第三章 第四話

 店内の客はまばらで、常連らしき数人がカウンターでグラスを傾けている。若いドラマーとベーシストがステージに上がって準備を始めていた。どうやらジャズ研究会の先輩も何人か来ているらしく、楽しそうに談笑している。


 その様子を横目に見ながら、水上は立ち尽くしていた。座るべきか、どう振る舞うべきか分からないのだろう。


 そこで奏太は目の前のピアノ椅子を引き、「先輩、少しだけ音を出してみませんか?」と声をかけた。水上は一瞬ためらうが、やがて覚悟を決めたように腰を下ろした。


「……じゃあ、ほんの少しだけ」


 鍵盤に触れる。その瞬間、水上の表情がわずかに変わる。まるでずっと忘れていた感覚が戻ってきたような、あるいは懐かしい友人に再会したような目をしている。


 まずは恐る恐る音階を弾き、ペダルの踏み心地を確かめる。クラシックの練習室とは違う、多少使い込まれたピアノだが、その分温かい音が出そうだ。


「どう? 悪くないでしょ」


 鈴木が声をかけると、水上は「意外と弾きやすい」とポツリと答える。鈴木は「そいつは嬉しいな」と言いながら、自分もサックスを手にしてステージに上がる。


「じゃ、さっそく一曲。葉山、最初は何をやる?」


「……そうですね、さっき打ち合わせした通り、Cジャム・ブルースでいいですか?」


 奏太がそう提案すると、鈴木やドラマー、ベーシストも「いいね」と頷く。水上は「あの……俺は?」と不安げに尋ねる。


 奏太は「とりあえずルート音だけでもいいんで、時々コードを押さえてもらえると助かります」と微笑んだ。ジャズ経験のない水上にもできるよう、極めてシンプルな構成を想定している。


「じゃあ……分かった」


 水上が腹をくくったように息をつくと、ドラマーが軽くスティックでカウントを取る。「ワン、ツー、スリー、フォー……」


 セッションが始まる。まずベースが四拍子でウォーキングを刻み、ドラムがスネアとハイハットをスウィングさせる。鈴木のサックスは軽快なリフを吹き出し、バッキングとしての和音がほしい場面で水上がぎこちなくコードを叩く。


 ――しかし、意外なほど合っている。


 もちろん本格的なジャズピアノとは程遠いかもしれないが、水上は持ち前のリズム感と耳の良さでシンプルな和音を構築している。最初はぎこちなかった指の動きが、だんだんスムーズになっていくのが分かる。


「すごい……」


 奏太が思わず呟くほど、水上の吸収力は早い。ジャズを知らないとはいえ、クラシックで磨き上げた技術と感性は伊達ではないのだろう。


 曲が盛り上がってきたところで、サックスのソロが奏太に回ってくる。彼は思いきり即興に挑む。いつものジャズ研究会のノリよりも、さらに気合が入っているのは「水上に見せたい」という強い思いがあるからだ。


 ――見ていてください、先輩。ジャズってこんなに自由で、楽しいんですよ。


 そう言わんばかりに、奏太は伸びやかでリズミカルなフレーズを展開する。ベースとドラムが心地よいグルーヴを作り、鈴木が時折バックで短い音を挟んでサポートする。水上もコード進行の変化に合わせ、慎重ながらも確実に和音を作っていく。


 一曲を通し終わった瞬間、店内の客から小さな拍手が起こった。水上は息をつき、まるで走りきったランナーのように肩で呼吸をしている。


「お疲れさまでした。どうでした?」


 奏太がマイクを通さずに声をかけると、水上は少し呆然とした表情を浮かべる。


「……意外と、何とかなるものだな。譜面がないのに」


 そのつぶやきには驚きと、ほんの少しの達成感が混ざっているようだ。店のオーナーである鈴木は「ハハハ、なかなか筋がいいじゃないか」と笑い、次の曲は別のメンバーにソロを任せるらしい。


 ひとまず水上はステージを降り、奏太も後を追ってテーブルへ向かう。常連客たちが「へえ、あのピアニスト結構やるね」などと話しているのが聞こえると、少し誇らしい気持ちになる。


「先輩、めちゃくちゃ上手かったですよ!」


「いや……あれは“上手い”とは言わない。よく分からないまま弾いていただけだ」


 水上は照れ隠しなのか、素っ気ない口調を崩さない。だが、その顔はわずかに紅潮しているように見えた。クラシックのコンサートでは味わえないタイプの高揚感かもしれない。


 鈴木がステージ上で別のプレイヤーたちと演奏を続ける。アップテンポなスウィングが店内を沸かせる中、水上はグラスのミネラルウォーターをひと口飲んで、落ち着きを取り戻そうとしている。


