第8話:とりあえずの婚約

「はあ? トーマス、何を言ってるんだ」


 トーマスが冷ややかにヴィクターを見やる。


「では、このままアリシア様を帰されるのですか?」


 トーマスの金色の目がきらりと光る。


「アリシア様はそれでいいのですか?」

「えっ、だって、私たち、ただ一緒にご飯を食べただけで――」

「一晩、一緒に過ごされましたよね。もし妊娠されていたら、どうするおつもりですか?」

「に、妊娠!?」


 アリシアとヴィクターは思わず顔を合わせた。


「王族の血を引く子どもなのですよ。捨て置くわけにはいきません」

「言いにくいんだが、実は昨晩の記憶がなくて……」


 ヴィクターとアリシアは気まずい思いで顔を見合わせた。


「わ、私も記憶がなくて……。あっ、でも、たぶん何もなかったと……」


 あまりの恥ずかしさにアリシアは顔を赤らめた。

 奔放ほんぽうな村娘のような、軽率なおこないだった。


「たぶん? 記憶にない? そんな適当なことでは困ります。ヴィクター様、王族としての自覚はおありですか?」

「あ、ある! 一応……」

「では、責任をとって結婚されては?」

「はあ?」


 さすがにアリシアは慌てた。


「あのっ、言いにくいんですけど、私、昨日離婚したばっかりなんです!」

「ほう」


 トーマスがたりと頷く。


「では、今独身ということですね」

「それはそうですけど……!」


 よほどヴィクターが未婚であることが引っかかっているのか、トーマスがやたら前向きな発言を繰り返す。

 だが、アリシアとてようやく離婚して自由の身になったのだ。


 一人で生きていく――。

 そう決心した翌日に、なぜ王族と結婚話になっているのか。

 アリシアは混乱のうずに巻き込まれながらも、必死で弁明した。


「ヴィクター様は王子です! ちゃんとした、身分のある女性がふさわしいかと――」

「それが現れなかったんですよね。いろいろ探したり、お膳立てしたりしたんですけど」


 トーマスが肩をすくめる。


「おかげで二十五歳でまだ独身ですよ。弟君にも先を越されそうです」


 やれやれ、というようにトーマスが首を振る。


「悪かったな! 王子は八人いるんだから、俺一人くらい結婚してなくてもいいだろ!」

「よくないです。独り身のままだと、このように自由気ままに過ごされますから。首輪をつけておかないと」

「く、首輪……!」


 首輪呼ばわりされ、アリシアは絶句した。


「ああ。失礼。ヴィクター様にはしかるべき令嬢と結婚し、身を固めて落ち着いてほしいだけです」


 とんでもない流れに呆然としながらも、アリシアはなんとかあらがおうとした。


「あの、私、離婚されたうえ、実家は没落した侯爵家です。王族にふさわしくないかと」

「ハミルトン侯爵家ですね。家柄的には申し分ないですし、持参金なども必要ありませんので、身一つで嫁いでいただければ」

「おまえ、なんでそんなに急いで俺を結婚させたいんだ!」


 たまらず怒鳴るヴィクターに、トーマスが深いため息をついた。


「な、なんだその心底あきれ果てた顔は!」


 トーマスがこれみよがしに肩をすくめる。


「何度も言っておりますように、ヴィクター様が外交担当になったからですよ。各国の大使や官僚、商人の方々とのお付き合いや相談に乗るとき、かたわらに奥様がいたほうがいいでしょう?」

「うっ……」

「それに愚痴っていたじゃないですか。女性の悩みなどわからない、と。奥様に任せればいいのですよ」

「そんな……!」


 このままでは強引に結婚させられるかもと危惧したアリシアは、思い切って口を開いた。


「私、やっと離婚して自由になれたんです! しばらくのんびり一人で暮らしたいな、って……」


 それに、もし再婚するなら、今度こそ愛し合っている人としたい。


(そして、普通の人と! 王族とかではなく!)


