赤い目のフグと破れた論文
たんすい
第01章:再会の前奏曲
何度も、同じ夢の中に引き込まれる。
静かな深い森。
一条の光が川面に差し込み、
たくさんの命が殻を破って生まれてくる。
命の鼓動が響き合い、
生き物たちはゆらゆらと螺旋を描き、空中で舞っている。
研究は心を惹きつけるものの、
数字で表される無機質な点と線は、終わりのない螺旋のようだ。
それは甘美な罠となって、私を捕らえようとする。
出口のない迷路を彷徨うような焦り。
私はただ川辺に立ち、
小さな命の光が消えていくのをじっと見つめている。
暗い淵を切り裂くように、
虎の模様をした赤い目のフグが現れる。
熱帯の深い森へと誘うような、情熱的な雰囲気を漂わせている。
『帰っておいで』と囁くようなその目は、
心の奥で激しく燃える炎のようだ。
『帰らなければ』という強い思いに突き動かされる。
重い鎖に繋がれたような感覚だけが残り、
私は現実の世界へと引き戻される。
意識がゆっくりと、夢から覚めていく。
「帰っておいで」という囁きが、心に残り、
記憶の奥をそっと揺さぶる。
緑豊かなボルネオの森。
あの場所へ帰ればいいのだろうか…。
赤い目のフグ、サリバトール。その強い印象が心に残る中、
私は大学の図書館にいた。
目が覚めると、
図書館のひんやりとした空気が体に染み込むようだった。
目の前のパソコンの画面に映る論文の文字は、
鮮やかだった夢の世界を拒む壁のよう。
彩花が取り組んでいるのは、
ボルネオに生息する淡水フグの生態を解き明かす研究。
でも、データが足りず、
教授の厳しい言葉が重くのしかかる。
「彩花君、研究は情熱だけでは進まないよ」。
教授の言葉は、
かつて「ふく」と呼ばれていた頃の無邪気さを、
どこかへ追いやったかのようだった。
あの頃は、「好き」という気持ちだけで、
すべてが輝いて見えたのに。
今は、純粋で熱い好奇心を分厚い氷の中に
閉じ込めてしまったかのようだ。
その氷は、溶ける気配さえない。
彩花は眼鏡をかけ直し、そっと目を閉じる。
深い溜息が冷たい空気と混ざり合う。
指で眼鏡の縁をなぞる。その仕草は、
まるで昔の自分との距離を測る、静かな儀式のようだった。
鞄から封筒を取り出す。
美咲と海月先輩の結婚式の招待状。
淡いブルーのフグの絵が描かれた、
美咲らしい繊細なデザインに、彩花の表情が少し和らぐ。
コートを手に取り、ゆっくりと歩き出す。
都心へ向かう電車に乗り、窓の外を見る。
過去と現在が、
川面に映る影のように入り混じる。
今日、美咲と海月先輩の結婚式で、
私たちは再び顔を合わせる。
アクア部で一緒に過ごした日々は、
今も心の中で温かく輝いている。
懐かしさと再会への少しの緊張、
そして過ぎ去った時間への寂しさが、静かに心を揺らす。
電車の揺れに身を任せながら、
彩花の心はあの頃へと遡る。
あの部室のドアを開けた瞬間、
彩花の世界は鮮やかに色づいた。
何かに導かれるように出会った先輩、
そして初めて目にした淡水フグ。
宝物のような毎日。
小さな命の誕生、涙。
初めての治療、不安。
先輩の言葉、支え。
知った、命の大切さ。
「好き」という気持ちが私を動かす。
けれど、先輩との別れは突然だった。
部室に残された重い静寂。
「ボルネオへ行こう」――あの約束だけが、
心の奥深くに突き刺さっていた。
一人になった部室で、私はただ立ち尽くしていた。
部室は、新しい仲間たちで賑わい。
そして、ついにボルネオへの約束が叶えられた。
命の鼓動に触れ、凜は涙した。
過去を乗り越え、「サリバトールを守ろう」と誓った瞬間。
仲間たちと語り合った日々。
でも、時は流れ、それぞれの道へ。
大学に入ってから、連絡は少なくなった。
まさか、美咲と海月先輩が結婚する日が来るとは、
