【癒し短編小説】「光の間隙 ―ヒュッゲの贈りもの―」(約35,000字)

藍埜佑(あいのたすく)

第1話「紅葉の夜に届いた北欧の言葉」

 蒼井澪(あおいれい)は、会議室のドアを閉めた瞬間、大きく息を吐いた。長時間におよぶプレゼンテーションの後の開放感と疲労が入り混じる感覚。スマートフォンの画面を見ると、すでに時計の針は午後八時を指していた。窓の外は、東京の夜景がきらびやかに輝いている。


「蒼井さん、お疲れ様でした。今日のプレゼン、完璧でしたね」


 声をかけてきたのは、同じ部署の田中だった。彼女はいつも通り完璧なスーツ姿で、疲れを微塵も見せていない。


「ありがとう。でも、まだクライアントからの最終確認が残ってるから、完璧かどうかは分からないわ」


 澪は笑顔を作りながら答えた。実際のところ、このプロジェクトには三ヶ月もの時間をかけてきた。最後の詰めの段階で何か問題が発生するのは避けたいところだった。


「蒼井さんなら大丈夫ですよ。それより、この後飲みに行きません? 皆で行くんですけど」


「ごめん、今日はパス。明日の朝一で資料の修正があるから」


 澪はバッグに書類を詰めながら断った。田中の表情に少しだけ失望の色が浮かんだが、すぐに明るい顔に戻った。


「そうですか。じゃあ、また今度。お疲れ様でした!」


 田中が去った後、澪はパソコンの電源を切り、オフィスを出た。エレベーターで一階に降り、ビルを出ると、冷たい秋の風が頬を撫でた。季節はすでに10月半ば。日が落ちるのも早くなり、夜の空気には肌寒さが混じり始めていた。


 地下鉄の入り口に向かいかけたところで、澪は足を止めた。このまま帰っても、待っているのは空っぽの部屋だけ。冷蔵庫には昨日の残り物と缶ビールが数本。それを開けて、テレビをぼんやり見ながら寝る――ここ数年、そんな日々が続いていた。


「……違う道を通って帰ってみようかな」


 何かに突き動かされるように、澪は普段通らない路地に足を踏み入れた。高層ビルの影から抜け出すと、古い商店街が見えてきた。昔ながらの八百屋や魚屋が並ぶ中、一軒の建物が澪の目を引いた。


 古い日本家屋を改装したらしいその店は、「カナエルヤ」という名前が木製の看板に書かれていた。大きな窓からは温かな灯りと緑色の植物が見え、心地よさそうな雰囲気が漂ってくる。


 何の気なしにドアを押し開けると、優しいベルの音が店内に響いた。中に入ると、土間のような空間に古い木の床、壁には白い漆喰。天井からは古いランプが下がり、テーブルの上には小さなキャンドルが灯されていた。


「いらっしゃいませ」


 声の方を見ると、エプロン姿の女性が微笑んでいた。若くして白髪交じりの髪を後ろでまとめ、優しい表情の、五十代前半くらいだろうか。


「あの、カフェですか?」


「そうよ。お食事もできるし、お茶だけでも大丈夫。ほら、こちらにどうぞ」


 女性は窓際の小さなテーブルへと澪を案内した。座ると、古い木の椅子が心地よく体を支えてくれる。


「初めてのお客さんね。メニューはこちら。今日のスープとパンがおすすめよ」


 メニュー表を受け取った澪は、『本日のスープと自家製パンのセット』に目を留めた。何だか温かいものが食べたくなり、それを注文した。


 店内にはわずか五つほどのテーブルしかなく、そのうち二つには先客がいた。一つのテーブルには老紳士が一人で本を読みながらコーヒーを飲み、もう一つには外国人の女性が、ノートに何かを書き込んでいた。店内にはクラシック音楽が静かに流れ、ところどころに置かれた植物が空間に命を吹き込んでいる。


 やがて、丼に入ったスープとパンが運ばれてきた。かぼちゃのスープらしく、オレンジ色がキャンドルの灯りに照らされて美しく輝いている。一口すすると、かぼちゃの甘さとスパイスの香りが口いっぱいに広がった。


「おいしい……」


 思わず声が漏れた。澪はゆっくりとスープを味わい、パンをちぎっては口に運んだ。ここ最近、こんなにゆっくり食事を楽しんだことがあっただろうか。いつも急いで食べるか、テレビを見ながら無意識に口に運ぶか。


 気がつくと、外国人の女性が澪の方を見て微笑んでいた。金髪に青い目、二十代前半だろうか。彼女は小さく手を振ると、自分のテーブルから立ち上がり、澪のテーブルに近づいてきた。


「すみません、日本語、少し、話せます。あの、このスープ、とても、おいしいですね」


 片言の日本語だが、とても丁寧な話し方だった。


「ええ、とても美味しいです。初めて来たんですけど、素敵なお店ですね」


「わたし、メッテ。デンマークから来ました。留学生です」


「蒼井澪です。澪でいいですよ。デンマークから? 遠いところからよく来ましたね」


 メッテは嬉しそうに微笑んだ。


「日本の、デザイン、勉強しています。一年間、東京に住みます。この店、見つけて、毎週来ます。ヒュッゲを感じます」


「ヒュッゲ?」


「ヒュッゲは、デンマークの言葉。あの……説明、難しいです」


 メッテは言葉を探すように天井を見つめた。そこへ店主の女性がやってきた。


「メッテちゃん、また日本語の練習してるの?」


「はい、風音さん! ヒュッゲについて話しています」


「あら、それなら私も手伝おうか。風音と申します。このお店のオーナーです」


 風音さんは澪に向けて軽く頭を下げた。


「蒼井澪です。素敵なお店ですね」


「ありがとう。メッテちゃんが言ってた『ヒュッゲ』は、デンマークの人が大切にしている考え方なのよ。日本語だと……そうね、『心地よさ』『くつろぎ』といった感じかしら」


「でも、もっと深いです」メッテが言葉を継いだ。「ヒュッゲは、小さな幸せを見つけること。忙しい生活の中で、大切な人と過ごす時間や、キャンドルの灯り、おいしい食べ物……そういう日常の喜びを大切にします」


 澪はメッテの言葉を聞きながら、手元のスープと、テーブルに灯されたキャンドル、そして店内の温かな雰囲気を改めて感じた。


「なるほど。素敵な考え方ですね」


「デンマークは世界で一番幸せな国の一つです。それはヒュッゲがあるからだと思います」メッテは誇らしげに言った。


 風音さんは微笑みながら、「メッテちゃんは毎週木曜日にここに来るのよ。もしよかったら、また来てみてください」と言った。


 その夜、蒼井澪は三ヶ月ぶりに心地よい気分で眠りについた。デンマークからの留学生メッテと偶然出会ったこと、彼女から聞いた「ヒュッゲ」という言葉、そして心温まるカフェの空間。すべてが偶然の産物だったが、何か意味のある出会いのような気がしていた。


 眠りに落ちる前、澪は思った。

「来週の木曜日、また行ってみようかな」

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