第2話 贖罪の旅路
風が、ささやくように野営地の跡をかすめていった。夜明けの光がほんのりとあたりに広がり、世界を淡い灰色に染め始める。燃えかすの残る焚き火の跡は、昨夜ここで人が寝起きしていた事実をひっそりと語るかのようだ。
小さな寝袋が二つ並んでいる。どちらもまだ朝の冷気を払うように薄い温もりを帯びているが、その片方がもぞりと動いた。
かつてギルド最高ランクSを誇ったとされる若き冒険者――レオール・ブラッケン。だが、今その面影をはっきり知る者はそう多くない。彼が目を開けると、かすかな汗が額に浮かんでいた。胸を押さえたまま、ごくりと息を飲む。
「またか……」
混濁した頭で、ほんのひととき前に見た血にまみれた荒野を思い返す。巨大な化け物、どす黒い血飛沫――そこまでは印象的に残っているのに、どうしても細部がぼやける。脳裏にこびりついた赤黒いイメージは、まるで濃厚な影が立ちのぼる残滓のように消えきらない。
「……っ……」
レオールは息を整えるために薄い寝袋から上体を起こし、胸の奥に生まれる妙な痛みに眉をひそめた。だが、視線を下ろせばそこに目立った傷はない。
自分はしっかりと生きている……それだけは紛れもない事実、かもしれない。
彼は短く息を吐いた。立ち上がって腕や脚をさすってみても、ごく軽い張りだけが残っているくらい。あの悪夢で、血が噴き出すほどの大怪我を負った感覚があったのに――しかし、それが所詮は夢なのだと結論づけるしかない。
「まあ、いつもの悪夢……か」
呟きながら、レオールはぎこちなく立ち上がる。
自身の贖罪を紡ぐ旅。その道行きでは多くの不眠や悪夢に悩まされてきた。
自業自得だ、心のどこかでそう思っているからこそ、死にかける夢は、自分に課せられた罰だと考えている。
「それにしても……妙に生々しかったな。血やら、あの巨大な……」
頭の中に化け物の輪郭が微かに宿るが、後一歩のところで記憶はかき消えるように遠ざかる。
喉元を通る吐息に苦い感触が混じっている気もするが、何であれ深く考えるより先に、彼は寝袋から出て体をほぐし始めた。
野営地の朝は冷え込む。淡い朝日が差し込んではいるものの、周囲の空気は鋭さを伴って肌を刺すようだ。腰に差していた剣を見やり、レオールは一度小さく息をつく。金属の冷たい重みを感じてこそ、冒険者の朝が始まるといっても過言ではない。
そこで、小さな足音が近づいてくるのが耳に入った。軽やかだが、やや弾むようなリズム。レオールが振り返ると、ローブ姿の小柄な少女がいて、杖を抱えて無邪気に笑いかけてくる。
「おはよう、レオール。今日もいい天気……かな? あれ、ちょっと曇ってるね」
銀髪と藍瞳の幼い少女。パッと見は十歳そこそこ、まるで旅の道連れには不釣り合いなほど幼い。だが、彼女こそが今レオールと共に行動している、見習い魔術師を名乗るアルテア・ローレライだ。いつもと変わらない、柔らかな調子の声を彼女は宿している。
「……ああ、おはよう。朝飯、簡単なものしかないが食うか?」
レオールは隣に組んだままの荷袋から乾パンと水筒を取り出しつつ、困ったような半笑いを浮かべる。
アルテアは「うん、ありがと」と喜んで受け取り、ぱくりと口に運ぶ。彼女の仕草はあどけなく、仲のいい親子か兄妹のような光景にすら見える。もっとも、ここに至るまでの経緯を思えば――レオールには不思議な縁としか言いようがない。
少し前、アルテアは“行き倒れていた少女”としてレオールに救われた、というのが表向きの話だ。実際には、レオール自身が知覚していない謎が山積みだとしても、少なくとも二人はこうして旅を共にしている。そこに妙な疑念を抱く間もなく、今こうして、淡々と朝食が進んでいくのだ。
「体調はどうだ? あの時、道端で倒れてたから、いろいろと心配してたんだが」
