第11章:心の裂け目

彩花はホテルの狭いデスクに腰かけ、

風呂上がりの濡れた髪をタオルでざっと拭きながら、

ノートパソコンを開いた。


シャワーの熱がまだ体に残り、清潔なシャツの袖をまくって、

書き終えた論文の原稿をスクロールする。


画面には汽水域の幼魚データを整理した表とグラフが並び、

彼女の目に静かな達成感が宿る。


机の隅では、サリバトールの幼魚が小さな容器の中で泳ぎ、

水面が微かに揺れていた。


窓の外、サラワク川が朝陽に照らされてきらめき、

部屋に差し込む光がコーヒーの湯気と絡み合う。


眼鏡を外しデスクに置くと、軽く首を振って髪の水滴を落とした。

「この内容で…ちゃんと届くかな。」と呟き、

指先でキーボードを軽く叩いて修正箇所をチェックする。

ふと、凜の笑顔が頭をよぎり、満足感に小さな寂しさが滲んだ。


同じ朝、凜は意を決してスマートフォンを手に取った。

連絡先は、NGO「Save the Orangutan Forest」のアリ・タン。


ジャングルでの出会い――

アリの鋭い眼光と、密輸犯を追い詰めた力強い姿が脳裏に蘇る。

彼女なら、村の危機を理解してくれるかもしれない。

深呼吸し、凜は電話をかけた。


ジャングルの端、信号が不安定な場所で、

呼び出し音が途切れ途切れに響く。

数回のコール後、低く落ち着いた声が応答した。

「アリ・タンだ。誰?」

その声には、疲れと警戒心が滲んでいた。


凜は喉の詰まりを押し殺し、言葉を紡いだ。

「アリさん、凜です。オランウータンの密輸を止めたときの…。」

彼女の声は、緊張でわずかに震えていた。


「ああ、凛か。元気だった?」

アリの声が少し和らぐ。


凜は拳を握り、村の苦しみを思い出しながら続けた。

「実は、相談があって。私がいるイバン族の慣習地が、

農園企業に脅されているんです。植林を妨害され、暴力まで…」


声は怒りと無力感で震え、頬の痛みが言葉に滲む。

「撮影した映像もあります。NGOの支援が必要なんです!」


電話の向こうで、短い沈黙が流れた。

アリは慎重に言葉を選び、答えた。


「凜、情況は分かった。土地紛争や暴力は、この地域じゃ珍しくない。」

「だが…チームは今、密猟、密輸ルートの摘発で手一杯だ。

リソースが限られてる。」

「君たちのケースは記録し、調査の優先リストには入れるが、

すぐには動けないかもしれない。」


凜の胸に、希望がしぼむ感覚が広がった。

「すぐには…って、どれくらい?」

思わず鋭さを帯びていた。


アリはため息をつき、率直に答えた。

「数週間、場合によっては数ヶ月。

法的な支援や現地調査には、資金と専門家が必要だ。」


「企業が絡む土地紛争は複雑で、証拠が揃わないと動けない。

君の映像や、慣習地の書類があれば話は早まるが…」

「それでも、優先順位は他の緊急案件と比べられる。

悪いな、凜。これが現実だ。」


凜は唇を噛み、ノートを握る手に爪が食い込んだ。

「…分かった。映像は送ります。忙しいのに聞いてくれて有難う。」

平静を装う声の裏で、失望と焦りが渦巻いていた。


アリは少し声を和らげた。

「凜、諦めるな。君たちの情熱は本物だ。

証拠を集めて、データを揃えたら、また連絡してくれ。

私たちも、できる限り動く方法を探す。」


「君みたいな若者が戦ってるなら、希望はある。」

その言葉は温かかったが、遠い約束のように響いた。


「有難う…。」

凜は短く答え、電話を切った。


スマートフォンを握る手が震え、

ロングハウスの木の床に小さな水滴が落ちた。

気づかぬうちに涙を流していた。


(データ…彩花の言ったことは正しい)

(データがなければいくら抗議をしても意味がないじゃないか…)

