第7話「おまえの苦労をずっと見てたぞ」

 アパルトメント(家具付きの賃貸集合住宅)の自室に帰って来たアイリーンは、とすんとベッドに腰かけた。座ると一気に酔いの疲れが襲い掛かってくる。


 真っ暗な天井を眺めながら、今ユージィはどうしているだろうかと、ふと考える。

 ユージィはギルド紹介の宿で、毎晩覗き部屋をあてがわれている。そのことをギルドの人間で知らない者などいない。それはデアボリカの仕組んだ策略の一環であり、ユージィを巡って加熱するランク争いのガス抜きであった。そして同時に優勝賞品のお披露目でもある。ユージィの裸体は、今やギルド共有のオカズであった。

 アイリーンは覗きにいったことはない。そんな卑猥な目でユージィを見る先輩たちを心底軽蔑していたし、ユージィが毎晩女どもの下劣な視線に晒されていると考えるだけで頭が熱くなってどうにかなりそうだった。


 本当なら有無を言わさずにユージィをかっさらって、別の地方都市へ駆け落ちしてしまいたいとすら思っている。

 だが、今の自分がそれをするとして、ユージィはついてきてくれるだろうか。



(まぁ……告れば本人は落ちるだろうが、そんなことになったらギルマスが承知しねえだろうけどな)


(そうだなー。デアボリカの顔に泥を塗ることになるしな。最悪消されるわな)


(高嶺の花なんだよ、アイリーン。花は眺めるだけで満足しておきなさい)



 仲間たちの忠告が頭をよぎる。

 ギルドマスターを務めるデアボリカは、この地方都市を治めるジェントリ地方貴族当主の三女だ。この都市においては国王と言っていいほどの権力を持つ一族であり、次期当主こそ長女に内定しているが、デアボリカ自身も高い政治力を持つ。でなければ、荒くれ者ぞろいの冒険者ギルドを齢18にして牛耳ることはできなかっただろう。野心が強く、中央議会への進出にも関心を持っていると噂されている女だ。ユージィを利用して冒険者ギルド内を競わせているのも、地盤固めや実績作りの一環のはずだ。

 その目論見を破壊してユージィを奪えば、あの女は絶対に許すまい。どこまで逃げても執拗に追跡して、必ず自分を害し、ユージィを取り戻すだろう。所詮はスラム出身の賤民でしかない自分では、絶対に逃げきれない。


 アイリーンはぽすんとベッドに横たわり、右手を天井に伸ばした。みるみるうちに視界が滲み、右手の輪郭が不確かなものになる。


「ああ、力が欲しい……」


 幸運にも多少出世したアイリーンは市民権を得て、アパルトメントを借りることすらできた。スラム出身者としてはこの時点で望外の出世と言っていい。いつでも誰かの咳が聞こえる寒い床に横たわり、シラミだらけの不潔な毛布を奪い合い、冷たく煙る息を吐きながら早く夜が明けてくれることを祈らずとも、朝がやってくる生活を送れるのだから。

 しかしアイリーンがそんな夜を過ごす一方で、彼女を今の境遇に引き上げてくれたユージィは不埒な女どもにその裸体を舐め回すように見られる日々を過ごしているのだ。ああ、考えただけで気が狂いそう。


「ユージィ……」



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 彼との出会いを思い出す。


 それは半年前、まだアイリーンがただのスラムの子供でしかなかった頃。

 男のくせに毎日野外に出て、ひとりで大角ウサギを狩っている風変わりな青年がいた。男は家で裁縫や子守りをするのが仕事だと教わっていたスラムの子供たちは、生まれて初めて間近で見る若い男に興味津々だった。彼女らが知っている男は、孤児院にいる既に枯れ切った牧師ブラザーしかいなかったからだ。


 子供たちは自分らですら狩れるような大角ウサギを、へっぴり腰で数十分もかけて苦戦して、やっとの思いで倒している青年に「大人なのにウサギ程度にも勝てないの?」「お兄さん冒険者なんてやめて、早く結婚したほうがいいよ」と声をかけた。

 それは確かに馬鹿にする意図もあったが、感情の多くを占めていたのは彼への心配だった。

 どう見たって、彼は冒険者に向いているようには思えなかった。魔力なんて全然感じられないし、槍の使い方も素人そのもの。どこかで槍の手ほどきを受けていれば、あんな無様な戦い方はしないと、スラムの子供にすらわかる。そのうち大角ウサギ相手にへまをして、角で体を貫かれるんじゃないだろうか。

 それに彼の黒髪は艶やかで、赤や金色の髪に見慣れた子供たちの目にはとても綺麗に映った。そんな綺麗なものが、万が一にも大角ウサギごときに殺されて、二度と見られなくなるのは嫌だ。