あの頃の私たちには想像もできなかった。
それでも、心のどこかで、
二人の間に流れる静かな絆を感じていたのかもしれない。
控えめで少し臆病な美咲と、
いつも気だるそうにしながらも、
優しさを秘めていた海月先輩。
二人の関係は、あの部室の中で、
まるで月明かりのような、特別な光を放っていた。
結婚式場は、静かな丘の上に佇む白いチャペル。
隣接する庭園では、色とりどりの花々が風に揺れ、
甘い香りを運んでくる。
招待客の笑い声が、木々のざわめきと重なり合う。
彩花はドレスの裾を直し、会場を見渡す。
淡いグレーのドレスは、
彼女の落ち着いた雰囲気を引き立てている。
首元のペンダントは、
美咲と高校時代を共に過ごした大切なもの。
指先でその感触を確かめ、温かい気持ちが胸に広がる。
「久しぶり」
後ろから聞こえた声に、彩花は振り返る。
そこに立っていたのは凜。
以前はパーカーのフードを目深に被り、
「俺」と自称する、どこか影のある勝ち気な少女だった。
今は黒いシックなワンピースに艶やかな長い髪を下ろし、
すっかり落ち着いた大人の女性へと変貌していた。
鋭かった瞳の奥には、
湖のような穏やかな光が宿っている。
完璧主義だった頃の鋭さは、
まるで霧のように消えていた。
「お久しぶりです、凜さん」
凜は微笑む。
「もう、凜でいいよ。成人したんだから。元気だった、ふく」
その懐かしい呼び方に、彩花は一瞬目を丸くした。
「ふくって呼ばれるの、久しぶり。なんだか照れくさいね。
凜も、昔みたいに『俺』って言わなくなったんだ」
凜は頬を染め、
「…まあ、大人になったしな」と返す。
その声は、風のように穏やかだ。
「まさか、美咲とくらげが結婚するなんてな」
凜の瞳は、遠い記憶をたどるように揺れる。
「本当にびっくりだよね」と彩花も頷く。
アクア部の部室で笑い合った日々が、
二人の間に静かに蘇る。
短短い沈黙が流れたが、
それは過去を慈しむかのような、心地よい間だった。
「私は、結婚なんて柄じゃない。
今はまだ、やりたいことが山ほどある」
凜の声には、情熱と冷静さが、
陽と影のように共存している。
彩花は笑い、「凜らしいね」と応じる。
「ふくこそ、元気だった?研究なにしてる?」
凜の心配そうな声に、彩花は苦笑する。
「うん、サリバトールの研究なんだけど…色々あってね。
いつも同じ壁にぶつかって、なかなか前に進めないんだ。」
「好きな研究のはずなのに…まるで甘い蜜に囚われた蝶みたいに、
抜け出せない。もしかしたら、私にとって研究は毒なのかもしれないな」
「毒、か…。昔の彩花なら、それすら自分の力に変えてしまいそうだけどね。
でも、すごいじゃない、サリバトールの研究なんて」
凜は励ますように言った。
凜の言葉に、彩花は今度こそ心からの笑みを浮かべた。
「私は、大学で魚類の研究してる。もちろんフグだけど」
「いいね。凜は。夢に向かって真っすぐで」
「毎日が発見の連続で、本当に楽しいよ。
それに、念願だったバイクの免許も取ったんだ。」
「これでフィールド調査の幅もぐっと広がる。
…サリバトールかぁ。いつかバイクでボルネオの森を走ってみたいな」
「ボルネオ…」
その言葉に、彩花の胸の奥で何かが小さくざわめく。
忘れかけていた熱い想いが、心の奥で再び胎動を始めるのを感じた。
研究は行き詰まり、情熱は冷えかけていた。
かつての自分は、どこへ行ってしまったのだろう。
心が、疼くようにざわめく。
あのボルネオの熱気に包まれたい。
――そんな想いが、静かに心の奥底から湧き上がってくる。
二人は並んでガーデンを歩き始めた。
凜の落ち着いた物腰に、彩花は時の流れを感じる。
高校時代の「ふく」も、そして尖っていた頃の凜も、もうここにはいない。
時の流れが二人を大人へと変えていた。