レオールが軽い苦笑とともに言葉を投げかける。アルテアは乾パンをかじりつつ、にこやかに首を振った。
「ありがと。もうバッチリ平気。あのときはほんと、あなたがいなかったらどうなってたか……。助かったよ、レオール」
柔らかな声色で礼を述べる姿は、まるでか弱い少女が冒険者に庇われた場面を再現しているかのようだ。
「そうか。まあ元気になったなら何よりだ」
そう言うと、レオールは軽く頷く。
「それより……お前はまだ俺についてくるつもりか? 本当なら町でゆっくり休んでもいいんだぞ。別に義理立てして、俺に付き合う必要もない」
レオールが宿のような場所で別れるつもりがあることを示唆すると、アルテアは慌てたように手を振った。
「え、やだよ、それは。せっかく助けてもらったのに、恩返しもしないまま置いていかれたら私、困っちゃう……それに私の修行も、こういう過酷な旅でしか積めないじゃない?」
「修行、ねえ……」
レオールは困惑気味に眉を寄せる。幼い身で荒野を行き、見聞を広げたい――まあ、魔術師の見習いならそこまで奇異でもないだろうか。
本人が大丈夫と言うなら、止める権利もレオールにはない。心配は残るが、彼も背負うものがある以上、強く断れずにいる。
「とはいえ……俺にもあまり偉そうなことは言えない。何せ、俺は罪人だからな」
突如、レオールが静かなトーンで呟いた。アルテアの顔がぱっと興味深そうに向かれる。だが彼は視線をそらし、木の幹に背を預ける。
「……大きな過ちを犯したんだ。だからこうして、各地を巡って人助けをしている……いろんなモンスターを倒して人を守りたい。そうするしか、俺の罪は償えないからな」
彼の声には苦い響きが乗る。何があったのか――そこは伏せたまま。アルテアは、あどけなくと首を傾げた。
「そっか、レオールって優しいのにね」
「優しいってもんじゃない。ただ、やるしかないんだ」
彼は鼻で笑うように、自己卑下気味に答えた。
そんなやりとりを経て、アルテアが話題を変えるように口を開く。
「それでさ、北の街グオシアに行くんでしょ? なんだか変わった名前だけど……」
レオールは頷き、口元に乾パンの欠片を押しやりながら言った。
「ああ。世間にはほとんど知られていないらしいが、あそこに行けば俺の力を活かせる機会があるかもしれない。……人々を守るために、な」
人々を守る。それは、レオールの中で何より大きな命題だと彼自身信じている。どんなに自分が泥まみれになろうと、守り通してこそ罪を贖えるという矛盾じみた論理。しかし、そうでもしなければ自分が納得して生きられないのかもしれない。
アルテアはふふっと微笑み、杖を抱え直した。
「レオールって、ほんと不器用だね。でも……いいよ、わたしもついていくよ。北はまだ行ったことないし、きっと修行にもなるだろうし」
「お前……無理するんじゃないぞ? 危険な道のりだって聞いてるからな」
「大丈夫だよ。レオールがいれば安心だし」
そんな他愛ない会話を交わすうち、朝食を終え、二人は寝袋を片付け始める。
曇天に包まれかけた空を見上げつつ、レオールは不思議な少女だなと思わず感じていた。とはいえ、アルテアに対してそれ以上詮索をする気にはなれない。なにせ罪を犯した彼自身も、人からあれこれ嗅ぎ回られるのは心苦しい立場なのだから。
お互い、何も聞かなければそれでいい――そう言い聞かせるかのように、レオールは後片付けを済ませる。
「……じゃあ行くか。北へ」
「うん!」
軽い足取りでアルテアは立ち上がり、レオールとともに細い街道を歩み出す。どこか危うさのあるコンビだが、当人たちはごく自然に進んでいるように見えた。
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