「理想としては……恵美里が心も身体もおれを受け入れてくれた後で、このことを告げたかった。そうすれば、おれのことを忘れないだろう? けど、おまえは拒絶した。だからこうなった。秀人たちが死んだのはおまえのせいだ、恵美里」

「勝手なことを言うな! おまえが殺したんだろ!」


 勇斗は晶に向かって叫んだ。怒りに任せて声を荒げたため、脇腹が痛み、思わずかがみ込む。

 だが晶は勇斗の言葉など耳にも入っていないのか、こちらを見ようともしない。

 晶の半生を聞いて、勇斗は同情――しなかった。とても許せることではない。どう考えても恵美里に対する復讐は常軌を逸していた。恵美里は母親を殺されたのだ。しかも何も知らず晶に恋していた。

 勇斗は恵美里が心配だったが、意外にもその横顔は冷静だった。顔色は悪いが、泣き喚くこともなく、晶を見上げている。

 晶が恵美里を好きなのは本心からだろう。勇斗にはわかる。だがそれは一方的で、彼女のことを何も思いやってはいなかった。ただの妄執だった。


 恵美里は強い。だが勇斗はこの先晶がやろうとしてることを考えて……

 想像するのもゾッとした。そしてどうしようもない不甲斐なさから来る怒りを勇斗は自分をドアに縛りつけている左手にぶつけた。右手で左手の親指の付け根を強く叩く。親指の骨が折れれば、手錠から手が抜けるんじゃないかと思った。痛みに奥歯を噛みしめながら叩き続けた。


「……わかった。ごめんね、晶。とても苦しかったでしょう」


 恵美里が右手で晶の頬に触れた。彼女の反応が予想外だったのか、晶が顔を上げる。

 勇斗もその言葉に手が止まり、二人を振り返った。


「お願い、この手錠を外して。私、逃げないから……晶のこと受け入れたいの。でも、これじゃあ、あなたのこと抱きしめることもできない」


 恵美里の手が晶の頬をすべり、指先が唇に触れた。

 そのなまめかしい仕草に勇斗は思わず目を伏せた。恵美里の変化に戸惑っていた。


「恵美里」


 晶の声も震えている。勇斗は意を決して、ふたたび彼らを見た。

 頬に置かれた恵美里の手を握りしめながら、晶はもう一方の手で自分のワークパンツの尻ポケットを探っていた。目はずっと恵美里から離さない。恵美里も晶を見つめていた。

 晶は興奮しているのか震える手で手錠の鍵穴に鍵を挿し、なんとか回した。カチャンという金属音とともに恵美里の手が自由になった。

 その瞬間、恵美里は晶の背に手を回し、強く抱き寄せた。


「好きよ、晶」

「恵美里!」


 晶も両手を恵美里を締めつけんばかりに抱きしめる。

 そのまま彼女の首筋に顔を埋めた。彼の興奮した荒い息遣いがこちらまで聞こえてくる。


 勇斗は力が抜けて、その場にしゃがみ込んだ。

 拳を打ちつけていた左手は紫に腫れあがり、血がにじみ、ジンジンと痛みを感じているはずなのに、それより頭の方が痛んだ。

 すぐ目の前では、二人がまるで勇斗などいないかのように激しく求め合っている。


 晶は恵美里に深く口づけ、目を閉じた恵美里もそれを受け入れた。彼女の手が晶の背中をすべり、指先で反応する。

 晶の手が恵美里の服をたくし上げて素肌に触れると、目を閉じたまま恵美里の眉根が寄った。

 なぜこんなものを見せつけられなきゃいけないのか。

 勇斗は視界から二人を閉めだすように、うなだれた。だからなかなか気づけなかった。

 恵美里が晶のワークパンツの尻ポケットから手錠の鍵を抜き取り、勇斗の手元へ投げたのを。


「早く――お願い早くして‼︎」

「ふふっ、恵美里……おまえ、やっぱり母親と同じだな」


 晶は恵美里の胸に顔を埋めたまま、愉悦の笑い声をもらした。

 ふと、勇斗は頭を上げた。

 恵美里の今の言葉は一見媚態のように聞こえたが、勇斗はなぜか自分に言っている気がした。どこか必死な感じがしたのだ。


 そして視線の先、数十センチ前方に落ちている鍵に気づいた。

 勇斗は右手をめいいっぱい伸ばすと指先でなんとか鍵を手繰り寄せ、手に入れた。

 二人を見ると、晶の身体の下にいる恵美里と目が合った。彼女の目が嫌悪に潤んでいるのを見て、勇斗は確信した。今までのことは彼女が鍵を手に入れるために命がけで演じていたのだ。


