言葉の在処

東本西創

『貴方』

――貴方が映した景色、私が紡ぐ物語


----------

貴方の見た景色を私は知らない。


風の匂いも、

光の温度も、

あなたの目に映った世界は

私には届かない。


だから私は書く。

あなたの見た景色を、

言葉で触れるために。

----------


雨の匂いがした。

湿った風がカーテンを揺らし、窓に落ちた雨粒がゆっくりと線を描いて滑り落ちる。


小さなころ、祖母は透の手を握って、雨音を聞かせてくれた。


「ほら、耳を澄ませてごらん。雨が何を話しているのか、聞こえるかい?」


閉じられた障子の向こうで、静かに響く雨音。

それはただの水の音ではなかった。

涙のように細く、時に激しく、世界のどこかから届く小さな声のように思えた。


「……雨が、何か言ってる」


「そうだろう?」


祖母は微笑んだ。

透が話すと、祖母はまるでその言葉を慈しむように頷いた。


「透は、世界の声を聞くことができる。だからね、それをちゃんと言葉にしてあげなさい」


「……言葉に?」


「そう。誰にも届かないかもしれない。けれど、書き留めておけば、いつか誰かの耳に届くこともある。」


祖母の声は穏やかで、柔らかかった。

そして、透は気づいた。

祖母の瞳が、光を失いつつあることに。


祖母は、失明寸前だった。

網膜の病気で、視界はどんどん狭くなっていく。

最後に目にする光景は、透の描いた「言葉」がいい――祖母はそう言った。


それから透は、毎日祖母の枕元で物語を読んだ。

小さなノートに書き溜めた、短い物語。


「少年は、空の果てを探して旅に出た――」


少年は、どこに向かっているのかもわからなかった。

けれど、進まなければならなかった。

空の果てに、自分の存在を証明する「何か」があると信じていた。


「続きは?」


祖母が、静かに微笑んで言った。


「わからない……」


「じゃあ、透が書かないとね」


「僕が……?」


「ああそうさ、少年が辿り着く場所を、透が作ってあげなさい」


透は、震える手で鉛筆を握った。

言葉がこぼれてくる。

少年の孤独、痛み、空の青さ。

どれも透自身の心の底から湧き上がる感情だった。


「少年は、空を見上げた。

彼が見た空は、限りなく高く、青く――

それでも手を伸ばせば、いつか届くような気がした。」


透の中で何かが弾けた。

手が止まらない。

鉛筆が、紙の上を走る。

インクが滲むように、少年の物語が流れ出した。


「素敵なお話だね」


祖母は目を閉じたまま、そう言った。

透は息を呑んだ。


「……僕、もっと書いてもいいかな?」


「もちろん」


母は、かすかに笑った。

透は、その笑顔を目に焼きつけるように見つめた。

――祖母の目に映る最後の景色が、透の「言葉」であるように。


祖母が亡くなったのは、それから一ヶ月後だった。

最期に透の手を握って、祖母はこう言った。


「透の言葉は、きっと世界に届くよ」


あれから20年以上が経った。

今、透の部屋には鉛筆も紙もある。

机の上には、未完成の原稿が置かれている。

だけど、透はそれに手を伸ばせずにいる。


祖母に認められた「言葉」は、いつしか重荷になった。

期待を背負うことの怖さ、失敗することの恐れ――

透はその恐れに囚われ、次第に筆を取ることをやめてしまった。


「――透なら書けるよ」


耳に届いた声に、透は目を見開いた。

祖母の声だった。


ふと、窓の向こうを見た。

静かに降る雨。

カーテンが揺れる音。

遠くで誰かが、「書け」と言っているような気がした。


透は

言葉が、ふっと指先に降りてくる。


「少年は、空の果てを探して旅に出た――

彼の胸には、名も知らぬ言葉の種があった。」


透は勢いよく、

ペンを取った。


----------

貴方が書いた景色に私がいた。


風の匂いも、

光の温度も、

貴方の言葉に触れたとき

私は確かにここにいた。


だから――

ありがとう。

貴方が、

私を忘れなかったことを。

----------

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る