 トーマスがにこりと笑う。


「とにかく、妊娠の可能性があるうちは、しばらくお試しで婚約者として屋敷で暮らしたらいかがでしょう?」


 譲歩したといわんばかりのトーマスに、アリシアは呆然とした。


「な、なんでそんな……急すぎないですか?」

「私はね、ずっと待っていたんですよ。こうやって、ヴィクター様が妙齢の女性を屋敷に連れてくるのを……!」


 あまりに実感がこもった口調に、アリシアは口を挟めない。


「昨晩、親睦も深めたことですし、ゆっくり愛をはぐくめばよろしいではないですか」


 トーマスがパン、と手を打ち鳴らす。


「そうですね。だいたい三ヶ月か四ヶ月くらいで妊娠の兆候が現れますから、とりあえずそれまで形式的な婚約者としてここで過ごされては?」

「えっ、あの」

「失礼ながら、ハミルトン侯爵家はもう領地や屋敷を売り払ったのでは?」

「え、ええ」


 トーマスは侍従長ともあって、貴族の動向に詳しいらしい。アリシアの実家の事情を完璧に把握しているようだ。


「離婚されたんですよね? どこで暮らすおつもりですか? 新しく家を買い、使用人を雇うほどのたくわえがあるのでしょうか?」

「し、しばらくは仮住まいの部屋に長期滞在をして、それから仕事を探して……」

「この屋敷に住み込んで、王子の婚約者として仕事を手伝う。まさしく希望どおりではありませんか?」

「えっ、あの」

「宿代はかかりませんし、もちろん働いた分の賃金はお渡しします。王子の仕事の手伝いですからね。他の仕事より割がいいと思いますよ。住む場所はある、お金を貯められる。悪い話ではないはずです」


 立て板に水とまくしたてられ、アリシアはぐっと詰まった。


「妊娠の可能性があるうちは、こちらもあなたを見守る必要がありますし、お互いの利害が一致すると思いませんか?」

「うっ……」


 まったく妊娠するような覚えはないが、半裸でベッドの上にいたのは事実だ。万が一ということがある。

 もし、妊娠していたとしたら、たった一人で子どもを育てる自信はない。


「わ、わかりました……では、三ヶ月くらい、お世話になります……」

「ヴィクター様もそれでいいですね? 男として、王族としての責任ですよ」

「アリシアさんがいいなら、俺は構わない。こんなことになって本当に申し訳ない」


 ヴィクターに頭を下げられ、アリシアは慌てた。


「そんな! 私も羽目を外しすぎたんですから!」


 トーマスがパン、と両手を打ち鳴らした。


「では、決定ですね! アリシア様のお部屋をご用意します。また仕事に関してもご説明しますね! では失礼します」


 トーマスがさっさと出ていく。


(な、なんでこんなことに……!)


「アリシアさん……何といったらいいかわからないけど、巻き込んでしまってすまない……」

「いえ、私もいい大人です。自分のしたことには責任をとります」


 アリシアはなんとか笑顔を作った。

 自由の代償は大きかった。窮屈な結婚生活から解放されたのは、ほんの一瞬だった。


(ああ、さようなら私の夢……いいえ、諦めることはないわ。三ヶ月後、お金を貯めて出て行けばいい)

(婚約解消は外聞が悪いけれど、どうせ離婚した身だし、一人で生きていく覚悟もある。なら他者の目は気にすることはない)


 アリシアは腹を括った。

 自分のしでかした責任は自分で取らなくてはならない。

 ヴィクターが水色の目を向けてきた。


「外交の仕事に手詰まりを感じていたのは事実で……助力いただけるとありがたい」

「はい。私に務まるかわかりませんが、精一杯やらせていただきます」


 アリシアの言葉にヴィクターがホッとしたように顔を緩めた。


「俺にできることは何でもする。だから――よろしく頼む。婚約者殿」


 すっと差し出された大きい手をアリシアは握り返した。


「こちらこそ、よろしくお願いします」


 アリシアは戸惑っていた。

 いきなり王子の婚約者になったことだけではない。

 自由がなくなるのに、気楽な一人暮らしではないのに、愛し合っている人ではないのに。

 なのに、ヴィクターの婚約者になるというのは、そう悪い気分ではなかったのだ。

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