第18章:月下の襲撃、砕け散る希望の灯火
深い悲しみが、焼き討ちを逃れた古いロングハウスと、
その周辺に集まったイバン族の村人たちを包んでいた。
アチェン村長の葬儀が、
古来より伝わるイバン族の厳粛な儀式に則って執り行われた。
森の木々がすすり泣くかのように静まり返る中、
ゴングの低く長い響きが魂を鎮めるように鳴り渡り、
女たちの悲痛な哀歌が空気を震わせた。
ロングハウスの中央には、
村長が生前愛用していた狩りの道具や
美しいプア・クンブの布が供えられ、
その傍らでアミンは、唇を固く結び、気丈にも弔問客を迎えていた。
彼の瞳の奥には、深い悲しみと共に、
新たな指導者としての重圧と、
森の魂を受け継いだ戦士の揺るがぬ決意が宿っていた。
アリ・タンとNGOのメンバー、
そして近隣の村々から弔問に訪れた人々、
さらには事件を知って駆けつけた数名の外国人ジャーナリストも、
その葬儀の様子を静かに見守っていた。
彩花と凜もまた、イバン族の伝統的な黒い衣装を借り受け、
参列していた。
彩花の胸には、自らが撮影した映像が引き起こした世界の反応と、
目の前で失われた命の重みが深く刻まれ、
科学者として、そして一人の人間として、
この不正義と最後まで戦い抜くことを改めて誓っていた。
凜は、アミンの隣に静かに立ち、
その背中を支えるように寄り添いつつも、
自身の悲しみもまた深く、唇を噛み締めていた。
夜を徹して弔いの儀式が続けられた。
村のシャーマンが、村長の魂を祖先の元へ導くための古の言葉を紡ぎ、
若者たちは勇壮な戦士の舞を捧げた。
アミンは、村長から受け継いだ古い槍を手に、天を仰いだ。
その姿は、悲しみの中にありながらも、
イバン族の不屈の精神そのものを体現しているかのようだった。
その厳粛な葬儀の喧騒の陰で、卑劣な計画は進行していた。
農園側は、村人の中に多額の借金を抱え、
生活に困窮している男がいることを突き止め、
金銭と「借金からの解放」をちらつかせて買収していたのだ。
男は、村の誰もが村長の死を悼み、儀式に集中している
その隙を狙い、彩花たちが寝泊まりしているゲストハウスの
一室へと忍び込んだ。
彼の目的はただ一つ、彩花が使っているノートパソコンの破壊。
そこに、農園の不正を暴くための論文データや、
これまでの調査記録が全て保存されていることを、
農園側は執拗な調査で突き止めていた。
葬儀が終わり、静けさが戻った夜。
明日は、東京へ帰国する日だった。
数日間の疲労はピークに達しており、
彩花と凜はゲストハウスの自室で深い眠りについていた。
ランタンの灯りは消え、部屋はジャングルの闇に包まれている。
夜半過ぎ、彩花はふと喉の渇きを覚えて目を覚まし、
水を飲もうと手探りで枕元の水筒を探したが見当たらない。
おそらく共有スペースに置き忘れたのだろうと思い、
そっとベッドを抜け出した。
凜を起こさないよう静かにドアを開け、
用を足しがてら水を確保しに部屋を出た。
数分後、彩花が自室へ戻ろうとした時、
ドアが僅かに開いていることに気づいた。
自分が出た時には確かに閉めたはずだ。
胸騒ぎを覚えながら、そっと隙間から中を覗き込む。
消えかかった月明かりが窓から差し込む薄暗い部屋の中に、
人影があった。
その影は、机の上に置かれた自分たちのノートパソコンに
手を伸ばそうとしていた。
息をのむ彩花。見間違いではない。
痩せこけたシルエット、それは村人の一人、ハサンだった。
彼のもう一方の手は、何かを隠すようにポケットに押し込まれている。
「ハサンさん……!?」
彩花が思わず上げた声に、
ハサンは電流が走ったようにびくりと肩を震わせ、
素早く彩花の方を振り向いた。
その目は暗闇の中でも分かるほど見開かれ、
怯えと焦りで激しく揺れていた。
「な、何を……しているんですか……?」
絞り出すような彩花の声。
ハサンは何も応えず、
次の瞬間、まるで追い詰められた獣のように、
彩花を突き飛ばすようにしてノートパソコンをひっつかんだ。
「きゃあっ!」
不意を突かれた彩花は床に手をつき、短い悲鳴を上げた。
その物音と悲鳴で、
隣のベッドで眠っていた凜が勢いよく跳ね起きた。
「彩花!どうしたの!」
部屋の入り口で尻餅をついている彩花と、
ノートパソコンを抱えてドアから逃げようとするハサンを認め、
凜は即座に状況を理解した。
「ハサン!待ちなさい!」
凜が鋭く叫ぶ。
ハサンは凜の制止を振り切り、
彩花が落としたままになっていた小さな携帯用ランタンが
転がって照らす薄暗い部屋から飛び出そうとした。
凜がベッドから飛び降りてハサンの腕を掴もうとするが、
ハサンはそれを振り払い、獣のような低い呻き声を上げながら
闇の中へと飛び出した。
その時、彼の口から苦しげな、途切れ途切れの言葉が漏れた。
「待って!」
彩花が叫び、凜もすぐさま後を追おうと部屋を飛び出した。
ハサンの姿は、すでに夜の闇に吸い込まれようとしていた。
「何事だッ!今の物音と叫び声は!凜、彩花、無事か!」
その時、騒ぎを聞きつけたアミンが、寝込みを襲われた獣のような
鋭い気配をまとってロングハウスから飛び出してきた。
パソコンを盗まれ呆然とする彩花と、
怒りに顔をこわばらせてハサンが逃げた方向を睨む凜、
そしてゲストハウスのただならぬ様子から、
アミンは瞬時に何が起きたかを悟った。
「パソコンが……まさか、ハサンが!」
凜が悔しそうに呟く。
「農園に買収されて、パソコンを盗んで逃げたんだ。
農園に届けるつもりだ!」
その言葉に、アミンの全身から、
まるでマグマのような激情が噴き出した。
彼の瞳は瞬時に赤く充血し、顔の筋肉が怒りに引き攣る。
「ハサン……貴様ァァァッ!!
