうが速いんじゃないのか? 気の利かない娘だなあ」
紅葉はスマホを操作して、待ち合わせ相手のプロフィール画面を呼び出した。
――
「ひと回りも年下かよ。おまけに仕事は未経験ときた。こんな素人同然の女の子の専任担当だなんて。もう、落ちるところまで落ちたな」
女性のプロフィール写真を見ながら、紅葉の思考はさらにダウナーになる。
ストレートの黒髪で目が半分隠れている。キツく結ばれた唇。全体的にネクラな印象は否めない。先ほどの謝罪の文章といい、仕事相手としては、あまり楽しい相手ではなさそうだ。
だいたい顔合わせの日に1時間も遅れるなんて。常識がない証拠だ。
紅葉は再びため息をついて、スマホの画面を閉じた。
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