心の中で呟き、彼女はノートを開いた。


アリの言葉を書き記し、証拠を集める決意を新たに刻んだ。

だが、ジャングルの闇は一層深く、希望の光はあまりにも遠く感じられた。


ロングハウスの中央では、アチェン村長が火を囲み、

村人たちに静かに語りかけていた。


「他のイバン族の集落では、プランテーションが慣習地を飲み込んでる。」

「伐採会社と戦う者もいるが、力ずくじゃ限界がある」


火の光がアチェン村長の顔を照らし、

その瞳に映る炎が凜の胸を熱くした。


彼女はノートに記録しながら、意を決して口を開いた。

「アチェン村長。

今朝、環境団体の知り合いに電話をして救援を求めました…。」


アチェン村長が驚いたように顔を上げ、

「本当か? それで、どうなった?」と問う。


凜は唇を噛み、目を伏せた。

「…すぐには動いてくれないみたいです。証拠や書類がもっと必要で…。」


アチェン村長は目を細め、穏やかに頷いた。

「そうか。簡単にはいかんよ。だが、根気強く進めるしかない。」

その落ち着いた声に、凜の胸に希望と焦りが交錯した。


その夜、凜はロングハウスの縁に座り、川の流れを見つめていた。


星空の下、ジャングルの闇がどこまでも広がり、

遠くで鳥の鳴き声がかすかに響く。


彼女の手には、

アチェン村長や住民から聞き取った話が

びっしり書き込まれたノートが握られていた。


土地紛争の実態、企業や政府の不正、住民たちの苦しみ——

その一つ一つが、彼女の心に突き刺さり、静かな怒りを掻き立てていた。


(彩花…やっぱりお前の言う通りだった。データがなきゃ、動けない…)

弱音が心をよぎるが、すぐに別の声がそれを打ち消した。


(いや、まだだ。諦めるのは早い)

(この現実を変えるために、もっとできることがあるはず)


ノートを握る手に力がこもり、爪が掌に食い込んで赤い痕を残した。

凜は膝にノートを置き、ペンを手に取る。


怒りを抑えるように、ページの隅にサリバトールのスケッチを始めた。

あの力強い虎の模様、そして鮮烈な赤い瞳

――失われた「約束の聖地」の記憶が、ペン先に蘇る。


ふと、顔を上げると、ロングハウスの広場で

アチェン村長が数人の子供たちに囲まれているのが見えた。


時刻は昼下がり、強い日差しを避けて軒下の影に入り、

村長は柔らかな表情で子供たちに何かを語り聞かせている。

子供たちは熱心に耳を傾け、時折、

きゃっきゃとはしゃぐ声が聞こえてくる。


凜はペンを置き、その光景を眺めた。

村長は、節くれだった大きな手で、地面に落ちていた木の枝を拾うと、

器用にそれを削り始めた。

あっという間に、それは小さな鳥の形に変わっていく。


「ほれ、これはな、『ケンヤラン』という鳥じゃ。

わしらの先祖は、この鳥の飛ぶ姿を見て吉凶を占ったんじゃよ。」


村長がそう言って子供の一人に手渡すと、

その子は宝物のように受け取り、目を輝かせた。


別の子供が村長の膝に乗りかかり、

「村長さん、もっと昔の話して!」とせがむ。


アチェン村長は朗らかに笑い、その子の頭を優しく撫でた。


「そうじゃのう…では、この森がまだ、どこまでも深く、

虎が自由に駆け回っていた頃の話をしようかのぅ。

その頃、川にはな、それはそれは賢い大ワニが棲んでおってな…」


村長の声は、まるで古い歌を口ずさむように穏やかで、

子供たちは物語の世界に引き込まれていく。


彼の語る言葉の一つ一つには、この土地への深い愛情と、

次の世代へ伝えたい大切な想いが込められているようだった。


凜は、その光景から目が離せなかった。

厳しい現実の中で、村長が子供たちに見せる慈愛に満ちた表情、

そして彼らが共有する穏やかな時間。

それは、この村が守り続けてきた、かけがえのない日常の一コマだった。


(この人たちが、こんな風に笑っていられる場所を、

絶対に失わせたくない…)