あのパソコンを農園に渡す気か!」
森の精霊の怒りを宿したかのような絶叫と共に、
アミンは風のように闇の中へと駆け出した。
凜と彩花も、アミンの後を必死に追った。
「待て、ハサン!どこへ逃げた!卑怯者が、出てこいッ!!」
アミンの怒号が、村長の死を悼む静寂を無残に引き裂き、
夜のジャングルに木霊する。
それは、裏切られた友への叫びであり、
踏みにじられた誇りの咆哮であり、
そして、守るべき民を導くリーダーとしての、魂の慟哭だった。
しばらく追跡すると、ジャングルの端、農園へと続く道の手前で、
息を切らしたハサンに1台の車が近づく。
車から出てきた農園の作業員らしき男に、駆け寄ろうと
しているのが見えた。
男の手には、報酬らしき封筒が握られている。
「ハサン!何をやっている」
アミンが雷鳴のような声を上げ、ハサンに飛びかかった。
ハサンが抱えていたノートパソコンを、
農園の作業員らしき男は受け取ると、車を急発進させた。
短い格闘の末、アミンはハサンを取り押さえた。
しかし、ハサンはもはや抵抗する気力もなく、
泥と草にまみれ、恐怖と絶望に歪んだ目でアミンを見上げている。
アミンは、ハサンを地面に力任せに押さえつけると、
その胸ぐらを掴み上げた。
「言え……なぜだ……なぜ、お前がこんな真似をした!
アチェン村長が、どれだけお前たちのことを気にかけていたか、
忘れたとは言わさんぞ!」
「あのパソコンは、俺たちの最後の希望だったんだぞ!
それが、農園の手に渡ってしまったじゃないか!」
その声は、怒りを通り越し、深い悲しみに染まっていた。
ハサンは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げ、
途切れ途切れに訴えた。
「 農園の金があれば…借金が返せる…。俺は…ただ…家族を…」
「黙れッ!」
アミンはハサンを突き放した。
「お前の事情など知ったことか!」
「その金のために、お前は魂を売ったんだ!
村長の想いを、俺たちの未来を、
あのパソコンごと農園に売り渡したんだぞ!」
怒りに我を忘れ、アミンは足元の木の棒を拾い上げ、
ハサンに振りかぶった。
「アミン、待て!」
凜が、アミンの腕を必死に掴んだ。
その手は震えていたが、瞳には強い光が宿っていた。
「パソコンは…農園に渡ってしまったかもしれない。
でも、データなら…まだ、全てが消えたわけじゃない!」
「教授に送った論文のコピー、重要な調査データは全て
バックアップを取ってある!クラウドにも、解析途中の
データもいくつか残っているはずよ!諦めるのはまだ早い!」
アミンの振り上げた腕が、ぴたりと止まった。
その瞳が、激しく揺れる。
怒り、悲しみ、そして凜の言葉が示す僅かな希望の間で。
「本当か……凜……。農園にデータが渡っても、まだ……?」
アミンのかすれた声が震える。
「ああ。時間はかかるかもしれない。でも、必ず復元させてみせる。」
「農園の連中がそのデータを悪用する前に、私たちが先に
真実を世界に公表する。」
「だから…アミン、頼む!憎しみの連鎖は、ここで断ち切って…」
凜の言葉に、アミンは苦悶の表情を浮かべ、天を仰いだ。
やがて、長く、重い息を吐き出すと、
手の中の木の棒をゆっくりと地面に落とした。
「……分かった。」
その声は、まだ怒りの余韻で震えていた。
「だがハサン…お前の罪は、決して消えない。
村の掟に従って、裁きを受けてもらう。」
彩花は、ノートパソコンが奪われ、全てのデータが
悪党の手に渡ってしまったという事実に打ちのめされていたが、
凜の力強い言葉にわずかな光を見出そうとしていた。
「私たちのデータが…農園に……。
でも、まだ……希望はあるのね……?」
アミンが、その小さな肩にそっと手を置いた。
「顔を上げろ、彩花。下を向いている暇はない。
俺たちは、まだ戦える!」
凜も、彩花の手を強く握った。
「そうだよ、彩花。農園は、私たちの研究を、
そしてこの村の真実を、決して闇に葬ることなんてできない。」
「論文は、必ず完成させる!日本へ帰って、世界に発信するんだ。
奴らが盗んだデータで何かをする前に、必ずな!」
ランタンの灯りが、三人の疲弊しきった、
しかし、決して折れてはいない瞳を照らし出していた。
ハサンの嗚咽だけが、夜の静寂に吸い込まれていく。
ボルネオの森は、この裏切りと、それでもなお潰えぬ希望の全てを、
静かに見守っていた。
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