 だから早く冒険者なんて辞めて、結婚して幸せになってほしかった。


 だけど彼は冒険者として出世するのだと頑として聞かず、一人で大角ウサギに挑み続けた。スラムの子供にすら狩れるモンスターをいくら狩ったところで、出世なんてできるわけがないのに。そんな子供にも理解できる理屈が、どうしてわからないんだろう。


 そんなある日のこと。

 スラムの子供たちは、いつものように大角ウサギを狩りに出た。

 先導するのはアイリーンだ。ただ一人まともに魔術の心得があって、一番大人に近い年齢の彼女は、子供たちのリーダーだった。

 その日は夜のうちに雨が降っていて、足元がぬかるんでいた。ブリシャブ島全域に大繁殖した大角ウサギたちは、草原の草という草を食らいつくしていて、地面はいつも土が露出している。そこに雨が降れば、足元はたちまち泥だらけだ。

 だから雨が降った夜のあくる朝は、十分に気を付けて歩かないといけなかった。

 そんなことはわかっていたはずなのに。

 みんなの心に油断があった。

 その日の獲物の大角ウサギはとても大きな個体で、これは食いでがあるぞと思い浮かべた晩御飯のシチューに舌なめずりしながら狩りが始まった。

 いつものように大角ウサギをぐるりと取り囲み、魔術で強化した木の盾を持ったアイリーンが挑発して、突進を受け止めている間に四方八方から槍で突き刺して仕留める。決まりきった狩りのルーチンワーク。


 だけどその日、大角ウサギの突進を受け止めたアイリーンの足が滑った。泥だらけの足元は大物の大角ウサギの体当たりの衝撃を支えきれず、バランスを崩したアイリーンは木の盾を取り落としてしまった。次の瞬間、顔を上げたアイリーンが見たのは、爛々と殺意に光る赤い瞳と、自分の顔に振り下ろされんとする巨大な角だった。


 ――あ。殺られる。


 ブシュッと生々しい音が弾け、赤い液体が彼女の顔に飛び散った。



 ……痛みがないことに気づいたのは、目を閉じてしばらくしてからだった。いや、彼女がそう体感しただけで、実際にはほんの一瞬だったのかもしれない。

 自分はもう死んでしまったかも、そう思ったアイリーンが恐る恐る目を開いたとき。

 目の前には大きな背中が立ちはだかっていた。


「あー痛え。革の鎧も貫通するのかよ、これ防具付けてる意味なくないか?」


「お兄さん……?」


 アイリーンが刺し貫かれる瞬間、割って入ったのは東洋人の青年だった。

 彼の腹は大角に貫かれ、その先端は背中まで貫通していたが、青年は角を抜こうと暴れる大角ウサギの首を抱え、血管の浮き出た腕でギリギリと自分の腹に押し付けていた。


「お兄さん、傷が……!」


「大丈夫だ。僕は痛みには強いからね。それにこういうとき下手に角を抜くと大量出血してヤバいことになるってマンガで読んだし」


 まるで苦痛なんて感じていないように、青年は淡々と口にする。

 信じられない精神力だった。大の女でも腹を刺し貫かれたら悲鳴をあげるだろうに、彼はその痛みに耐え、それどころかその角を引き抜かせまいと抱え込んでいた。


「どうして……」


「どうしても何も、子供が襲われてたら助けるだろ普通」


 青年はギリギリと奥歯を噛みしめて力を込めながら、苦笑を浮かべた。


「そんなことより、早くこいつにトドメを刺してくれないか。僕が死ぬまで時間がないぞ」


 我に返った子供たちは、慌てて手にした槍を大角ウサギの背中に突き立てる。大角ウサギは悲鳴を上げて暴れたが、青年は最後まで力尽きることなく、腰が抜けて身動きできないアイリーンを守り切った。




「あーあ、鎧に穴が開いちゃったな。虎の子のポーションも使っちゃったか」


 じょばじょばとポーションを傷口にぶちまけながら、あー染みるなあと青年は呟く。アイリーンは後で知ることだが、傷口にポーションを直接投与するのは確かに効果的ではあるが、麻酔なしでは厳禁とされる行為だった。凄まじい再生痛が神経を苛み大人でも耐えきれないため、経口摂取が前提とされている。あー染みるなあで済ませていい話ではなかった。


