第三章 ブルーノートの夜

第三章 第一話

 梅雨の気配が近づきつつある初夏のある日。葉山奏太は学生寮の自室で、気乗りしないままスマートフォンの画面を見つめていた。


 画面には「水上先輩」への未送信メッセージが表示されている。もともとアンサンブル実習のパートナーとして連絡先を交換していたものの、彼にメッセージを送るのはいつも躊躇してしまう。なぜなら、前回の衝突が、まだ自分の胸に尾を引いているからだ。


「先輩、今週の練習どうしますか?」


 たった一行、それだけ書いたところで止まってしまった指。送信ボタンを押せずにいる。


 あの日以来、水上響とは一度も会っていない。アンサンブル実習の授業にも姿を現さず、どうやら「体調を崩したらしい」という噂だけがちらほら耳に入ってきた。


 さらに、奏太は自分なりに彼のことを調べた事実を率直に告げてしまい、それによって水上を余計に追い詰めてしまったかもしれないという後悔が募っていた。彼がこれ以上自分との関わりを望まないなら、無理に連絡すべきではないんじゃないか。そんな考えが頭をよぎる。


「はぁ……」


 深いため息が漏れる。部屋の薄暗い照明の中、ベッドの脇でショルダーバッグに入ったサックスケースがやけに重たく感じられる。


 カタコト……


 玄関のほうで誰かがドアをノックする音が聞こえた。こんな時間に訪ねてくるのは珍しいが、同じ寮の友人かもしれない。スマホを置いてドアを開けると、バンド仲間として仲良くしている一年生の男子が顔を出した。


「おーい、奏太。ジャズ研の練習、そろそろ始まるぞ。お前も行くんだろ?」


 声をかけられ、奏太ははっと我に返る。そうだ、今日はジャズ研究会のセッションがある。気乗りしない気分を少しでも振り払うには、音楽に打ち込むのが一番かもしれない。


「うん……行くわ。待ってて」


 慌ただしく着替えと楽器の準備を済ませると、スマートフォンはポケットに突っ込んだまま、電源ボタンさえ押さずに部屋を後にした。



 ジャズ研究会の部室は、大学構内でもやや古い建物の一角にある。そこにはドラムセットやアップライトピアノ、アンプなどが備えられており、ビッグバンド編成の練習もできるぐらいの広さがある。週に一度開かれるセッションの日は、先輩や仲間たちが集まり、各自が自由に演奏を楽しむのが恒例だった。


「葉山、遅かったなー!」


「ごめんごめん、ちょっと部屋でボーっとしてた」


 先輩や同級生に挨拶をしながら、奏太はサックスケースを開く。リードの状態を確認し、マウスピースを取り付ける手つきが、どこかぎこちなくなっているのを自分でも感じた。


「葉山、今日は何の曲やる? 最初は『All Blues』でも行こうか?」


「うん、そうしよう」


 先輩がリーダーを務めるリズムセクションが、すぐに曲のキーとテンポを決めてカウントを始める。奏太もそれに倣い、サックスを構えた。


 ――しかし、なぜか胸の奥が重い。


 水上のことで頭がいっぱいだからかもしれない。彼の手首に包帯が巻かれていたことや、図書館で知った彼の過去。まだ何も解決していない。連絡すら取れず、どうしていいか分からない。ただ、それでもここにいるからには、音楽に集中しよう。そう自分に言い聞かせ、息を吹き込んだ。


 「All Blues」のモーダルな進行に乗せて、まずはトランペットとテナーサックスがゆったりとしたテーマを吹く。続いて奏太も加わり、温かみのあるハーモニーを醸し出す。


 ソロ回しが始まり、順番が奏太に回ってきたとき――自然とこみ上げてきた思いを、そのまま音に乗せてみようと思った。自分自身の言葉で語るように、フレージングを探る。


「……うん?」


 気づけばいつもと違う熱量が自分の演奏に宿っているのを感じる。手首の包帯、かつての天才ピアニスト、そして初めて耳にしたあの日の衝撃的なショパン……。すべてが入り混じり、苦しさや切なさをまるでブルースのように吐き出している。


 ソロを終えると、ドラムの先輩が後ろから声をかけてきた。


「葉山、今日のお前のサックス、いつもより深いな。何かあったのか?」


 奏太は照れたように笑いながら、「別に……ちょっと、考えることがあって」とごまかした。真っ直ぐに打ち明ける気力はまだないが、音には出てしまうらしい。それがジャズという音楽の面白いところでもあり、怖いところでもある。

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