少し冷え込んだ空気の中に、温かく香ばしい香りが混ざってやってきた。この香りは珈琲の香りのようだ。それにしてもなぜ珈琲の香りが…?

 と私は重たい瞼をゆっくりと上げる。眩しい陽の光が目に入り込んでくる。しばらく目を光に慣れさせてからゆっくりと辺りを見渡す。


 ここは私の部屋では無いな。となると運河さんの部屋だ。そして私のすぐ目の前に見えている二本のモフモフ。うむ、これは私の腕だ。


 私は目が覚めてもしっかりと猫のままのようだった。


「あ、ベテ、起きた?おはよう。」

 その声に後ろを振り返ると、コーヒーカップを片手にスマホを見ている爽やかな美男子が立っていた。


 おはようございます。こうして運河さんと朝の挨拶ができるというのはとても新鮮な気分だ。まぁ私はニャアとしか言えないんだけど。


 運河さんは颯爽と仕事に行く支度をし、元気な声で行ってきますと言ってから部屋を出て行った。

 なぜだろう。運河さんが部屋を出て行っても自然と寂しくなかった。きっとこれは、また夜に会える、という安心感から来ているものだろう。人間の時の私には感じたことの無い安心感だった。


 それにしても本当にこれは夢なのか現実なのか何なのだろう。まぁなるようになるか。あまり深く考えてもすぐに答えは出ないような気がした。


 部屋の窓から外を見渡してみた。都内のマンションに住んでいるとは聞いていたけれど、これはタワーマンションとかいうやつじゃないのか。遠くに海の水平線が見えますが。すごいところに住んでいらっしゃるわね。


 陽の光がよく入るお部屋のため窓際はポカポカだ。ベッドの上で日向ぼっこをしながら、改めて部屋全体を見渡してみる。昨日気になっていた、本がずらりと陳列された本棚が目に入った。


 どういう小説を読んでいるのか気になって、私は本棚にトテトテと歩いて行く。必死に腕を伸ばして本を取ろうとするが、猫の手ではなかなかうまくいかない。人間の手というのは本当に細かい動きができるのだなと改めて思った。


 やっと陳列の中から取った一冊のページを捲ってみる。へえ、運河さんはこういう物語が好きなのかぁ。星にまつわるSF小説だ。

 ベテルギウスの超新星爆発が起こらんとする時、ベテルギウスの住人達が他の生息できる星を求めて旅立った。そのうちのとある住人が、流星となり地球に降り立った。その住人は猫の姿に扮し、地球で生活をしていくというお話。


 面白そうだから運河さんが帰ってくるまで読んでいようかな。勝手に読んでごめんね運河さん。


 その日も運河さんは夜中の1時頃に帰ってきた。私はしばらく本を読んでいたが、途中で疲れて寝てしまっていた。

 運河さんは帰宅すると必ず猫に抱きつくというルーティンがあるのだろう。私にとっては堪らなく幸せだ!


 今日も寝る直前、運河さんは窓の外の夜空をじっと見つめていた。いや正確には夜空の向こうに想いを馳せている人物を、か。


 今日もこのまま夢から醒めないでくれと願いながら眠りにつく。

 運河さんに寄り添うととても落ち着く。冬の寒さなど忘れてしまうような、とても優しい温もりだった。


 ⭐︎⭐︎⭐︎


 私が猫になってから三日ほど経った気がする。

 もはやこれは夢ではなく現実なのではないかと思えてきた。時間の流れをしっかりと感じるし、意識もハッキリとしたままなのだ。

 となるとこの部屋は本物だし、運河さんも本物ということになる。

 そして何より、私は本当に猫になってしまったということになる。

 会社では今頃、私が行方不明になってしまったなどと騒いでいるかもしれない。申し訳ないけど、この現実が嬉しくもある自分がちょっと怖い。


 今日は運河さんは休日のようで、いつもよりも遅く起きていた。しかし仕事を持ち帰ってきているのか、珈琲片手にパソコンをずっと操作している。今日の運河さんは珍しく眼鏡をかけている。ブルーライトカット眼鏡だろうか。黒縁眼鏡、とてもよく似合っているなぁ。


 普段は眼鏡をしない人が突然眼鏡をかけると、なぜだかグッと来てしまうのは私だけだろうか。そんなことを考えながら、私は休みの日でも仕事に打ち込む運河さんをそっと見守っていた。


 陽が傾き始め、部屋の中が柔らかい橙色の光に包まれる頃。


「えっ!」


 突然、運河さんがスマホを見たまま声を上げた。その後すぐにパソコンを閉じ、慌てて外に出る準備をしているようだった。

 何?どうしたの?


「ニャア?」

「あ、ベテ。」


 運河さんは私の前にしゃがみ込み、私の頭を撫でながらひと呼吸おいて話し始めた。


「今、いつも行っている紡ぎっていうバーのマスターから連絡があって。そこで知り合った人が、先日トラックに轢かれたらしくて…もう三日も意識が戻らないらしいんだ。」


 そんな…それは大変だ。


「その人、とても素敵な女性なんだ。彼女は僕のことをどう思っているかわからないけれど…。心配だから、ちょっと遠いけど病院まで様子を見に行ってくるよ。その間、留守番頼むね。」


 素敵な女性…。そうだよね、やっぱりあのバーで他の誰かと知り合って、良い感じになっていたんだ。きっとその女性とは、毎晩想いを馳せている人のことだろう。


 うん、気をつけて行ってらっしゃい。その人、無事に意識が戻ると良いね。


 バタンと閉まったドアの音。そこから急に静けさがやってくる。

 なんだろう、なぜだか今はとてもこの静けさが寂しく感じるな…。


 でも、運河さん素敵な女性に出会えたんだ。なんだかもう、運河さんが幸せならそれでいいや。そう思えるようになってきた。どうせ私は猫として毎日こうして一緒にいられるんだもの。


 そういえば運河さん、慌てすぎて眼鏡をかけたまま出て行っちゃってたな。


 ふと部屋の置時計に目をやる。やはり中央のオリオン座の部分が不自然に光っているが、運河さんは気がついていないのだろうか。部屋の中でこんなにも異様な雰囲気を放っているのに。

 今は16時くらいか。まぁ夜には帰ってくるだろう。それまで私はお昼寝でもしようかな。


 運河さんが帰ってきたらまたそばで寄り添って寝られるんだ。

 この幸せがいつまでも続きますように。そう願いながらうとうとと眠りについた。 

 

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