第5話 嫌な夢

息を吸うと喉の奥が引きつって、鋤骨の下が軋んだ。息が止まりかけて、慌てて目を覚ました。自宅の布団の上で、いつも通りに朝を迎えただけだった。

横向きの姿勢で寝ていたせいで右頬に枕カバーの痕がついている気がする。掛け布団から手を出して頬を撫でながら、すこし濡れている感触があった。水の感触を辿ると両方の目だった。左目頭から伝った涙が鼻の付け根を通り越して落ちてきていた。水滴を親指で拭って布団からもそりと起きると軽く頭痛がした。硬い金属の輪で頭を絞められているような鈍痛は、耐えられないこともない。蝉の声が頭に響く。窓の外のグリーンカーテンは水分を失って干からびかけている。

8月の終わりが見えてきて、夏休みの終わりが近づいてきた頃から椿は頻繁に悪夢を見るようになった。

夢の中身は、大体はトラウマの記憶の焼き増しだ。

いつも変わらないのは、一人きりで射場に立っているシチュエーションだということ。よく漂白された衿と、紺色の袴を履いている。弓矢の感触もいつも通りだ。しかし一向に矢は的に当たらない。何本弓を弾いても、矢の先はとす、とす、と盛土に刺さっていく。

椿は幼い頃から弓道を祖母に習っていたので、中学校の弓道部に入部した時点ですでに経験者だった。高校進学後も弓道部で優秀な成績を残し、このままいけば1年生から唯一の選抜メンバーにもなれそうだと言われていた。

「椿ちゃんは格好いいから女の子にモテモテでしょ」と瑠衣からはよくいじられていた。一人っ子の椿にとって瑠衣は本当の姉のような存在だったから、瑠衣が特別椿を可愛がっていることもよく知っていた。

そんな瑠衣の贔屓目を除いても、実際椿は周囲の視線を集めがちだっただった。長身で頭が小さく骨格に恵まれ、白い肌に黒髪ロング髪を結いあげる姿は涼やかで袴が良く似合っていた。派手に目立つ華は無いが、全体的に均衡がとれていてバランスがいい。そして普段はあまり口数が多い方ではないが、弓を弾けばほとんど命中する。弓を構えた姿は様になっていて、よく弓道部の練習場の外にギャラリーの女子が来ているほどだった。クラスの男子も一目置いていたけれど、どこか話しかけづらい感じだった。話しかけたら逆に目立ってしまうようなポジションだったともいえる。

しかし椿が同じ部の先輩女子に告白され、断ったことをきっかけに、椿の周りを取り巻く空気が微妙に変わり始めた。

椿に告白してきたのは2学年上の生徒で、可愛らしい雰囲気の人だった。天然パーマのカールした髪を顎下で切り揃えていて、家庭的な雰囲気を持っていた。その人の友達というよりかは取り巻きに近い上級生たちが椿に目くじらを立てたのだ。

噂が流布するにつれて、椿は実は女が好きで、かなり性に奔放だという話にすり替わっていった。クールな見た目の椿にそんな噂が立てば、真偽不明の噂であっても瞬く間に広がっていく。

椿が一人で耐えていることを、何も異議申し立てをこないということは事実なんじゃないかと都合よく受け止めた上級生は椿に嫌がらせをするようになった。

もとは椿の弓道の腕前を妬んだ上級生の仕業だったが、余波が広がり、次第に周囲の人間関係の歯車が狂い始めた。

椿も初めの方は、心配してくれる同級生たちにも「心配してくれてありがとう。気にしないで」と気丈にふるまっていた。しかしだんだん嫌がらせはエスカレートし、差別的な侮辱を受けるようになった。椿は告白を断っただけだったのに、とんだとばっちりである。

それでも椿はめげないで学校に通い続けた。けれど、椿の中の一本軸になっていた弓道すらもままならなくなっていった。ついに矢が的に命中しなくなってしまったのだ。矢は椿の心象を映したように力無く、的に届く前に落ちてしまう。

一度見失ったら、弓を握る指先の感触がなくて、どんどん分からなくなっていった。的に刺さらなかった矢が地面に落ちて、それを嘲る部員たち。まだ大丈夫、まだ大丈夫、と自分に言い聞かせているうちに、気づけば何も分からなくなっていた。

食べた食事の味が分からない。美味しいという感覚を忘れた。毎朝、玄関の前で足がすくんで、勝手に涙が出てきた。夜になると、矢が地面に突き刺さったときの鈍い音と、弓のしなる感触が脳裏から離れなくて、眠れない。

弓道という核心的なプライドを打ち砕かれた椿に、祖母は「そんな無理してまで学校に行かなくていい」と言ってくれた。そして椿は久しぶりに学校を休み、やっと朝まで眠れるようになった。

去年の冬の事だった。それを今になって思い出すのは、きっと麗が最近恋愛の話を振ってくるからだろう。


瑠衣ちゃんが東京から帰ってきた翌週。

遅番シフトの日に麗は店にやってきた。傘町さんが気を利かせて、閉店後にわたしと麗にかき氷を振舞ってくれた。夏の初めに麗にあげたのと同じ、賄いサイズの小ぶりのかき氷だ。賞味期限の近い苺シロップと練乳を相掛けにしたら、氷の粒子が淡いピンク色に染まった。イチゴミルク味は甘酸っぱくて、舌の上で溶けるときの甘味が段違いに濃い。

