浮雲山房から汝待神社(1)
八
「おーい、そろそろ起きろよ」
揺さぶられて目を覚ますと、私はまだ、
「え、今、なん時?」
寝ぼけ眼でトキハシの方を見ると、彼は
「昼過ぎ」
「わあ」
昨夜はかなり飲んだつもりでいたが、酔いは残っていなかった。私はトキハシと同じように歯を磨いてから、彼と並んで縁側に掛けて煙草を吸い始めた。
ふと、私は
「あ、財布」
「財布?」
トキハシは忘れているようであった。
「チヨ
それを聞いたトキハシは煙草を揉み消し、立ちあがった。
「ああ、そういやそうだったな。じゃ、行くか」
「え」
進んで外出しようとする彼の様子に、私は少し驚いた。トキハシはいかにも面倒な様子で寝癖を直すというよりは誤魔化し、着物を着かえ始めた。
「あ、そうだ、ほれ」
彼は
「せっかくだ、お前も着替えてけ」
生れて初めての着物を手にしたまま、私はどうしてよいか分からず、固まっていた。
「どうした。もしかして着たことないのか」
トキハシが帯の結び目を背中に回しながら私の方へ顔を向けた。
「うん」
「手がかかるな」
彼は笑いながら着付けに手を貸してくれるのであった。
「暑いな、今日も」
私たちが外に出ると、昨日に変わらない真夏の日差しが照りつけていた。胸元を
「ちょっと、待ってよ、トキハシ」
「どうした。もっと大股で歩いたらいいだろ? 着崩れたって、誰も見やしないさ」
「そうは言っても」
歩くのに苦労しながらも、私は密かに
「ん? ちょっと待て」
私がようやく歩行に慣れ始めた頃、トキハシが立ち止まった。
「二度目じゃないか」
そう言う彼の視線の先にはシムラ活版所の看板があった。
「二度目って、どういうこと?」
「ここ、さっきも通ったろ」
「そうだっけ」
トキハシは黙って足早に歩きだした。
「いいか、よく覚えてろよ。俺たちは今、活版所を過ぎたところだ」
炎天下、警戒しながら歩みを進めていると、やがてトキハシが声をあげた。
「ほら、見ろ」
彼の指す方に目を凝らすと、通り過ぎた
「トキハシ、どういうことだろう」
彼は私の疑問に答えることなく、活版所の方へと歩きだした。私は疑問を抱えたままで、彼についてゆくしかなかった。
活版所を再び過ぎ、民家を三つ四つ過ぎたところで、トキハシは足を止めた。
「ここか」
「ここって?」
疑問を向ける私の方を見るでもなく、彼は来た道を指した。
「向こうから歩いてきてみろ。俺の居る辺りで景色が変わる
私は言われたとおり、来た道を戻り、トキハシの方へと歩き始めた。周囲の景色に集中しながら、一歩ずつ、歩を進めた。ちょうど彼の立っている辺りに差しかかった時、確かに景色が切り替わった。空の色や歩道の様子、民家の外見が似通っているために分かりづらかったものの、唐突に景色が切り替わったのであった。
「な、分かったろ。この辺りが世界の
「世界の縁?」
「前に、この世界はもう長くないって言ったろ。縁から少しずつ、一枚の紙が燃えるようにして世界が消滅していってるのさ。そして今、ちょうどこの辺りまで消滅が迫ってるってことだ」
その事実に、私は恐怖を思いだした。
「じゃあ、この先のチヨ婆の店は」
「もう、消えたんだろ」
日差し、晴天、入道雲、時折通る自動車。
「チヨ婆の所で買おうと思ったんだけどな」
「消えちゃったね」
「ああ」
「財布、ごめん」
「いいさ」
「いつまでもつのかな、この世界」
「さあな。まあ、夜まではもつだろ。祭りは楽しめるさ」
「どんな祭りなの」
