第十二章 第三話
その日の夕方、奏太と水上は久しぶりに灯台公園を訪れていた。以前、激しい雨の夜に立ち寄った場所だ。あのときは暗い雨雲に覆われ、強風が吹き荒れていたが、今日はオレンジ色の夕陽が雲間から静かに差し込み、公園を柔らかな光で包み込んでいる。
「ここに来ると、いつも初心に帰れる気がする」
奏太はベンチに腰を下ろし、遠くに見える海と空の境界を見つめた。あの雨の夜、ここでのやり取りがなければ、自分と水上の関係はここまで深まらなかったかもしれない。思い返すほどに、人生の分岐点は思わぬところにあるのだと感じた。
「ほんとだね。俺もこの灯台の光には特別な思い入れがある。あの頃は手首の痛みもあって、精神的に追い詰められていたから……」
水上は左手首を軽く回してみせる。今ではすっかり良くなり、ピアノを不自由なく演奏できている。それでも、怪我による不安を完全に拭い去るまでには、多くの時間と努力が必要だった。その軌跡を、奏太は側で見てきた。
「そうだ、ちょっと真剣な話があるんだけど」
水上がふと表情を引き締める。海からの風が二人の間を通り抜け、髪を揺らしていく。
「なに?」
「大学院の進学について、真剣に考えてる。東京にある森下先生の大学……あそこを受けてみたいと思うんだ」
奏太は一瞬驚いたように目を見開くが、すぐに納得した表情に変わる。柔らかな夕陽に照らされた水上の横顔に、決意の強さを感じ取ったのだろう。
「それ、とても良い選択だと思う。響が教わりたい先生がいるなら、ぜひ挑戦すべきだよ。森下先生も、響の才能を認めてるはずだし」
奏太の言葉には真摯な応援の気持ちが込められていた。しかし水上の表情には、まだ少しの迷いが残っている。
「ただ……東京に行くことになると、君との距離が空いてしまう。それが正直、不安でもあるんだ」
水上の言葉には、迷いや戸惑いが滲んでいた。彼の指が無意識のうちに指輪を撫でている。離れ離れになる可能性を思うと、奏太だって不安は同じだ。しかし、奏太は決して悲観的には考えなかった。
「だったら、俺も行くよ。東京の大学に編入するか、卒業を待って大学院を目指すか、まだ決めてないけど」
奏太の率直な思いに、水上は驚きと喜びを隠せない様子で目を見開いた。濃紺の瞳に夕陽の光が反射し、小さな星が瞬くように見える。
「本当? 嬉しいけど、でも、家族のこととか、いろいろ大変じゃない?」
「もちろん、家族には相談しなきゃいけないし、事前準備も必要。でも、俺だって音楽家として成長したいし、響と離れ離れになるのは寂しいから」
水上は奏太の手を握った。灯台公園を照らす夕陽の光が、二人のシルバーリングを柔らかく輝かせている。その温もりは、言葉よりも雄弁に二人の絆を物語っていた。
「ありがとう。君がそう言ってくれるなら、俺はもう何も怖くないよ。森下先生に教わりながら、東京で学べることはきっと多いと思うし、さらに上を目指せる」
「うん。二人で次のステージへ行こう」
そう言って笑い合う二人だったが、奏太にはもう一つ、心に抱いているアイデアがあった。それは地元で小さなコンサートを開くというもの。彼の頭の中では、地元の子供たちに音楽を直接届けたいという強い想いがある。奏太自身が、子供のころにごく偶然、水上の演奏を耳にしたことが人生を変えるきっかけになったように、音楽の感動を次世代に伝えられたらと願っていた。
「東京に行く前に、ここで小さなコンサートを開きたいと思ってるんだ。特に子供たちに向けて」
「小さなコンサート?」
水上は興味深そうに眉を上げる。奏太は深く頷いて、言葉に熱を込めた。彼の瞳は、思い描く未来の光景を映し出すかのように輝いていた。
「うん。僕が育ったこの街は、漁師町が広がってて、クラシックやジャズの生演奏を聴く機会があまりない子が多い。僕が小さい頃に響の音楽を偶然耳にして大きな衝撃を受けたように、ここで本物の音を聴いてもらう機会を作りたいと思うんだ」
その話を聞いた水上の目が一気に輝く。二人の間に電流が走ったかのように、互いの共鳴を感じ取った瞬間だった。
「それ、いいね! 俺も協力したい。瑞樹を誘えば、子供たちにも色々教えられるし、彼も教育にはとても熱心だから」
早速二人はアイデアを膨らませていく。漁師町の公民館や小学校、あるいは野外ステージを借りて演奏するとか、子供向けのワークショップを開催するとか、そういった具体案がどんどん出てくる。話し合いながら、二人の表情はますます生き生きとしていった。
「実は、これから先のことを考えていて」
水上はふと真剣な面持ちになる。
「東京で学んだあと、いつかはこういった地方に戻って、音楽の素晴らしさをもっと広めたい。学校教育だけじゃなくて、地域の文化として音楽を根付かせる支援ができればと思うんだ」
「それって……もしかして俺の影響もある?」
奏太が冗談めかして尋ねると、水上は笑顔で頷いた。しかしその笑顔の奥には、深い思いやりと愛情が隠されていた。
「君が地元を愛している姿勢や、人と人を結びつける音楽の力を信じているところを見ているうちに、俺も同じことをしたいと思うようになったんだよ」
そうして盛り上がる二人のアイデアは、やがて尽きることを知らないように思えた。夕陽は海の向こうへと沈み、灯台の光が淡く空に照り返り始める。かつては嵐の夜の中で見た光だが、今は安らぎと希望を与えてくれるように感じられた。
水上がふと話を切り、奏太の名を呼ぶ。
「奏太……」
「ん?」
「……なんでもない。ただ、君がそばにいてくれて良かったって、改めて思ったんだ」
そう言うと、水上は身体を少し傾け、奏太の唇にやわらかく触れた。夕陽の最後の光が二人を照らし、短くも甘いキスが穏やかな時間を生み出す。かつての不安や孤独が、すべてこの一瞬に報われるような、そんな感覚が胸に広がっていく。
唇を離したあとも、二人の目には同じ思いが映っていた。未来へ向けての期待、そしてそれを支える強い決意。風が海の香りを運び、公園の草木がそよぐ音だけが静かに響く。遠くには街の灯りが瞬き始め、帰りを急ぐ人々の気配もわずかに感じられた。
「さあ、そろそろ帰ろうか。明日も練習だし、休まないと」
水上が手を差し出すと、奏太はそれを握り返し、立ち上がる。二人の指輪が夕闇に浮かんでいるように見えた。
「うん、行こう」
そう言って再び軽くキスを交わすと、二人は寄り添いながら公園を後にした。夜空には早くも星が瞬き始め、灯台の光とともに二人を見守っているかのようだった。
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