シフト表に書いてある通りの分担で、傘町さんは事務所の奥でレシートの清算をし、わたしはかき氷を食べ終えたらカウンターを片付けることになっていた。

わたしがカウンターで布巾を漂泊している間、麗はまだかき氷の溶けた液体を飲んでいた。スプーンで混ぜながら大きめのイチゴの果肉を見つけて飲み込んで、麗は口を開いた。唇の間から、赤く染まった舌が見える。

「椿は、どんな人がタイプ?」

急な質問だった。けれど、カウンター席以外の照明を消した店内は少し落ち着いた雰囲気になっていて、その突拍子のなさが多少ごまかされていた。

「ええっと、急にどうしたの」

「友達と恋バナしたことないんだもん」

「好きな人でもできたの?」

「あー…そんなところ、かも」

麗は首を傾げた。首筋が露わになる。思わせぶりで、ちょっと艶っぽい。目が釘付けになってしまいそうだった。だけど麗はわたしのことを友達だと信じてくれて、話してくれた。だったらわたしはその信頼に応えないといけない。

「麗が好きな人かぁ、どんな人?」

とぼけたような言い方になっていなかったかな。語尾が震えていたかもしれない。カウンターの内側で、指先は震えてしまっている。動揺丸出しだ。

麗だけには、奥に隠しているこんな浅ましい気持ちに一生気づかないでほしい。

「どんな人……」

麗は首の後ろをさすりながらうつむいた。椅子の背もたれに体重を預けて何やら考えている。彷徨わせているその瞳には誰の姿を描いているのだろう。

「言いたくなったら、教えて。わたしは応援してるからね」

カウンターの内側で手のひらを握って震えを殺し、できる限り綺麗な笑顔を作った。麗の顔をまっすぐに見ることはできなかった。どんな表情をしていたかを気にするだけの余裕はない。

「かき氷を食べたら寒くなっちゃった。あったかいお茶淹れてくるね!」

カウンター後ろの暖簾をくぐって厨房に入る。白熱灯の白さに視界がぐらついた。湯を沸かす用のステンレスの手鍋に水を注ぐ。コンロにおいて取っ手をひねると、ガスの青い炎が灯った。泡の浮かんだ透明な水面にあの景色が浮かぶ。

矢が落ちて、的に当たらない。弓を弾いても、弾いても矢は届くことはない。孤立することも嫌がらせを受けることも、苦痛ではあったけれど大きな問題ではなかった。おばあちゃんが教えてくれた弓が思うように弾けなくなったことが苦しかった。女好きだと揶揄されるたびに、あの春の日に会ったわたしの初恋が否定される気がして無性に腹が立った。桜吹雪の中でわたしのことを綺麗だと言ってくれたあの子を、あの子に抱いた澄んだ感情を汚さないでほしい。

沸騰した湯の泡の中には、まだ学校に通っていた頃の自分が沈んでいる気がした。ぐつぐつと煮えたぎる透明の下で蹲ったまま。

湯を冷まし、茶葉を入れた急須に移してから注ごうとしたら、手元が狂った。

「あっつい!!」

少量だが手の甲にかかってしまった。動揺しすぎだ。大きな声が出てしまう。いつもは傘町さんが真っ先に事務所から出てくるが、気を利かせて早めに帰ったのか事務所に人気は無い。

「椿!! 大丈夫!?」

床に転がった湯呑と手元の急須を見て麗は状況を整理し、「流水で冷やそう」と椿の手を掴んで水道水をかけた。水の冷たさよりも水圧の強さに手がびくっと動く。水を当て続けたらすっかり冷え切って、痛みもどこかにいってしまった。

冷水を当てている間、麗はわたしの手首を握ったまま何も言わなかった。無表情に圧が生まれるのは美形の特権か、と現実逃避的な感想が通り過ぎた。

タオルに手の水分を吸い込ませて、少し経ってからじんわりと痛覚が戻ってきた。皮膚の表面がじんじんして、にわかに赤くなっている。

「痛くない?」

「大丈夫」

「本当に?」

「気にならない程度だよ」

「痛いってことじゃん!!」

麗は仔犬のようにしんみりしたかと思うと急に大声をだした。それから、壊れ物でも扱うようにそっとわたしの両手を包んだ。

「大事な手なんだからさぁ……」

麗の手指は細く骨ばっていたけれど、薄めの手のひらはやわらかかった。

閉まりが甘かった蛇口の栓から水滴が落ち、シンクを打つ音が大きく聞こえる。手を握っている麗の体温が高く感じるのは、椿の手が冷水で冷やされたばかりだったためかもしれない。手を握られていた数秒間が、ひどく長く感じられた。

「やっぱり病院行こうか」

「そんなに痛くないから平気だよ。火傷ってほどじゃない」

「でも……」

さっきまでの怖いくらいの無表情は消えて、麗は両眉を情けなく下げている。長い睫毛の下で瞳がうるんでいる気がする、

「麗は心配性だね。なんで泣きそうな顔してるの」

「してない」

「……麗と付き合う人は幸せだろうね」

だってこんなに優しいんだから。

麗が好きな人と付き合うことになったら今みたいな距離では話せなってしまうのかな。それでも友達でいられるなら、麗が“友達”という椅子をわたしのために一つ用意してくれていること喜ぶべきなのだと思う。それ以上を望むのは我儘だ。


やけど未満の傷は2日経つ頃には忘れてしまうほど良くなっていて、痛みも痺れもなくなっていた。布団から腕を伸ばして手の甲を窓の光にかざしながら、麗が手当てしようとしてくれた傷ならもっと長く残ってくれても良かったのにと思った。

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