 勇斗は無言で恵美里にうなづいて見せると、手錠の鍵穴に鍵を差し込んだ。一瞬合わないのではないかと不安になったが、手錠は外れ、両手が自由になった。

 勇斗が晶を恵美里から引き剥がそうと立ち上がった。

 そのとき、地面がズンと大きく揺れた。



「‼︎」


 縦揺れだ。一瞬、建物が沈むかと思うほどの振動だった。


「……地震?」


 晶も恵美里の身体から上半身を起こした。

 しかし揺れは一度きりで、すぐに止まった。

 晶が立ち上がっている勇斗に気づいた瞬間、勇斗は力いっぱいその顔を殴りつけた。躊躇は一切なく、自然と手が出ていた。


「ぐっ!」


 晶は背後に飛ばされ、ベッドの向こう側に背中から落ちた。

 勇斗は恵美里の手をつかむと立ち上がらせた。身体を庇うようにして主寝室から連れ出す。恵美里も右足に力が入りにくい勇斗の腰に手を回して、支えた。

 手すりにつかまりながら急ぎ足で階段を駆け下りる。

 だが、途中で二人の足は同時に止まった。


 階段の下に信じられないものを見たからだった。

 血だまりの中に――赤いローブ姿の女が立っている。まるで血の中から生まれてきたかのようだった。

 しかも二人は彼女を知っていた。

 だからこそ、なおのこと見ているものが信じられなかった――特に恵美里は。


「「許さない……私のこと……好きだって言ったくせに」」

「ま……ゆ⁈」 


 ありえないことだった。

 真優はあの時、すでに死んでいた。

 その証拠に前が大きくはだけたローブの下からは斧を打たれ赤黒く穴が開いた下腹部が見える。太腿は恵美里が見た時のまま、細切れになった肉が骨にようやく貼りついている状態だ。立つことすらできないはずだった。


「「いひひひひひひひひひ……あはははははははは」」


 かつては手入れされ輝いていた茶色い頭髪には乾いた血がまだらに貼り付き、顔も流れた血がそのまま固まり、真優が笑うたびにひび割れて、パラパラと床に落ちた。


「「辛い……胸が張り裂けそうよ……」」


 その声は真優のものでありながら、真優ではなかった。

 エコーのように同じ言葉が少し遅れて聞こえる。まるで地の底から響いてくるようだった。


「「……ふふっ、大丈夫。すぐ楽になるからね……あははははは……ひひひひ……」」


 足の先から凍りつきそうに恐ろしかった。

 恵美里たちは震えあがり、思わず互いの身体にしがみつく。


「ふざけやがって! 殺してやるっ! 勇斗‼︎」


 追いかけてきた晶が、階段の上からショットガンを二人に向けて構えた。

 だが彼もすぐに真優の存在に気づく。


「まっ、真優⁈ まさか、あ、ありえない……」


 その声に反応し、真優が階上の晶を見た。


「「そこにいたのね……省吾しょうごさん」」


 真優が階段を一段ずつ上がっていく。その動きは滑らかで、とても朽ち果てそうな身体には見えなかった。まるで見えない何かに操られているかのようだ。

 恵美里たちがいる段まで上がってきたが、真優は二人に気づくことなく、そのまま通り過ぎた。目は晶を捉えたままだ。

 それでも恵美里たちはそこから動けなかった。互いに抱きついたまま、真優を見続けた。まっすぐ晶へと向かって行く彼女を。


「く、来るな! や、やめろ‼︎」


 晶はショットガンを真優に向かって撃った。一発は彼女の額、もう一発は胸の辺りに。

 確実に当たっていた。真優の身体が衝撃で震え、めり込んだ散弾が肉を弾き飛ばす湿った音も聞こえた。

 だが彼女は倒れることなく確実に近づいていく。


「「今行くわはははははははははは……」」


 真優は階段を上りきり、晶との距離はほとんど無くなった。

 恵美里たちからはフードを被った彼女の後ろ姿しか見えなかったが、恐怖に歪む晶の顔はよく見えた。

 真優が両手を伸ばして晶を捕えた。晶は必死に振り払おうとしたが、逆に強く抱き寄せられる。


「ぐぇっ、や、やめろ……離せっ……は……」


 晶の手から銃が落ちた。

 真優の腕に締め上げられ、晶の顔色が赤黒く染まっていく。脚の力が抜け、床に膝をつきそうだった。


「「あなたは私のものよ……誰にも渡さない」」

「うぐっ!」


 恵美里の耳に何かが折れる音が聞こえた。

 木の枝が折れたような音だった。

 真優はぐったりした晶を抱えるようにして、主寝室へ入っていった。


 しばらくしてドンと何かが落ちた音が聞こえ、恵美里たちは反射的に身体を震わせた。

 二階を見つめながら恵美里は勇斗から離れる。そのまま階段を上がろうとした彼女の手を勇斗がつかんだ。


「まさか、行く気?」

「確かめたいの。……本当に終わったのか」


 恵美里の強張った表情に勇斗は小さくため息をついたが、結局一緒に二階へ戻った。

 寝室は静かだった。真優たちの姿はなかった。

 テラスの窓は開いており、吹き込んできた霧まじりの湿った風が二人の頬をなでた。風がレースのカーテンの裾をはためかせている。

 二人は支え合うようにしてテラスへと出た。

 一回息を飲んだが、思いきって下をのぞきこむ。


 晶は死んでいた。

 頭が割れ、血とともに脳の一部が庭の芝生に飛び散っていた。手足はありえない方向に曲がり、力なく広がっている。見開かれたままの目が、なぜこんなことになったのかわからないと言っているようだった。

 その晶を強く抱いた赤いローブ姿の女――真優も恐ろしい笑顔を貼り付けたまま息絶えていた。

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