凜の胸に、新たな決意が静かに、しかし強く込み上げてくるのを感じた。

アチェン村長は、ただの指導者ではない。

この村の魂そのものなのだ、と。


彼女は再びノートに視線を落とし、ペンを走らせる。

川の音に耳を傾けながら、

力強い筆致でサリバトールの虎の模様を描き込み、

赤い目を点々と加えていく。


すると、近くで遊んでいた子どもたちが興味津々に近づいてきた。

少女がスケッチを覗き込み、目を輝かせて言った。

「きれい! それ、タイガーだよね?」


凜が小さく頷くと、別の少年が口を開いた。

「アチェン村長が言ってた。昔はタイガーが川にいっぱいいたんだって。」


子どもたちの無垢な言葉に、凜の手が一瞬止まった。

彼女は顔を上げ、ジャングルの闇を見つめる。

サリバトールの赤い目が水中で輝いていた時代――

その遠い記憶が、今の荒廃した土地と重なり、胸に新たな痛みを刻んだ。


そのとき、遠くのジャングルから重く鈍い唸りが響いた。

赤い目の幻をかき消すような、低く不気味な音。

アチェン村長の顔が強張り、「あれは…」と呟く。


凜も立ち上がり、耳を澄ませた。

音は徐々に近づき、木々の間を抜けて重く響いてくる。


アチェン村長が鋭く指示した。

「様子を見てこい!」


数人の村人が頷き、川の方へ走った。


凜はノートを握り潰すほどの力で手に力を込め、

心臓が早鐘を打つのを感じた。


数分後、村人の一人が息を切らして戻ってきた。

「トラックだ! 企業のマークが入ったトラックが何台か、

武器を持った男たちを乗せてこっちに来てる!」

彼の声は恐怖で震えていた。


アチェン村長が立ち上がり、

「皆、家に入れ!」と叫んだ瞬間、

タイヤの軋む音が響き、怒号が闇を裂いた。


トラックから降りてきた男たちは、農園の関係者ではなく、

雇われた武装集団だった。


手に銃や刃物を持ち、顔には怒りと焦燥が滲む。

「いい加減にしろ! お前らのせいで工事が遅れてんだ!」

リーダー格の男が怒鳴り散らす。


別の男が凄んだ。

「話し合いだ。」

「ここの土地の所有者が誰か、きっちり分からせてやる。」


村の若者たちが石や槍を手に立ち向かおうとしたが、

装備の差は歴然だった。


アチェン村長が凜の腕を掴み、「逃げてくれ、ここは危ない!」と叫ぶ。


だが、彼女は首を振った。

「逃げません。この現実を変えると決めたんです。

ちゃんと見届けます。」

震える声に、揺るがぬ決意が宿っていた。


だが、事態は一気に制御を失った。


村人たちの間に恐怖と緊張が広がる中、

一人の若者が我慢の限界を超え、叫んだ。


「出てけ! ここは俺たちの土地だ! イバン族の魂を舐めるな!」

彼が武器を投げつけると、それが合図かのように、

村人たちの抑えていた怒りが爆発した。


槍が突き立てられ、刃物が唸りを上げ、

武装集団は予期せぬ反撃に怯み、後退した。


だが、興奮した村人たちの勢いは止まらず、

男たちを取り囲み、殴る蹴るの暴行を加えた。


「やめろ! そんなことしても何も変わらない!」

凜は必死に叫んだが、怒りに駆られた村人たちの耳には届かない。

彼女は男たちを止めようと飛び込んだが、

逆に突き飛ばされ、地面に倒れた。


その瞬間、男たちのリーダーが悲鳴を上げた。

村人の一人が振り下ろした刃物が、彼の腹を深く切り裂いたのだ。

血が地面に広がり、赤黒い染みを作る。


武装集団の目に宿っていたのは、

もはや恐怖ではなく、狂気じみた怒りだった。

「この野蛮人ども! やってくれるじゃねえか!」


男たちは手にしていた銃を村人たちに向け、引き金を引いた。

乾いた銃声がジャングルに響き、

悲鳴と怒号が交錯する地獄絵図が広がった。


その中で、一人の男が銃を握る手に迷いを見せた。

震える手で銃を構え、苦悶の表情を浮かべる。

「やめろ…こんなの間違ってる…」

彼の声は、銃声と混乱にかき消された。


凜は川岸へ駆け、子どもたちを安全な場所へ避難させようとした。

だが、武装集団はそれを許さず、威嚇射撃を放つ。

弾丸が木々に当たり、葉が散乱する。

耳元で風を切る鋭い音に、心臓が締め付けられた。


