黒い水
ナギの霊峰から吐き出される乳白色の溜息は、今日も聖都ウェノ・マトルの荘厳な街並みを濡れそぼらせていた。神殿へと続くメインストリートには、歴史を刻んだ石造りの神官院や巡礼者向けの宿坊が立ち並ぶが、その一角に、明らかに異質な威圧感を放つ建物がある。ヤ=ムゥの経済を牛耳る中央銀行。そして、その隣に黒曜石の巨塊のごとく聳え立つ**「ディマグヌイ・ブラックウォーター・鉱業」**だ。
そのロビーは、美術館というよりは、地質学博物館に近い。磨き上げられた床の中央には、採掘されたままの巨大な水晶の塊が鎮座し、壁面には、この惑星の地層を模した巨大な断面図が埋め込まれている。ガラスの向こう側では、黒く、粘つくような液体――**『コロイド』**の脈が、不気味な光を放っていた。ここは、信仰ではなく、富と資源を崇める神殿なのだ。
最上階にあるヘネ・ディマグヌイ議員の私室は、その教義の聖域であった。
壁一面に、彼が自ら監督した採掘現場から集められた、稀少鉱石の標本がガラスケースの中に並んでいる。惑星の心臓部を切り取って陳列したかのようなそのコレクションは、彼の富の象徴であると同時に、彼が単なる政治家や投資家ではないことを示していた。彼は、この星の富の源泉であるコロイド掘削の、第一人者のスペシャリストでもあった。
ヘネは、執務机の上に置かれた、黒く艶めかしい光を放つコロイドの原石を、まるで我が子を慈しむかのように指先でなぞっていた。この粘つく液体が、星系を動かす血となり、金となる。その価値を、その効率的な採掘法を、そしてその限界を、神殿の誰よりも、産労連盟の役人どもよりも、自分は深く理解している。
だからこそ、評議会でのあの女の言葉が、頭から離れないのだ。
やがて、重厚な扉が静かに開き、招かれた客人が入室する。影を引き連れるようにして現れた、濡れたカラスのような姿。
ヘネは手に持っていた原石から指を離すと、革張りの椅子に深く身を沈め、指を組んだ。ここからは、地質調査とは別の、より繊細で、より危険な「掘削」が始まる。目の前の女――ディウフレーシュ卿という、謎に満ちた鉱脈の、その中心核を。
主導権はこちらにある、と示すかのように、彼はゆっくりと口火を切った。彼女は黒いマスクと、黒い外套を着ていた。ひどい嵐なので雷が鳴り響いている。
「お招きに応じいただき、感謝する、ディウフレーシュ卿。さて、先日の評議会でのあなたの言葉…太陽柱の育成のために、コロイドの集中が必要だとおっしゃった。結構な理想だ。しかし、卿は孤立無援だ。星々の事情にはお詳しいようだが、このヤ=ムゥの、苔の生えたような頑固者たちを動かすだけの力が、今のあなたにはない」
ディウフレーシュ卿は、部屋の影に溶け込んだまま、表情を動かさずに答えた。声には何の抑揚もなかった。
「私はただ、この星が自滅的な破滅を待つだけの現状を」
ヘネは鼻で笑った。理想論者の常套句だ。だが、その理想が時に人を動かすことも知っている。彼は次のカードを切った。
「コロイドの独占など、実際問題、とてもじゃないが無理だ。天導政権も、枢密院も、そして我々産業界も、それぞれの利権で雁字搦めになっている。それを解きほぐすのは不可能に近い」
彼は、わざと少し間を置いた。そして、探るような視線を彼女に向ける。
「それに…私のルートで調べさせてもらったが、あなたが口にした『不採算領域の再編計画』。どうにも怪しい。産労連盟の公式な記録には、そんなものは出てこない。…あなたが見え透いた嘘をつくような愚か者だとは思わないが、これは一体どういうことかな?」
ヘネにとって、これが最大の試金石だった。もし彼女がここで狼狽えたり、言い訳をしたりすれば、この話は終わりだ。しかし、ディウフレーシュ卿は、沈黙したままだった。ただ静かに、ヘネの言葉が影に吸い込まれていくのを聞いている。その揺るぎない静寂は、どんな反論よりも雄弁に、彼女の情報が「こちらの物差しでは測れない」ものであることを物語っていた。
ヘネは内心で舌打ちした。(…太陽柱独自の、情報網か。あるいは、まだ公にされていない、次期議長の個人的な計画か。どちらにせよ、これは「本物」だ)
ディウフレーシュ卿が、静寂を破った。
「私の目的は、体制を再編し、新たな太陽柱が発現するまでです。その後の、この星の勢力図や、誰が富を得るかなどという、いわゆる謀に興味はありません」
「ほう…」ヘネは口の端を歪めた。「だが、それは結果として、絶大な権力の集中を意味する。あなたの息のかかった太陽柱が新たに生まれ、その数が枢密院の過半数を超えれば…あの神聖なる会議は、事実上あなたの手中に収まることになるが?」
「太陽柱の間に、そのような主従や派閥といった、俗世の関係性はありません」
ディウフレーシュ卿は、教科書を読むかのように、淡々と事実だけを述べた。ヘネは、その言葉を信じたわけではなかった。だが、彼女の興味が「政治」ではなく、あくまで「太陽柱の育成」という一点にのみ、狂信的なまでに集中していることは理解できた。それならば、利用できる。
ヘネは、ゆっくりと椅子から立ち上がり、部屋を歩き始めた。まるで、考えをまとめるために。そして、彼自身が導き出した結論を、あたかも彼女への提案のように口にした。
「なるほどな…」
彼は振り返り、ディウフレーシュ卿を真っ直ぐに見た。
「私には、あなたの手助けができる。この私には、産業界の隅々まで張り巡らされた、太いパイプがある。コロイドの生産量を、評議会に隠れて調整することも不可能ではない」
彼はデスクの上の、青白く光る鉱石を指先でなぞった。
「実を言うと、私もかねてより計画していたことがあるのだ。産労連盟の旧式な技術に頼らない、新たな掘削技術。これを完成させ、ヤ=ムゥの資源採掘権を完全に掌握する計画だ。だが、それには星外の特殊な部品と、連盟の目を欺くためのパイプ役が必要でな…。根回しをしてくれる人間が」
ヘネは、そこで言葉を切った。全てを言い終えた。対話のように見えて、その実、彼が問い、彼が疑い、彼が納得し、そして彼自身が協力の道筋を見出した、独り舞台だった。
ディウフレーシュ卿は、まだ影の中にいた。ただ、彼女の周りの空気が、ほんの少しだけ動いたようにヘネには感じられた。それは、この密約が成立した、静かな合図だった。
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