愛は残酷な遊戯の果てに

まいこまき

第1話 七月のメルヘン

 うだるような暑さに包まれた朝の教室。夏の陽射しが窓から差し込み、室内の温度を上げていた。熱気が立ち上り、机の上に置かれたノートからインクの匂いがほのかに漂う。


 周りには暑さを感じていないかのように、くだらない話で盛り上がる生徒たち。手元で小型のファンを回しても涼しさは一向に得られず、窓からは蝉の鳴き声がスピーカーを介したように流れ込んでくる。授業の始まりまで、あと20分。


 私、黒咲美涼は、なんとなく過ぎていく日々に飽き飽きしていた。私には友人と呼べる存在がいない。クラスメイトたちの会話は、私の目には幼稚で愚かしく映る。学級委員の推薦を巡る口論、昼食のメニューについてのくだらない議論、誰が誰と付き合っているかという噂話……。よくそんなことで盛り上がれるものだ。彼らが放つ笑い声はただの雑音でしかない。


 私の人生は退屈だった。


 自慢じゃないが、成績は常にトップクラスだ。テストの結果が返ってくるたびに、先生たちは褒めてくれるし、両親は満足そうに微笑む。


 でも、それに何の意味があるんだろう? 良い成績を取っても何かが変わるわけでもないし、幸せな未来が保証されるわけでもない。学生という与えられた役割を果たすためだけに、私は授業を受け、家で課題に取り組み、良い成績を取る。


 ただそれだけだ。今日も明日も、その先も何も変わらない日々が続いていく。


 教室の喧騒は永遠に終わらないのではないかとすら思えた。飽きもせずに、今度は夏休みの計画や昨日のテレビについての話題が繰り広げられる。


 この子達はきっと、世界の終わりまでこうやって過ごすのだろう。前の席に座る女子生徒が、制汗スプレーを自らの身体に振り掛ける。そのキツい匂いにうんざりしながら、イヤホンを耳に差し込んだ。


 流れてくるのは、中学から追っているガールズバンドの楽曲。メジャーデビュー前の曲で、軽やかなメロディーとは対照的に歌詞には社会への不信、自己の価値観への疑問、みたいなテーマが詰まっている。『生きていることに意味がある』なんて無責任に歌わない彼女たちの曲は、私には心地よかった。


 メジャーデビューを機に、バンドはよりポップで万人受けする曲を出すようになり、こうした暗い歌詞の曲はめっきり減った。それでも、私はその活動をずっと追い続けている。それは、この曲を初めて聴いた時の衝撃を忘れられないから。イヤホンから流れる歌声、「自分の価値に迷う」——まさに今の私の心境だ。


 クラスメイトたちの笑い声が一層大きくなった。無意識に眉間に皺が寄り、スマートフォンを操作する。画面に表示された音量バーをスライドさせた。イヤホンから流れる音が大きくなり、品のない笑い声や、机を叩く音を遮断してくれる。


 風に揺れる木々の葉が、夏特有の青白い光を反射させている。その様子を視界の端に捉えながら、耳元で流れる歌に意識を集中させた。こうしているうちは教室の騒がしさが別世界の出来事のように感じられて、私は自分の世界に閉じこもることができる。


 流れていた曲がアウトロと共に終わりを迎えると、一気に現実に引き戻された。耳障りな笑い声を掻き消すために、再生の終わった曲をリピートさせる。


 頬杖をついて、窓の外に広がる空に目を向けた。雲がゆっくりと流れ、鳥がその周りを飛び回っている。


 ーー私は幼い頃、自分には翼があると本気で信じていた。空を見上げては、雲の間を飛んでいる自分を想像し、どんな困難も飛び越えられると確信していたのだ。


 だけど、学校という枠の中で勉強や人間関係に縛られている現状は、まるで羽根を一枚ずつもがれる拷問のようだ。


 全ての羽根がなくなった時、どうなるのだろうか? 羽根がなくなれば、私は飛ぶことも、自由を感じることもできない。未来に希望を見出すことも、自分の存在意義を見つけることも難しくなるだろう。その先に待つのは、ただ無意味に時間を過ごし、やがて何も残せずに消えていく未来だ。


 羽根が完全に失われる前に、どこか高い場所から飛び降りて自ら命を断つ。いつしか、そんな考えが私の頭に浮かぶようになっていた。


 学校の窓から見える背の高いビル、校舎の屋上、遠くに見える橋の欄干の上。そんな場所から、羽根を広げて飛び立つイメージが何度も脳裏に浮かんだ。


 それは私の心に宿る退廃的な、けれども美しい夢。その場所から飛び降りた瞬間、私は退屈な地上の束縛や日々の無意味なルーティンから逃れ、永遠に少女のままでいられる。


 それはただの自殺ではない。この世界から消え去ることで、私は初めて何者かになることができる。


 教室の窓から見える空は、夢の舞台であり、自由への門だった。けれど、日々の生活を繰り返し、そんな夢は成長と共にどんどん遠ざかっていく。もし、ただ一度でも、その夢を現実にできたなら、どんなに美しいだろうか。


 けれど、私には自ら命を断つ度胸なんてない。この夢は私が無価値な現実から逃れるために生み出した妄想だ。


 音楽と自殺の夢。私がこの世界で自分を保つための最後の抵抗だった。


 目の端にかかる黒い前髪を指先でそっと整えながら、私は授業に備え始める。スマホとイヤホンをしまい、代わりに教科書とノートを取り出した。


 黒板の前に立つ先生の姿。やっと静かになるクラスメイト。私も真面目でつまらない優等生の仮面を被る。今日もまた、学問に身を投じる準備ができた。

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