だが、肩を並べるだけで、アクア部で過ごした、
かけがえのない日々が鮮やかに蘇ってくるのだった。
ガーデンの奥に、純白の花々で飾られたアーチが見えてきた。
新郎新婦を祝福するための舞台だ。
二人はそこで足を止め、周囲の招待客たちの楽しげな笑顔に包まれた。
「彩花!」
明るい声がして振り返ると、そこに美咲が立っていた。
肩まで伸びた髪を揺らし、
白い清楚なワンピースに身を包んだ彼女は、
まるで野に咲く花のような、素朴で落ち着いた美しさを湛えていた。
「美咲!」
彩花は駆け寄り、抱擁を交わす。
「元気だった?」
「うん、なんとか。結婚おめでとう」
「ありがとう。ふくが来てくれて、嬉しいよ」
美咲の隣には、少し照れくさそうに海月先輩が立っていた。
いつもの気だるげな態度は変わらないが、
その瞳の奥には、やはり湖面のような穏やかな光が宿っていた。
「海月先輩、結婚おめでとうございます」と彩花が言うと、
「ありがとう、ふく。本当に久しぶりだな。
今日は楽しんでくれ」と彼は軽く手を挙げる。
「二人とも素敵だね」と彩花が言うと、
美咲は笑い、
「ふくも綺麗だよ。そのドレス、似合ってる」と返す。
美咲は彩花の手を握り、
「ふくは今、何してるの?研究、順調?」と尋ねる。
彩花は言葉に詰まり、
「…まあ、なんとか。でも、最近、悩んでて」
と打ち明ける。
研究の停滞と将来への不安を語ると、
美咲は眉をひそめ、「何かあったの?」と心配する。
美咲は彩花の手を握り、
「ふくはいつも頑張ってる。
でも、昔みたいに、好きにやればいいよ」と言う。
彩花ははにかみ、
「それが出来れば苦労しないんだけど」と笑う。
海月は驚いたように目を丸くし、
「美咲、無責任なこと言うな。
ふくは研究者として真剣に取り組んでる。
俺たちとは違うんだ」と言う。
彩花は感謝と驚きを感じ、
「ありがとう、海月先輩。でも、美咲の気持ちも嬉しいよ」
と答える。
美咲は拗ねつつ、
「ふくが頑張ってるのは知ってるよ。
何かあったら、いつでも言ってね」と言う。
彩花は二人の言葉に心が軽くなり、
「ありがとう。二人とも優しいね」と微笑む。
チャペルの鐘が鳴り響き、厳かな式の始まりを告げた。
その一瞬、彩花の視線はガーデンの奥へと吸い寄せられた。
真紅のベルベットカーテンに覆われた巨大な何かが、静かに、
しかし圧倒的な存在感を放ちながらそこに佇んでいた。
それはまるで、秘密の物語が今まさに
解き放たれようとしているかのようだった。
「美咲に…特別な贈り物をしたくて」
海月先輩の声は穏やかで、そよ風のように柔らかく、
それでいて胸に深く響く温もりを帯びていた。
気だるげな仕草で軽く手を上げた彼の瞳には、
普段の飄々とした態度とは異なる、
静かな情熱が宿っていた。
美咲は小さく息を呑み、驚きの声を漏らした。
「え、なに!?」
会場の照明がふっと落ち、ガーデンの木々を飾るフェアリーライトが、
まるで無数の星屑のように優しく輝き始めた。
それを合図に、会場のスタッフが流れるような仕草でカーテンに手をかけた。
重厚な布が波のように揺れ、ゆっくりと、
まるで大切な秘密を明かすかのように時間をかけて左右に開かれていく。
その奥から現れたのは、
夕陽の光を浴びてきらびやかに輝く、
高さ2メートル近い巨大な水槽だった。
招待客たちのざわめきが水を打ったように静まり返り、
誰もが息を呑んだ。
水槽の中では、透き通った水がまるで琥珀のようにきらめき、
差し込む陽光を屈折させて淡い虹色の光を放っていた。
青々とした水草がゆらめき、
銀色の気泡がきらきらと立ち上る、幻想的な光景が広がっている。
その中心で、ふくよかな体をゆったりと揺らし、
大きな胸鰭を優雅に動かす一匹のフグが、悠然と泳いでいた。
