第六章 隠された音符
第六章 第一話
土曜日の朝、奏太はいつになく早く目覚めていた。前日の夜から妙に胸がざわつき、眠りも浅かったせいで、枕元のスマートフォンのアラームがなるはるか前に目が開いてしまったのだ。
(今日はいよいよ、水上先輩の両親と会う日だ……)
そう思い浮かべただけで、自分の心臓が高鳴るのを感じる。水上の両親は二人とも著名なピアニスト。しかも彼には腱鞘炎でコンクールを辞退した過去があると聞いている。そんな複雑な背景をもつ家族の前で、一緒に演奏を披露する──気楽な気持ちでいられるはずがなかった。
狭い寮の部屋で布団をたたみながら、奏太は自分のサックスケースに目をやる。いつもよりも念入りに楽器を手入れしよう。そう思い立ち、さっそくケースを開けた。お気に入りのマウスピースやリガチャーを丁寧に磨き、予備のリードを選び直す。ほんの少しでも演奏が安定するように、可能な限りの準備を整える。
「……よし、これで大丈夫……だといいけど」
誰にともなく呟いてみても、不安はなかなか消えてくれない。とはいえ、家でじっとしていると落ち着かないので、予定の時間よりずっと早く大学へ向かうことにした。
大学の音楽棟に到着すると、時刻はまだ午前九時前。通常の授業は週末で休みなため、あたりは静まりかえっている。人気のない廊下を歩き、いつも使っている練習室へ足を運ぶと、鍵は開いていた。誰かが先に来ているようだ。
(まさか……)
胸に予感が走り、ドアをそっと開けると、中には案の定、水上の姿があった。彼はピアノの前に座っているが、鍵盤に触れることなく考え込んでいるようだ。早めに来ていたのは自分だけではなかったらしい。
「おはようございます、先輩」
奏太が声をかけると、水上ははっと顔を上げる。いつもより背筋が硬く、服装にも気合いが入っているのが分かる。彼の眼差しには緊張がにじんでいた。
「早いな……。いや、こんな朝早くから来てるなんて思わなかった」
「先輩こそ、早いですね。もしかして眠れなかったんじゃ?」
奏太が遠慮がちに言うと、水上は苦い笑みを浮かべた。
「まあ……そんなところだ。今日のことを考えたら、なかなか落ち着かなくて」
「ですよね。僕も全然眠れませんでした」
互いに顔を見合わせ、苦笑まじりの溜め息をつく。ピリピリした緊張感の中、どちらも似た心境にあることが分かり、ほんの少しだけ心が軽くなる。
しばらく雑談を交わしたあと、時間まで軽く音を出してみようということになった。水上がピアノ椅子に腰掛け、奏太はサックスのリードの具合をチェックする。窓の外を見ると、晴れ渡った青空と新緑の葉が風に揺れる爽やかな春の景色が広がっている。
「今日はご両親、何時に来るんですか?」
「午後二時頃の予定だ。まだ時間はあるな……でも、気になって仕方ない」
水上はそう言いながらピアノの鍵盤にそっと触れる。鍵盤の冷たさが指先に伝わり、心が引き締まるのを感じる。奏太もサックスを組み立てながら言葉を続ける。
「ご両親って、どんな感じの方なんですか? やっぱり有名なピアニストだから厳しいのかな……」
言いながらも、本人に直接聞くのは少しはばかられる話題だ。だが、水上は躊躇せず答える。
「父は特に厳格だ。もともとコンクールで優勝を重ねてきた人だから、自分にも他人にも厳しい。母は穏やかな性格だけど、音楽家としての誇りが強くて……俺が腱鞘炎でコンクールを辞退したときは、二人とも相当ショックを受けていたらしい」
そう語る水上の横顔には、かすかな苦悩がにじむ。奏太は自分が抱く不安などより、何倍も重いプレッシャーを感じているのだろうと察した。
「でも、大丈夫ですよ。先輩のピアノは今、すごく生き生きとしてる。あのブルーノートでの演奏を、きっとご両親に感じてもらえれば……」
励ましのつもりで言うと、水上はふと微笑む。
「……そうだな。あの頃の俺とは違うってことを、ちゃんと示さなきゃな」
その表情は決意に満ちている。腱鞘炎という身体的な不安こそあるが、精神面は以前と比べると明らかに前を向いているようだ。奏太はその変化を嬉しく思いつつ、少しでも彼を支えるために、できる限りの演奏をしようと心に誓う。
ピアノとサックスの練習が始まったのは午前十時前。まだ数時間あるので、ガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーを少しだけ合わせてみたり、My Funny Valentineで自由なアレンジを試みたりする。お互いに緊張はしているが、音に集中するうちに幾分気が紛れるようだ。
(先輩も、少しずつ落ち着いてきたかな……)
奏太は心の中でそう感じる。水上が時折左手首を気にする仕草を見せるが、どうやら激しい痛みは出ていないようだ。むしろ、音楽に没頭するほどに表情が和らぐのが分かる。
「葉山」
いきなり名前を呼ばれ、奏太は顔を上げる。水上が鍵盤に手を置いたまま、静かに言った。
「今日、俺の父さんがどんな反応をするか分からない。もしかしたら、ジャズをやっている君を否定的に見るかもしれない」
「大丈夫です。どんな言葉をかけられても、俺は先輩のパートナーとして演奏しますから」
琴線に触れるような決意のこもった言葉。水上は視線を伏せ、微かに笑みを浮かべる。
「ありがとう……。本当に、君がいて助かる」
小さな言葉が、練習室の空気をほんのり温める。そのまま二人は無言のまま譜面に向き合うが、心は確かに通じ合っていた。
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