明けない夜へ歩き出す。醒めないようにと願いながら。
冬寂ましろ
6月
第1話
真夜中は、いつだってどきどきする。
部屋をそっと抜け出して、明かりのない廊下を歩いていく。自分の心臓の波打つ音を聞きながら、慎重に。ゆっくりと。そわそわと。
音を立ててしまったらたいへん。母が起きてしまう。そうなったら、きっと母は怒り出す。またお皿を割るかもしれない。私をぶつかもしれない。
どきどきする。
秘密基地に潜入するスパイの映画のように。財宝を狙う泥棒のドラマのように。
それは父と母が大声をあげて争っているときみたく。それは友達が私の悪口をわざとそばで言うときみたく。
とても、どきどきする。
それでも私は前へ歩く。
だって、
だから、こんな暗闇でも歩ける。
だから、怖くても、前へ歩ける。
どきどきする。ずっと私の心臓は高鳴っている。
真っ暗な玄関で段差が足元から伝わると、私はここまでたどりつけたことにほっとした。足先だけでスニーカーを探り当て、ぐにぐにとねじ込むように履く。
それから鈍く光るドアのつまみに触れる。じわじわと動かして、鍵を開ける。
カチャリ。
ひあっ!
鋭い音にびっくりして、自分の口を思わず押さえる。
そっと後ろを振り返る。動くものなんかないはずなのに、じわりと何かが暗闇の中でうごめいているように見えた。
じっとして、耳を澄ます。
……。
かすかに母の寝息が聞こえてきた。
よかった。これなら外へ出られる。
外の世界へつながる扉を、私はそっと開けていく。そろりそろりと扉を動かしていく。
すぐにぬるい風を感じた。それは濡れた匂いがしていた。
え、雨……。
開かれた扉の向こうでは、濡れて色を変えたブロック塀と、子供が乗るおもちゃが寂しそうに雨に打たれているのが、薄白いアパートの光の中に見えた。
私はがっかりした。
せっかくの夜なのに……。
これから夜見さんと一緒に歩くのに……。
手のひらで握り締めたスマホから、ふいにひび割れた明かりが玄関に漏れた。
このままだと母が起きてしまうかもしれない。
どきどきする。とてもどきどきする。
胸元に手を置き、それを抑える。どくんという音が体の中で響いた。
行かなくちゃ。
傘なんかいらない。
夜見さんが待っているんだから。
私は前を向く。暗闇はどこまでも深く広がり、私を怖がらせる。私は心を落ち着けようと息を吐く。それから着ていた黒いパーカーのフードを頭にしっかりとかぶった。
静かにドアを閉める。後ろの暗闇へ何も伝えないように、すべてをかちりと閉める。
行こう。
私は走り出した。
濡れた真夜中の世界へ、静かに駆け出した。
■6月15日 午前1時 横浜 石川町 山沿いの住宅街
薄白い街灯が、石粒の混じる坂道を照らしていた。誰かを待ち続けている光は、ぼんやりとして、どこか寂し気だった。
錆びたフェンスの向こうには、みなとみらいの高層ビルの群れが、水でにじむ水彩絵の具のように、暗い雲を橙色にぼやかしていた。その光景はおだやかで、神様みたいで、とてもやさしそうだった。
私にはそう見える。でも、みんなはそう思ってはくれない。私はフードを深くかぶり、見えているものから目をそらした。
植え込みの木々を押し退けるように生えている紫陽花が、濡れたゴミ箱へ憐みを向けるように群れる青い花を咲かしていた。葉についた雨粒が軒先の小さな灯りを受け、たくさんの宝石をまとったお姫様みたいに、気高く、そして寂しそうに輝いていた。
足が止まる。
もう6月になった。そのことに気付く。それは、私が学校の教室から逃げて、半年が過ぎたということだった。
――厨二病? なにそれ。
――千代が言ってること、わかんない。
――気持ち悪い。すごく気持ち悪いよ、千代は。
みんなが、私を問い詰める。
私に正しさを要求する。
一番の親友は「疲れた」と言って私の手を離す。
担任の先生は私を見て無口になる。
私は……。
私だって……。
でも……。
このまま気を緩めたら、この降りしきる雨みたく泣いてしまう。うねる衝動を抑えるように、私は自分自身をぎゅっと強く抱き締める。
「前のものに向かって進みます。主よ。あなたと共に」
学校で教わった聖句を、私は唱える。それは魔法の言葉になった。止めていた足を動かす。また歩き出す。そして駆け出した。
家々に圧し潰されてできたような狭い石段を、一段飛ばして降りていく。生い茂る大きな木に覆われて、階段の下の様子を見ることができない。私は点々と灯されたスポットライトを飛び跳ねるように、先が見えない暗い石段を駆け降りていく。
やっと石段の終点が見えてきた。途切れた先は少し広い道路につながっている。ライトを照らした車が、獣のようにのそりと通り過ぎていく。
石段が左へ広がる。広がったその先に夜見さんがいるはず……。
いた!
