天使の遺言

ハヤシダノリカズ

第1話

「ング、ンー」

 男の鼻から漏れるその音は精一杯の抗いを示している。血が詰まった鼻腔と猿ぐつわ、呼吸の為に詰まった血を吹き出そうと試みようにも肺の中に空気がそもそも足りていない。

 脂汗と血で濡れた上半身が、窓から差し込んでいる月明かりで闇の中に浮かんでいる。土と埃と血の臭いが充満している狭い空間の中に、一人の男が後ろ手に拘束され、両足を前に広げた格好で地面に座っている。男は何も身に纏っていない。裸で、血まみれで、体の自由を奪われ、座っている。


「さて……。君に恨みがある訳ではないのですが……」

 落ち着いた声が、拘束された男の頭上に降ってくる。その声の主が近づいてくることを察した男はビクリと体を強張らせる。暗闇に響く落ち着いた声に、動きを制限されている男は恐れおののいている。

「恨みはないが、君という存在が在り続けるのは、どうにも、耐え難い」

 そう言うと、その男は手に持った棒を振りかぶり、その先端を血まみれの男の顔に向け、横に薙いだ。


「一つだけ、聞いておきましょうか」

 月明かりが声の主の足元を照らしている。闇に浮かぶその靴は少し泥がついているが、値の張る上等なものだと自らを主張している。血まみれの男の目にもそれは映っているはずだが、生気を失いただ開けているだけの目は靴の値打ちに意味を見出す事もない。

「天使の遺言……という古い歌を知っていますか?」

 感情を感じさせないその声は終始淡々と血まみれの男に向けられている。地べたで消耗しきっている男はチラと闇を見上げ、声の主の顔を見ようと試みた。

「首を縦か横に振るだけでいいのですよ。知っていますか?天使の遺言」

 何度も打ち付けられて腫らした目は、力なく声の主の顔を認識することを諦めた。そして、ただ、顔を横に振った。


「そうですか。ご存じありませんか。もしも、その首が縦に振られていたならば、苦痛が極力少ない死に方を差し上げたのですが、それなら仕方がないですね」

 闇の中に渦を巻いて溶けていく様なその声が、静かな圧を持って血まみれの男に近づいていく。

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