山吹色の美しい尾びれが夕陽に照らされて、
まるで溶けた金のようにきらめいている。
その穏やかな瞳は、ガーデンに集う人々、
そして何よりも、すぐそばにいる美咲を
慈しむかのように見渡していた。
それはただのフグではなかった。
――アクア部で共に過ごした、
かけがえのない存在、ムブだった。
美咲は、その姿を捉えた瞬間、
まるで時が止まったかのように立ち尽くした。
幼い頃に亡くした父親の温かな笑顔が、
堰を切ったように彼女の胸に鮮やかに蘇ってきた。
いつも大きな手で優しく頭を撫でてくれたこと。
一緒にハノイの市場を歩いたこと。
そして、永遠の別れ際にどうしても言えなかった、
「ごめんね」という言葉…。
もう二度と会えないと思っていた父親の面影に、
こんな形で再会できるなんて――。
様々な感情が怒涛のように押し寄せ、
美咲の瞳から、透明な涙が静かに溢れ出した。
それは悲しみだけではなく、喜び、驚き、
そして何よりも深い愛情への感謝が混ざり合った、
複雑で美しい涙だった。
「bố…お父さん、来てくれたんだ。
本当に、本当に、嬉しい…」
震える声は、感謝の想いとともに、
まるで幼い子供のように、
心の奥底から絞り出されたものだった。
嗚咽にも似たすすり泣きと共に、
抑えきれない感動の波が、会場全体に静かに広がっていく。
海月は、そっと美咲に寄り添い、
その肩を優しく抱き寄せた。
照れくさそうに、
けれど、その声は深い優しさと温もりに満ちていた。
「お父さんにも、君の晴れ姿、
一番綺麗な姿を見せてあげたかったから。」
美咲は溢れる涙を何度も袖口で拭いながら、
震える声で
「ありがとう…透也。
こんな素敵なプレゼント、本当にありがとう」
と答えた。
その声は、感謝と愛情、
そして何よりも深い絆で結ばれた二人の心が、
静かに共鳴しているようだった。
そっと水槽に手を伸ばす美咲の指先は、
まるで過去と現在をつなぐ架け橋のようだ。
亡それは、亡き父との束の間の再会を求める、
切実な願いのようにも見えた。
彩花はその光景を温かい眼差しで見守り、
胸にじんわりとした温かな波が広がるのを感じていた。
「美咲、本当によかったね。
お父さんも、きっと一番近くで、
二人の幸せを心から喜んでくれているよ」
凜もまた、静かに呟いた。
「本当に、想像もつかないサプライズだ。
くらげらしいな。」
カーテンの縁に刺繍された淡いブルーのフグの模様が、
ガーデンを吹き抜ける優しい風に揺れ、
水槽から漏れる光を受けて、柔らかく、そして温かくきらめいた。
それはまるで、美咲と海月の新たな門出が、
静かに、しかし確かに芽吹くその瞬間を、
天からの光が祝福しているかのようだった。
祝福するように、どこからか花びらがふわりと舞い落ち、
周囲を優しく彩った。
招待客たちはこの感動的な光景に目を潤ませ、
惜しみない温かい笑顔と祝福の拍手で二人を包み込んだ。
美咲は、涙で濡れた頬をほんのりと赤らめ、
子供のようにはしゃいだ笑顔で
「そろそろ、行こうか。みんなが待ってるよ」
と海月に声をかける。
海月は、その愛おしい笑顔を、
この上なく優しい眼差しで見つめ、静かに頷いた。
そして、彩花と凜に向かって
「じゃあ、また後で。ゆっくり話そう」と言って、
美咲の手をしっかりと握りしめ、
ゆっくりと、未来へと続く道を歩き出した。
彩花は、温かい祝福の光に包まれた二人の幸せそうな後ろ姿を、
感謝と祈りの気持ちを込めて、いつまでも見送っていた。
友人たちとの再会、そして目の当たりにした確かな絆は、
まるで陽だまりのように彩花の心をそっと包み込み、
温かな勇気を与えてくれるのだった。
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