「……ジャズって、不思議だな。譜面がなくても、みんなが即興で音を重ねていくなんて。最初はめちゃくちゃになるかと思ったが、不思議と一つにまとまる」


 奏太は嬉しそうに微笑んだ。


「そこが魅力なんです。自由だけど、ちゃんとルールやコード進行があって、それを共有しながらも個々が自分の表現をぶつけ合う。まるで会話してるみたいですよね」


 水上は「会話か……」と小さく呟く。そこで、店の照明が少し落ち、今度は鈴木がマイクを握った。


「さて、ここで若き才能をもう一度ステージに呼ぼうかな。先ほどピアノを弾いてくれた水上くん、よかったら何かクラシックでもいいから聴かせてくれないか?」


 店内がざわつく。クラシックのピアノをジャズバーで聴く機会はなかなかないが、皆興味津々の様子だ。奏太も意外な展開に驚いたが、ここはぜひ弾いてほしいと思う。


「先輩、どうですか? 一曲だけでも」


 水上は困惑したように目を泳がせる。このところ学外で人前にクラシックを披露する機会はなかったはず。だが、店内から小さく「聴きたい」という声が飛んでくると、とうとう断り切れなくなったのか、「……分かりました」と立ち上がった。


 ステージに向かい、鍵盤の前に座る。先ほどより心なしか落ち着いているように見える。マイクに向かって「クラシックでもいいなら、短い曲を……」と静かに告げた。


 その選曲は、ドビュッシーの『月の光』。一度、練習室で奏太が耳にしたことのある曲だ。あのときは途中で遮られてしまったが、今日は最後まで聴けるのだろうか。奏太の胸は高鳴る。


 ――そっと始まる、夜の静寂を湛えた序奏。


 水上の指が鍵盤を優しく叩くと、店内に幻影のような月明かりが広がったかのように感じられる。クラシックの定石通りというよりは、どこか自由で繊細なニュアンスが加わっているのが分かる。


 ドビュッシーの持つ印象派的な色彩が、店の柔らかいライトと相まって、不思議な空間を創り出す。店内の客たちも自然と息を呑み、会話を止めてその音色に耳を傾けている。


 奏太は自分の胸がじんわり熱くなっていくのを感じる。これこそが、水上響が秘めている“本当の音楽”なのかもしれない。厳格な譜面や評価に縛られるのではなく、彼が心から紡ぎ出す音。一つ一つの和音に、ためらいと優しさが同居しているようだ。


 やがて曲の終盤、クライマックスを抑えたまま切なく流れゆくフレーズが、まるで月が厚い雲から一瞬だけ顔を出すような儚さを醸し出す。そして、最後の和音が柔らかく響き、空気が静止する。


 店内の人々から自然と鳴り起こった拍手は、激しい歓声というよりは、深い感銘を表す穏やかなものだった。水上は少し困惑しながらもペコリと頭を下げ、「ありがとうございました」と小さく呟いてステージを降りる。


 奏太が真っ先に手を叩き、一人興奮して「すごかったです!」と声をかけると、水上はやや照れたように目を逸らす。


「……ありがとう。こんなところで弾くなんて初めてだから、緊張した」


 だが、表情は安堵と充足感に満ちていた。店主の鈴木も満足げに「いい演奏だった。クラシックの曲なのに、不思議とジャズバーにも馴染んでたぞ」と笑う。


 そのあと、しばし休憩が入り、店内はBGMが流れるだけの静かな空間に戻る。奏太と水上はテーブルで向かい合い、ミネラルウォーターを飲みながら何となく会話を交わす。


「先輩、どうでした? ジャズバー……少しでも楽しめましたか?」


「想像と全然違った。もっと騒がしい場所かと思ったが、意外に落ち着いてて、皆自由に演奏しているのがいい」


 水上は素直な感想をこぼす。いつものとげとげしさが消え、柔らかな空気をまとっているのが分かる。


「それに……なんというか、“譜面に書かれてない音”がこんなにも魅力的だとは思わなかったよ」


「えっ?」


「ジャズって、理論やコードはあるけど、最終的には“自分の耳と感覚”で音を紡ぐんだろう? クラシックではあまり考えられないけど、さっきCジャムを合わせてみて面白いと思った」


 水上の目はどこか輝いている。クラシックの範囲を少し超え、自分の感情を音に乗せた瞬間を味わってしまったのだろう。


 奏太は嬉しくて仕方がない。このままの勢いで、彼がさらに自分の殻を破ることができたら――そんな期待が膨らむ。しかし、水上が次にこぼした言葉は予想外の苦味を伴っていた。


「でも……やっぱり僕にはまだ難しい。自由になりたいと思っても、なぜか怖くなるんだ。以前のように、大事なものを失うんじゃないかって」


 その視線はどこか遠くを見つめていた。クラシックの世界で背負った重圧や、怪我をしたことで失ったもの。彼の心は簡単にはほどけない。それでも奏太は、アンサンブルのパートナーとして、そして何より彼の音楽のファンとして、力になりたい。


「先輩……」


 声をかけようとしたが、次の瞬間、鈴木がステージ上から「そろそろ後半セットを始めるぜー!」と声をかける。店の照明が再び落とされ、演奏タイムが再開された。

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