第12話 再びバンチャー巡査の話
さて、色々な問題を抱え、何か邪悪なことを起こしかねない人物はバンチャー一等巡査と確定し、さらに彼の弱点は「トゥッケー」であるらしいことも分かった。あとは、彼がいつ何をしようとしているのか、そしてそれをどうやって防ぐのか、ということだ。残念ながら、警察や役人に頼ることはできない。だって証拠がない。「私たちの霊感によると、彼は悪いことをしそうです。だから逮捕してください」なんて訴えでたら、ホンたちの方が逮捕されかねない。悪手なんてもんじゃない。とはいえ彼の借金(あるとすれば、だけど)を肩代わりし、奥さんに離婚しないよう説得する、というのもちょっと違う気がする。というか、もうそういう状況じゃない、というのは母が毎晩見る悪夢からも明らかだ。
というわけで、ホンたちは引き続きバンチャー巡査とその家族を見守ることにした。バンチャー巡査の家はマーハウ村がある郡の中心にある。市場近くの平屋の家で、表側は妻が経営する美容院になっており、その奥が家族が住む居住空間になっている。日に数度、デーン伯父がピックアップトラックを運転して状況を確認するようにしている。長男の通う小学校は今、夏休み中なので、おそらく長男もこの家にいる。娘の方は、母親が毎朝車を運転して、マーハウ村にある保育園に預けに来る。保育園の見回りはホンの役目だ。ホンも日に数度、保育園が終わる時間まで様子を見に行くことにした。聖はと言うと、ガイの店で給仕係をしていた。「給仕がサーオ・イープン(日本人娘)の店」は物珍しい事が好きなタイ人客で連日大賑わいだった。「綺麗だけどデカい娘だね」「凹凸ないけど、もしかして男の娘?」客たちは容赦なく聖の容姿を評価する。タイ語分からなくて良かったよね、聖。ホンは冷や汗をかきながら、聖が気の毒になる。しかし、聖は気にもとめず(何言ってるか分からないしね)、飄々とした風体で料理を運んでいた。
ソンクラーン正月の最終日、バンチャー巡査の妻と子どもたちがふらりと店に立ち寄った。家で暇を持て余す息子を同伴し、保育園に娘を迎えに来た帰り、娘が突然「日本人娘が見たい」と言い出したらしい。「サーオ・イープン!サーオ・イープン!」と笑いながら繰り返す娘を抱きかかえながら、巡査の妻は店内に入ってきた。タイに来て以来、連日「サーオ・イープン」と連呼されてきた聖はすっかりこの言葉を覚えていた。ニコニコしながら聖が注文を聞きに来た。「アウアライカ?(何が良いですか)」。給仕をするために頭に叩き込んだタイ語だ。
「カノム・チーン2つ。ナーム・ヤーで。あとオレンジジュース3つ」「僕はスパイがいい」いきなり息子が口を挟んだ。聖は微笑みながらゆっくり息子の方を向いた。小学校に入ったばかりの男の子だと言うのに、年齢に似つかわしくない大人びた声音だった。「スパイ?」聖の習っていない新しい単語だ。ここまで黙ってみていたホンが笑いながら飛び出した。「スプライトのこと。いいよ、後は私が聞くから。ここからはサーオ・イープンの代わりにサーオ・タイが注文を聞きますよ!」妻と娘はゲラゲラと笑い出したが、息子はじっと黙ったままだった。聖が軽く目配せしてきたのをホンは見逃さなかった。
注文の品ができるまで、店の隅からホンと聖はじっとこの母子を見つめていた。よくしゃべる娘とそれに合わせる母親。対象的に息子は半分目を閉じたような重いまぶたで表情を隠し、一言も語らずゆっくりとストローでスプライトを飲んでいる。特に体調が悪そうでも機嫌を損ねているようでもない。息子の様子を気にもとめない母娘の様子をから察するに、おそらくこの息子は普段から寡黙な子どもなのだろう。もしかして父親のことに気づいて心を痛めているんかしら。でも母と娘は平気なんだ。変なの…そう思った瞬間、ホンは目の奥に刺すような痛みを感じた。痛っ…何なの、急に。
慌てて右手で右目を押さえるホンを聖が心配そうにみている。そのうち、料理ができたので、ホンは立ち上がろうとする聖を制して、料理をトレイに乗せた。そして笑顔を顔に貼り付けて、バンチャー夫人と子どもたちのテーブルに向かって歩を進めた。
「カノムチーン、ナームヤーです」と言いながら、麺の入った皿、つけ汁の皿、野菜皿を一つ一つテーブルに置いていく。「おいちそう」と娘の可愛い声。「おチビちゃんは母と一緒に食べようね」とバンチャー夫人。息子は黙って座っている。ホンはワザと息子用のつけ汁皿を乱暴に置いたので、汁が飛び、少し息子にかかった。「あら、ごめんね」ホンが明るく息子に謝ると、バンチャー・ジュニアはゆっくりとホンを見上げた。相変わらず半眼状態のまぶたの下で、黒目が動いたのを見た瞬間、再びホンは目の奥に痛みを感じた。なにコレ…こいつ何者…ホンは恐怖を感じつつ、必死に耐えた。「熱かった?」ホンが無理に微笑みながら息子に話しかける。「大丈夫だよ。お姉さんこそ…大丈夫?」と息子も微笑み返してきた。ホンの背中にぞくりとするものが走った。
「人形、揺れてましたよ」厨房に戻った途端、聖が話しかけてきた。厨房の棚の隅に置いておいたホンの土人形がひどく揺れたらしい。何で?しでかすのはバンチャー巡査じゃないの?なんで今土人形が揺れたんだろう?ホンはその場に立ちすくんでいた。
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