一人の男が「動くな、ガキども!」と叫び、

銃を構えた瞬間、少女が恐怖で立ち尽くした。


凜は考えるより先に少女を抱き寄せ、自分の体で庇うように身を投げ出した。

直後、銃声が轟き、左腕に焼け付くような鋭い痛みが走った。

熱い血が手の甲を濡らし、腕の中で小さく震える少女の体温が、

凜の胸を締め付けた。


その刹那、川岸の茂みから低い声が響いた。

「――凜ッ!」アミンだった。


乱れた髪を片手で払い、肩に漁の道具らしきものを背負ったまま、

彼は武装集団に向かって歩み寄る。


「女子供に手ぇ出すな」吐き捨てるように低く言い、

「もうやめろ!」と一喝した。


男の一人がアミンに銃を向け、「近づくな、撃つぞ!」と怒鳴る。


だが、アミンは目を細め、

「俺は丸腰だ。撃つなら撃ってみろ」と吐き捨て、一歩も退かなかった。


別の男が銃を構えるのを見たアミンは、とっさに網を投げつけ、

怯んだその男の腕を掴んでひねり上げた。

銃が地面に落ち、鈍い音を立てる。


「やめろと言っているのが聞こえねえのか!」

アミンは凜を背後にかばうように立ち、

毅然とした態度で男たちを睨み据えた。


武装集団はアミンの気迫に一瞬たじろいだが、

すぐに別の男が刃物を手に迫る。


アミンは冷静に距離を詰め、相手の手首を叩き落とし、

刃物を川辺の土に突き刺させた。


凜は残る力を振り絞って立ち上がり、

庇っていた少女を近くの村人に託すと、「早く逃げて!」と叫んだ。


ふらつく凜の体を、アミンが駆け寄り力強く支えた。

「何考えてやがる、死ぬ気か?」苦々しげに低く呟く。


腕から血が流れ落ち、凜はか細い声で「ごめん…」と囁いた。


「黙って…掴まってろ!」

アミンはそう言うと、凜を横抱きに抱え上げ、茂みへと急いだ。


その間にも、武装集団の一人が村の端のロングハウスに火を放ち始めていた。

乾いた木材は瞬く間に炎を上げ、黒い煙が空高く立ち昇る。


子どもたちの泣き声と男たちの怒号、そして燃え盛る炎の音が交錯し、

ジャングルは悪夢のような混乱に包まれた。


凜はアミンの腕の中で、薄れゆく意識を繋ぎ止めようと必死だった。

「放して…まだ、行かなきゃ…」と訴えるが、

アミンは「黙ってろ、もういい!」と低い声で一喝した。


視界が霞み、遠のいていく。

その中で、ふと彩花の心配そうな笑顔が脳裏をよぎった。

「彩花…」そう呟いたのを最後に、凜の意識は途絶えた。


ノートが力なく手から滑り落ち、血に濡れたページが、

熱風に煽られて虚しくはためいた。


アミンはぐったりとした凜を見下ろし、

「…ったく、無茶しかしねえな、お前は」と苦々しくも優しい声で呟いた。


彼女を慎重に肩に担ぎ上げると、

「死ぬんじゃねえぞ、凜」と声をかけながら、燃え盛る村を背に、

川沿いの茂みを抜け、安全な場所へと足を急がせた。


炎と煙が故郷を包む中、アミンの力強い足音だけが、

ジャングルの土を踏みしめていた。


彩花がホテルで論文をまとめている最中、

アレックスからの電話が鳴り響いた。

「彩花、大変だ。凜が発砲事件に巻き込まれて怪我をしたんだ。」

と、アレックスが慌てた声で告げた。


彩花は息を呑み、驚愕に目を見開いた。


「村に…武装した集団が押し入ったらしい。」

「詳しい状況はまだだが…凜が撃たれた、と。

アミンが助け出したそうだが、容態が…」

アレックスの声は早口で、ひどく狼狽していた。


彩花は一瞬言葉を失い、ノートパソコンを閉じた。

「え、どういうこと? 凜が…アミン?」と呟き、

思考が乱れ、手が震えた。


「今、クチンの病院に運ばれたそうだ。すぐに行ってくれ」

とアレックスが畳み掛けた。


彩花は荷物をまとめ、急いで病院へと向かった。


車の中で、彼女の胸の奥では凜への後悔と罪悪感が激しく渦巻いていた。

(凜…。私がそばにいなかったからだ)

(私が間違っていたの? あなたが戦った現実こそ大事だったの?)

(アミンが…助けてくれた?)


眼鏡のレンズに夕陽の淡い光が反射したが、

その奥の瞳は、深い悲しみと葛藤に濡れていた。

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