第1話 結婚と婿殿

 遊馬家の離れは、大きな中庭の渡り廊下を抜けた先にある。中庭は枯山水の庭園でよく手入れがされている。


「慶さん、本日よりよろしくお願いいたします」

「あぁ、よろしくね。祝言でたくさん酒を飲まされてもうクタクタだよ」


 慶は疲れた様子で羽織を脱ぐと鏡花に渡した。慶はすらっと背が高く、浅い色の髪をざん切りにしていてとてもお洒落な男だった。少し派手な見た目だが、穏やかな話し方と優しい笑顔で誰とでも仲良くなれる、そんな雰囲気がある。


「鏡花は緊張していたのかい? 祝言の間も宴会の間も楽しそうじゃなかったね」

「申し訳ありません」

「いいや、謝ってほしいという事ではないよ。ただ、あれではまるで望んでいない結婚のように見えたからさ。せっかく綺麗だったのに」

「緊張、していたのかもしれません。堂上家のような華族の方々とお話しするのは初めてだったものですから」


 慶は声を上げて笑うと


「彼らも華族とはいえ人間さ。確かに話しかけにくいのはよくわかるよ。けれど、僕たちの結婚で堂上家とも関わりができた。少ないかもしれないが、今後は話す事も多くなるだろうよ。早くなれることだね」


 と言った。


「慶さん、このあとはどうされますか?」

「うーん、お風呂に入って寝ようか。鏡花はどうするんだ?」

「私は……」

「今日はもう疲れただろう。お互いさっと風呂に入って早く寝ようか。明日はお義父さんと仕事の話があってね。朝六時には起こしてくれるかな」

「はい、慶さん」


 慶は疲れた表情のまま後頭部を掻くと、風呂場の方へと向かっていった。鏡花は、夫に付いていくべきなのか、大人しく待つべきなのか迷い、最終的には布団の準備をすることにした。夫婦の寝室は離れの二階にあり、広い和室であった。新しく張り替えられた畳の井草の香りが心地よく、飾り和紙の行燈はほの暗い部屋を優しく照らしている。

 布団を二組、並べるように敷いてそれから水差しに新鮮な水を準備してグラスをかぶせた。




 初夜、特に何事もなく鏡花と慶は眠りについた。後継ぎを強く望まれている鏡花は、慶の方から誘いがあるとばかり思っていたがそんなことはなく、彼は風呂から戻ってくるとすぐに布団の上に横になって寝息を立ててしまった。


(今日は祝言もあったのだし、きっとお疲れだったのね)


 鏡花は、未だに両親からの言葉に縛られている自分に気がついてハッとした。これからは、親に縛られず自分たちのペースで歩いていけばいいのだ。慶は、鏡花の両親とは違ってのんびりした雰囲気を持っている男だったし、その点では鏡花と気が合うかもしれない。


 鏡花はそんな風に未来に希望を抱きながら、風呂を済ませて彼の隣で眠りについた。



***



「お義兄さま!」


 翌日の昼下がり、仕事を早く終えて団欒を楽しんでいた離れに遊馬すみれがやってきた。すみれは慶を見つけるとにっこりと笑いかけ、彼が腰かけていたソファーに座った。すみれはいつも以上におめかしをしていて、可愛らしい蝶の髪飾りをつけ美しい花模様の振袖を着ていた。


「おや、すみれちゃん。こんにちは、どうしたんだい?」


 そう微笑みかける慶に、すみれは少し近寄って彼の肩に触れぐっと距離を詰める。それを見ていた鏡花は違和感を覚えて、彼女に声をかけた。


「すみれ、どうしたの?」

「あぁ、お姉さま。お母様がお買い物に付き合ってほしいっておっしゃっていたから伝言にきたの。ほら、毎週水曜日には母屋でディナーをするって決まったでしょう? その買い出し。そうだ、お母様にすみれがいつものお店のたい焼きを食べたいって言ってたって伝えてくださる?」

「え、えぇ。わかったわ」


(まさか、すみれが慶さんと……なんて不埒なこと考えてはいけないわ)


 鏡花が外出の準備をする間、慶とすみれの楽しそうな声が聞こえる。


「じゃあ、すみれちゃんも『たいたい鯛焼き』が好きなのかい? あれは本当に絶品だね」

「お義兄様は、甘いものがお好きなんですねっ。すみれも甘い物には全く目がなくて」

「今度、美味しい甘味を取り寄せようか。僕の実家の近くに馴染みの甘味処があってね」

「やったぁ。ありがとう! お義兄様っ」


 すみれは美しい。見慣れたはずの鏡花が惚れ惚れするくらいの造形美と、幼さの残る笑顔は誰でも虜にしてしまう。鏡花は楽しそうに話す二人に声をかけるのに何度か戸惑って、やっと


「いってまいります」


 と絞り出すように言った。すると、慶は優しい笑顔を浮かべて


「気をつけて」


 と手を振った。それから彼はすぐにすみれに話しかけられてそちらへ向き直し、談笑へと戻る。鏡花は二人がいる居間をあとにして玄関へ向かった。

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