第4話 動揺

 

 羽山との鬼ごっこから数日が経ち、ゴールデンウィークも終わった頃。

 相変わらず学校とバイトで忙しい日々を送っていた岩崎は、携帯を片手に溜息を落とす。ノートと教科書を借りる約束をしたが、連絡先を交換するのを忘れていたのだ。あの遊び以降、羽山が岩崎の元を訪れる事はなく、上級生のクラスに行ってまで借りる勇気もなかった。


「今から学年混合クラス対抗リレーの代表者を決めまーす!」


 ホームルームが始まり、運動会の種目についての話し合いが行われる。


「リレーの代表者になりたい人ー?」


 携帯をポケットに仕舞って、岩崎は遠慮がちに手を挙げた。そろりと辺りを見回すが、他に手を挙げている人はいない。立候補しているにも関わらず、口の端を引きつらせて肩を落とした。


「男子は岩崎くんに決定~! 女子は誰かいない? いなかったら私がやるけど」


 教卓の前でホームルーム委員が教室全体に目を配らせながら、立候補者を募る。委員の名は高橋たかはし。バスケ部の主将で責任感が強く、ホームルームの委員を決める時も名乗り出ていた。足も速いのかもしれない。赤毛を一つにくくったポニーテールが印象的で、どちらかと言えば目立ちたくない岩崎とは正反対なタイプである。


「立候補する人がいないので私がやりま~す! 次、白線を引く係ー!」


 急に手を挙げる人数が増加した。羽山との約束がなければ、それに手を挙げていただろう。もう逃れようのない状況に突っ伏して、岩崎は小さく溜息をこぼした。





 下校時刻になり岩崎が校舎を出て歩いていると、校門に背を預けて立っている人がいた。羽山だ。誰かと待ち合わせだろうか。久しぶりに見たからか視線を離せないでいたら、岩崎に気付いた羽山が駆け寄ってくる。


「久しぶり! 遅くなったけど、約束してたノートと教科書。取り合えず一学期と二学期分」

「わざわざ待っててくれたんスか。ありがとうございます」


 どうやら目当ての人物は岩﨑だったらしい。羽山が鞄から取り出した数冊のノートと教科書を受け取り、岩崎は鞄に仕舞った。ずっしりと重くなったそれを肩に背負うようにして持ち上げる。


「ちゃんと代表者になってくれた?」


 本題はそっちと言わんばかりに振られた話に、そっと視線を逸らした。代表者にはなっているが約束をきちんと守ったという事実がどうにも照れくさくて、首の裏を手で擦る。


「約束は守るって言ったじゃないスか」

「うん、わかってるけど他に立候補者がいたら浩司は譲りそうじゃん」


 うっ……と岩崎は小さく息を詰めた。

 考えていたことを見抜かれているのが悔しい。


「ご心配なく。無事代表者になれました」

「良かった~! ありがとう。またバトン練習する時、よろしくね!」


 羽山は胸を撫で下ろして笑みを浮かべると、放課後の部活があるのか足早に去っていく。学校のイベントでも負けることは許さない意識の高さに圧倒されながら、岩崎は重い鞄を持ってバイトへと向かった。








 バトン練習の日がやってきた。昼休みの校庭に各クラスの男女一名ずつクラス毎に六人集まる。

 岩崎にとっては同じクラスの高橋以外は初対面だが、羽山は全員と顔見知りなのか三年の先輩と相談しながら走者を決めていく。


「一番手はこう……岩崎くん、二番手は高橋さん、三番手は……」


 浩司、と言いかけて苗字に変えた羽山の言葉に驚いて目を見開く。よりにもよってトップランナーを指名されるとは思わず、岩崎は目を閉じて額を押さえる。しかし二年と三年の先輩達が決めたことに口を挟む事は許されない雰囲気だ。


「最後の走者は俺ね。これでいいと思うんだけど、順番変えた方がいいと思う人ー?」


 羽山が一番速いのは周知の事実なのか誰も口を出さないので、岩崎も「1番は嫌です」と主張できず、こっそり項垂れた。順番が決まり、早速バトン渡しの練習が始まる。一番は誰かからバトンを受け取る事がないので、渡すタイミングさえ掴めればいい。

 

 少し休憩しようと、岩崎は地面に置いた水筒を手に取る。蓋を開けてお茶を飲みながら、肩から下げたタオルで額に滲んだ汗を拭う。五月も下旬に入り暑い日が増えてきた為、体操服は全員半袖だ。六月三日の運動会も雨が降らなければ汗ばむ夏日になるだろう。


 高校に入ってすぐ本屋のバイトを始めたが、朝も新聞配達をしているため授業中の睡魔が半端ない。羽山から借りた教科書とノートが活躍し、何とか遅れが出ないようにしているものの、眠気に負けてコクリと船を漕ぐ事もあった。運動と暑さで適度に疲れた身体で挑む午後の授業はヤバいかもしれない。


「浩司、疲れてる?」


 不意に背中から届く声に、どきりと胸が高鳴った。振り向くと声の主が歩いてくる。眉尻を下げて気遣うような顔をしている羽山に、疲労の色を見せるわけにもいかず、岩﨑は緩く首を振って否定した。


「俺はバトン渡すだけなんで。壱先輩のが大変なんじゃないっスか?」

「いや、俺は慣れてるし。それより浩司が——」


「壱くーん、こっち見てあげて!」


 正面に立った羽山が岩崎に手を伸ばしながら何か言い掛けた時、少し離れたところから声が飛んだ。顔色を窺う真っ直ぐな彼の眼差しに嘘はつけない気がしたが、呼び出しがかかっているのを口実にへらりと笑って見せた。


「ほら、呼ばれてますよ。俺は大丈夫なんで行ってください」

「……分かった。でも、無理はするなよ?」

「了解っス」


 念を押されて頷くと少し安心したのか、柔らかく笑って呼ばれた方向に走っていく。呼んでいたのは羽山と同じクラスのリレー代表者となった女子だ。名前は確か佐々木ささきで、その呼び声から活発さを表している。

 羽山が駆けつけると、彼女は少し頬を染めて女らしさを感じる表情で話をしている。羽山は陸上部として功績を上げ、成績も良く見た目も良い。しかも優しいとくれば、彼を好きになる女子は多そうだ。


 そう考えて、少し——胸が締め付けられる感覚がした。


 生暖かい風が吹き抜ける校庭で、バトン渡しを教えている羽山を自然と目が追いかける。


「……何だよ、これ」


 タオルで顔の下半分を覆って呟いた言葉は誰に聞かれることもなく、一人だけサボるわけにはいかないと練習に戻った。

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