夜見さんは、透明な傘を肩にかけながら、街灯の下で小さな文庫本を開いていた。
きれい……。
とても、すごく……。
胸にまでかかる星のない夜空のような漆黒の髪、雪のように白いほっそりとした手、細い体を包む大きな淡色とカーディガン。すらりとした足を隠してしまうデニム。そして、かけている黒縁メガネの奥から伝わる強い眼差しは、真剣に本を見据えていて……。凛々しいとか、美しいとか、あと……。
夜見さんは夜そのものだった。私をどきどきさせる真夜中の正体だった。
心がぎゅっとなる。
こんな人が、私と散歩してくれる。
こんな私と……。
私は胸に手を当てる。弾む息を落ち着ける。それから夜見さんへ声をかけた。
「すみません。遅れました」
夜見さんはパタリと本を閉じる。それから私を見上げて、やさしく微笑んでくれた。
「大丈夫だよ。ちょうど読みたいところが読めたから」
夜見さんのハスキーな声が私の耳をなでていく。私に見せてくれたその表情だけで嬉しくなる。舞い上がりそうになる。でも、その夜見さんの顔はすぐに曇ってしまった。
「千代ちゃん。傘はどうしたんだい?」
私はフードの端を両手でつかんで、夜見さんに見せられない表情を隠そうとする。
「私には、これでじゅうぶんですから……」
夜見さんが、私を心配そうに見つめる。それから閉じた本をカーディガンのポケットへ押し込めた。
階段を降りてきた私に、夜見さんは傘の半分を差し出した。
「冷えるよ」
「いいんです。私は……」
「私達は不眠同盟なんだ。遠慮することはないさ」
「でも……」
「一緒に歩こうよ、千代ちゃん。それは嫌かい?」
そんないじわるな質問をされたら、私は「うん」としか言えなくなる。
夜見さんが傘を持ち替え、左手で私の腰を抱き寄せる。
ひあ……。
言葉にならない叫びを必死にこらえて、私は夜見さんを見上げる。その顔は初めて会ったあの日と同じ表情をしていた。思い出してしまう。狭い車の濡れた匂い。まとわりつくような雨が降る肌寒い山の中。息苦しくなるこの気持ち……。
私は傘を握る夜見さんの手を見つめる。その細い指先がプラスチックの柄をしなやかに包んでいる。あの日と同じ、その手は冷え切っているように見えた。
夜見さんの手を握りたい。いますぐ握って温めてあげたい。
でも、そんなことをしたら……。夜見さんはどう思うのだろうか。
頭の中で一生懸命言い訳を考える。それじゃ仕方ないよね、と思えるような何か……。ああ、もう。うまく言葉が思いつかない。
勘違いされたい。でも勘違いされたくない。そんな言葉を探して、頭の中がぐるぐる回る。回って、回りすぎて、そして止まってしまった。
精一杯考えたのに、口から出たのはどうでもいい言葉だった。
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