水炉
穏季の終わりが近づいてきた。
ウェノ・マトルの街に帰る姉妹たちの、解放感に満ちた華やいだ声が遠ざかり、やがて大聖堂は巨大な石の塊としての沈黙を取り戻した。
嵐季の前の、年に一度の大きな休暇だった。ソナは何度もミズハも一緒に行くと導母に頼んだが、聞き入れてもらえなかった。名残惜しそうに何度も手を振りながら、街へと降りて行った。
ミズハは一人になった。だがそれは孤独ではなかった。彼女は侮蔑には耐えかねたが、ひとりでいることはへっちゃらだった。彼女はこの孤独な城の中から、羽ばたく方法をいくつも知っていた。塔の上から景色を眺めて過ごしたり、婆やたちの昔話を聞いたり。だが一番夢中になったのは、この神殿の完璧な地図を完成させることだった。
神殿中の本をいくら探しても、それは断片的であって、全体をまとめたものはなかった。幼いころから少しずつ書き留めた地図は、連なり、その全貌を浮かびあがらせつつあった。
だがどうしても埋まらない空間があった。つじつまが合わなかった。なにかがあるはずの地下回廊の途中に。
それはつかもうとしても滑っていってしまう氷。意識から弾かれ、どこかへ滑り落ちてしまう扉。
きっと、何かが隠されているに違いない。そう思うと、ミズハはわくわくするんだ。
私が最初に完成させるんだ。だれよりも先に。そしたらきっと図書館で保存していもらえるだろう。サインをいれて。きっとみんな驚くだろう。あの星の子だって。
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もっと美しく! 鳥やさえずりなんかを聞こえさせて。きっと鳥たちが止まっているといいね。
ミズハは道へと足を踏み入れていた。それは神殿の裏側、大昔に岩盤を直接削り出して作られた壊れかけの階段だった。そしてそれは水炉への近道だった。
岩の間をすり抜け、下へ下へとミズハは降りていった。
雲が体を追い越して上へと向かっていく。黒い海は穏やかだ。じきに嵐季がきたら、この道は通れなくなる。
階段の終わりは、崖のような踊り場だった。
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重い扉を開けると熱い息吹がミズハを出迎えた。生暖かく、硫黄と土の匂いをかすかに含んだ、大地の息吹だ。
全身が熱い湿気に包まれる。冷えたからだを溶かすような、圧倒的な熱。呼吸をするたびに冷えた肺が痛くなるくらいだった。
熱の中心を目指して歩くと、そこは神殿の地下にぽっかりと空いた広大な空洞にでた。
むき出しの岩の壁に埋まった、金属の心臓。それが神殿中に蒸気という血を送り込む水炉だった。頭上を埋め尽くすのは、複雑に絡み合ったパイプと、巨大な風車のようなタービンたち。
その傍らで、一人の老人が椅子に腰かけていた。機械から外れて落っこちた、小さなネジのようだった。赤らんだ顔を傾けてうたたねしているかのようだったが、ミズハが近づくと小さくこう言った。
「灰の子か。ここへきては怒られるよ」
「水炉の番人さま、聞きたいことがあります」
老人は顔をしかめた。
「わしは忙しいんだ。みてみろ、こいつを。こんなに大きいが、赤ん坊と同じだ。いつでも見張っとらにゃぁいかん。おしゃべりをしている暇はないよ」
ミズハは地図を差し出した。
「神殿のどんな秘密も知っていると聞きました」
老人は目をぱちぱちさせて、それをじっくりと覗き込んだ。どうやら興味をひいたようで、その視線は一本一本の線を、ひびを確かめるように丹念に追っていった。そして突然立ち上がった。
老人は地図を覗き込みながら、いくつもあるバルブから目もくれずにその一つのハンドルに手をかけた。
ぐいと引っ張った拍子に、バルブや計器たちが微かに震え始める。縦穴の奥深くから、水が沸騰するようなくぐもった音が聞こえ、次第に大きくなっていく。そして――
ゴオオオオオッ!
凄まじい轟音と共に、部屋にある無数の配管が壊れてしまうかと思えるほど激しく震えた。一瞬で部屋が熱くなった。ミズハは熱風の息苦しさで倒れてしまうのかと思った。
「……なるほど、よくできてるじゃないか。それで?」
「どうしても、じつまが合わないのです」
老人は地図から顔を上げ、ミズハの顔を正面から見た。はじめて興味を持ってもらえたことが、ミズハを喜ばせた。この地図は誰にも見せてこなかったのだ。
「この神殿は、何度も山を削っては、肉やら骨を付け足してきた。わしは煙路については知っていても、通路や壁のことは分からないよ」
「でも、柱たちはきっと動いています」
老人はじっくりとミズハを見つめた。
「どうしてそう思うのかな、灰の子や」
「でなければ、ぴたりと地図同士があうはずだからです」
少しずつ、漏れ出した蒸気たちが窓から逃げていった。落ち着いて息がつけるようになってきた。
老人は、ふう、と長い息を吐き、水炉の熱気とは質の違う、古い時間の匂いがする空気をまとった。その目は、目の前の賢い少女を通り越し、はるか昔を見ているかのようだった。
「…賢い子よ。お前さんのように神殿の謎に挑もうとした者が幾人もおった。誰もその答えにはたどり着けなんだ」
老人はゆっくりと首を横に振った。
「なぜだか分かるか? 」
ミズハは息をのんだ。老人は続ける。
「その間を暴き、入ったものは生涯闇を覗くとな」
老人はミズハに地図を差し出しもどした。
「上に戻るんだ。裏道は使わず、中を通っていくんだよ」
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