 ぶくぶくと泡を立てて再生していく傷口。それを凝視するアイリーンの視線に気づいた彼は、軽く笑って手を振った。


「ああ、気にしなくていいよ。鎧もポーションもギルドの倉庫から借りたものだし。君たちに請求しようだなんて思ってないから」


「……痛くなかったの?」


「いや、痛いよ。すごく痛い。頭おかしくなりそう」


 でもまあ、と青年は黒い髪を掻く。


「体を串刺しにされるより、子供を見殺しにした方が今の僕には痛いからな」



 ああ、この人は死ぬ。

 アイリーンはそう思った。

 こんな甘っちょろい人が、この世にいるのか。

 衛兵ですら見捨てる貧しい子供のために身を挺する人が、よりにもよって冒険者なんかを志しているのか。

 この人は絶対に長生きできない。同じことを繰り返して、誰にも知られず、早晩野垂れ死ぬだろう。

 大ブリシャブ人が理想とする気高い精神が。こんなにも美しい黒髪の人が。誰にも顧みられることなく、野末に朽ちるというのか。


 嫌だ。そんなこと決して許容できない。



「あ、聞き忘れてた。……怪我はない?」



 あたしが、この人を守る。


 差し延ばされたごつごつとした手を握り返しながら、少女は決意した。





 さて、決意を胸に宿したアイリーンの動きは早かった。

 孤児院を出た先輩たちを巡って拝み倒し、必ず返すと約束してギルドの登録料を手に入れて、その足でギルドへ登録に行った。

 あのときの青年の口利きもあって審査を受けられたアイリーンは、やっぱり彼はあたしを見てくれてるんだ……と心にじんわりと広がる温かなものを噛みしめた。


 しかし。

 そこで突き付けられたのは、あの青年……ユージィが他の女の婿として争奪戦の対象になっており、あまつさえその裸体を夜な夜な覗き部屋で鑑賞されているという事実と……。



「お兄さん、あたし冒険者になれたよ! さあ、パーティを組もう! これからはあたしがお兄さんを……」


「……すまん、誰だ?」



 ユージィにとって、自分は“よく見かける子供の一人”に過ぎなかったという残酷な事実だった。

 ストリートチルドレンを離れてただ一人の人間になったアイリーンは、ユージィの頭の中の子供たちと結びつかなかったのだ。


 その事実に耐えきれなかった少女は、何も言わずその場を離れ、前衛を求めていた他のパーティに加入した。

 それから顔を合わせるごとに悪態を吐くようになってしまったのは、彼女の心の防衛作用として仕方ないことだったのかもしれない。



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「ぐすっ……」


 アイリーンは枕を抱え、ぎゅっと抱きしめる。枕で受け止めなければ、瞳からほろほろとこぼれた雫で溺れそうになってしまうから。


「ユージィ……」


 しばらくそのままの態勢でじっとしていたアイリーンは、やがてごそごそと闇の中でみじろぎする。



(お前もこっちに来い……。その切なさをオカズにシコるとやたら捗ることに気づくのだ……)


「……」



 カスみたいな大人パーティメンバーが吐いた言葉が、頭の中でリフレインした。



「……そんなわけないよ」


 そういう感情じゃないから。あたしがお兄さんに抱いている感情は、もっときれいなものだもの。

 でも、その……。

 お兄さんのこと考えるとすごくムズムズするし……。

 このままじゃ眠れないし……。

 ちょっとだけ、ちょっとだけだから。試してみるだけだから。


 くちゅっ……。



「あっ♥ あっ♥ お兄さんっ……♥」



 人生史上最大級にめちゃめちゃ捗った。

 脳がとっくに破壊されていた。



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 ちゃりん、とポケットの中で音がしたような気がして、自動販売機の前で佇んでいた僕は慌てて懐をまさぐった。

 するとそこにあったのは……。


「チートコイン!」


 半年前に不思議空間で目にした、あの懐かしいコインだった。

 それも5枚も! これはハーフ曝炎神龍セットに匹敵する額だ!

 うおっ、マジかよ超嬉しい。

 でもなんで今になって?


「ははーん……さては今になってウサギ狩りが評価されたか?」


 これまでコツコツ地道にウサギを狩り続けてきた甲斐があったというものだ。

 レベルアップも存在しない世界で果たして戦う必要あるのか? と疑問を抱きながらも、冒険者という職があるからにはモンスターを倒せばコインをもらえるはずと信じて戦ってきた苦労が認められたな。

 あ-、思わず感涙が込みあげてくるわ……。ウサギに腹を貫かれたときでも涙なんか出なかったってのに。


 それにしてもアナウンスとかないんかな。

 まあいきなり神様が降臨して


「おまえの苦労をずっと見てたぞ」

「本当によく頑張ったな?」

「遂に我慢が報われ莫大な富を得る」


 とか言われたら、思わず顔面ぶん殴ってしまうかもしれんが。


 コインを見つめながらそんなことを考えていると、待望のアナウンスが降ってきた。



≪おめでとうございます!

 実績【10000回オナペットにされる】を達成しました。

 チートコイン5枚をプレゼントします≫



 顔面ぶん殴ってやるから今すぐ降臨しろ神様。

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