猿に下げる頭はない

ねこきち

第1話 目覚め


 朝を告げる鳥の声が、耳の奥で微かに響いていた。

 穏やかで、どこか幻想のような響き。それに誘われて、意識がじわじわと浮上していく。まぶたを開けると、煤けた木の天井だった。


 薄暗い室内。梁には埃が積もっているが、しっかりとした造りの木材。鼻をくすぐるのは古びた木と畳の匂い、どこか懐かしさすらある空気。


 ゆっくりと身を起こそうとして、体にかけられていたものが滑り落ちた。布団ではない。身体にかけていたのは羽織、あるいは打掛のようなものだった。


――あれ、、、ここ、どこだ?



 見慣れたスマホも、ベッドの縁も、壁のコンセントもない。あるのは、襖、畳、木の柱、そして、枕元に置かれた小ぶりの木の棒。一見ただの木の棒——鞘に納まった刃物の柄にも見える。


 手を伸ばして柄に触れる。木肌の滑らかさと、ずしりとした重みが感じられる。


 ――これは、刀ではないか――。



 心がざわついた。目覚めた瞬間から続く違和感の連続。それらの意味を、脳が理解できずに、脳が焼けるほど頭の中をフル回転させていた。




 そのとき、襖の向こうから男たちの声が聞こえてきた。緊迫感を帯びた、低い声。

「まだ、起きておられんのか」


びくりとした。私のことだろうか。


「はい、まだ眠っておられます」

襖の外にいる女の声が聞こえてくる。


「ええい、殿も若も倒れられては、此度の戦はご舎弟様にお願いするしかないのか。」


 ――ん?殿?戦?は?


「そもそも、武右衛門は若が木に登るのを止めんのだ」


「わたくしも見ておったのですが.......申し訳ございません。」


「もうよい戻る!」


大きな音を立て、男は歩いて行った。


――これは、どうしたものかな。。


「失礼いたします」

襖が小さく音を立てて開く。


そこには、着物を着た見目麗しい女性が座っていた。

その女性が、ハッと目を見開き「若様、、」と呟く。


バタバタと駆け寄って抱き着いてきた。

――いいのですか?きれいな人だから、うれしいけど。。

ふわりとした甘い匂いが香ってくる。

――なんだか懐かしい匂いだった。


甘い匂いが少し離れ、顔を見ると目には涙が浮かんでいた。

「すぐ、武右衛門を呼んできますね」


そのように言ってから、部屋から出ていった。


遠くから、「ぶーちゃん、ぶーちゃん」と聞こえてくる。


――どうなることやら





――ん?ぶーちゃんって誰?




ダダダダ――と廊下から聞こえる音が近づいてくる。



断りもなく、襖があけられる。


「若、大事ないですか?」


――この、少年がぶーちゃんなのだろうか

見えない尻尾が、ぶんぶん振り回されている

――こいつ、犬みたいだな


「若、若、私を覚えておいでですか」


――いや、わからん。

――あ、泣き出した、いかん。

――けど、わからんしな。


「すまない。これまでのことを忘れてしまったようだ」


ああ、と項垂れてしまった。




――ええい、いちかばちかだ

「……武右衛門か?」


項垂れた顔を上げて、パーっとうれしそうな顔になる。

――かわいいなこいつ


「とりあえず入れ」

ぶーちゃん、改め武右衛門は襖を閉め、タタっと俺の布団の前に座る。尻尾はぶんぶんと振れていた。なんか、うれしそうだな。


しかし、無言の時間が始まる。


――どうしようか、今更わからんとも言いずらいぞ



――私は、東京で生まれ育った。

――コンクリートの匂いと、電車のきしむ音で育った。こういう木の匂いも、畳の触感も、祭りの屋台くらいでしか知らない。

――それと、だ。

――さっきから耳に入ってくる「若」「殿」「武右衛門」、そして目の前には髷、着物……。現代じゃない。おそらく、私は――

「時を越えたのだと思う。あるいは、誰かの身に“憑いた”のかもしれない」


口にした瞬間、武右衛門の肩がびくりと揺れ、私を見上げる黒目がちの瞳が、子犬みたいに不安で揺れた。


「……若」


「すまない、脅かすつもりはない。だが、どうにも、前のことが霞がかかったみたいでな。お前の顔を見ても、胸があったかくなるのに、どうしても思い出せない」


言いながら、私は自分の額に指を当てる。

――ぶーちゃんに頼るしかない

――分からないものは、分かる者に訊けばいい。




そう思った刹那、空気が裂けた。


鞘鳴り。冷たい線が喉元に置かれる。

視界の端で、子犬のように見えた少年の輪郭が、すっと研がれた刃のように細く硬くなる。まるで、飢えたオオカミのようだった。


「……お前は、だれだ」


低い声。さっきまでの上ずった響きは跡形もない。

刀身はわずかに押し当てられたにすぎないのに、皮膚が紙のように薄く思え、熱い筋が一条走った。


――え、まt


言葉が出るより早く、世界の縁が暗くなる。

天井の煤がふわりと揺れて、落ちてくるみたいに近づいた――









微かな薬草の匂いが鼻をかすめた。

まぶたの裏が白く明るい。私は反射で目を細める。


目の前に、正座した武右衛門。

刀は鞘に収まり、彼の両手は膝の上で固く握られていた。

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