何か、話していなくては落ち着かなかった。トキハシは輪の形に煙を吐いた。
「神社までの道によ、ずうっと夜店が並ぶんだ。さっき寄った商店のおっさんも店出すんだ。あのおっさんは毎年、かき氷だな」
「へえ。他には?」
「メインイベントは
「流すって、
「空」
「へえ」
吹き込んできた風に、風鈴が音をたてた。
「いいもんだぞ。夜空に向かって、たくさんの灯籠が昇っていくんだ」
「見てみたいな」
「見られるさ。今夜」
その言葉を、何処まで信じてよいか、分からなかった。
しばらく、私たちは居間に座ったまま、庭を眺めていた。晴天に湧く入道雲は見事で、世界の消滅が迫っているとは思えない程壮大であった。
「ねえ、
煙草を吸うのにも飽き、また、それだけでは心の平穏を得ることはできないと悟った私は、そう、トキハシに持ちかけた。
「何処かって?」
「そりゃ、分からないけど。何処かないの? 夜まで時間を潰せそうな所」
「なんにもない町だからな。またザリガニでも釣りに行くか?」
「えー」
やがて煙草を吸い終えたトキハシは立ちあがって押入れを開け、何かを探しているようであった。
「お、あったあった」
髪に埃を付けた彼は大きな
「暇つぶしに
「ルール知ってるの?」
私は碁盤を前にしながら
「いや、知らない」
「じゃあ、駄目だよ。私も知らないもの」
「いいんだよ、知らなくても」
彼は台所へと歩いてゆき、やかんと湯のみを持って戻ってきた。
「さ、麦茶は飲み放題、日暮れまで時間はたっぷり、始めるぞ」
彼は私に丸い容器を渡した。中を
「始めるって、どうやって」
「ルールは単純だ。交互に石を置いていくだけ。ただし、できるだけ
「勝ち負けはどう決めるの?」
「そんなものは無い」
「トキハシはやかんから湯のみに麦茶を注いだ」
「始めるぞ、そら」
碁盤の中央に黒い碁石が置かれた。私は戸惑いながらもその隣に白の石を置いた。
「お、そう来るか、なら、ここだ」
彼は碁盤の隅に石を置いた。
「ねえ、このゲーム、なんなの?」
私は彼が置いた石の反対側に石を置いた。
「今は石を無秩序に置くことだけ考えろ。何って程のものじゃない。俺が考えた。たまにやるんだ」
「誰と?」
「ひとりで」
「ひとりで?」
石を置こうとした手が止まった。トキハシという男は私が予想していたよりも遥かに変な人物であるようだった。
「変な顔するなよ。たまにだ、たまに。執筆に行き詰ったときとか、やるんだ。いいか。表層の思考ってのはな、
トキハシが盤上の石を私に返した。
「じゃあ、ここ。トキハシってさ、ちょっと変だね」
変だと言われた本人は
「そうか? あれだ。作者に似たんだよ、きっと。そら」
トキハシが石を置いた音が、涼風に掻き消えた。
「ま、作家なんてのは少し変なくらいがちょうどいいのさ。それに、お前もそこそこ変だからな?」
「そうかな。あ、トキハシ、黒が三つ、繋がってる」
「ああ、そうだな」
「無秩序にならないよ」
「これでいいんだよ」
彼は腕組みをしたまま、涼しい顔をしていた。
「でも、さっき、白が三つ繋がってるって言って私に石を返したろ?」
「なんか、さっきとは違うんだな。一見秩序に見えるのも、やっぱり無秩序なんだ」
「そんなこと言い始めたらなんでもありにならない?」
「なんでもありなんだよ。直感に従え」
やはり、彼は少し変であった。
しばらくの間、私たちは互いの打つ手に
「思考も言葉も、人にとっては
トキハシが盤に目を
「なんとなく、分かるよ」
私はこれまでの旅路を思い返していた。
「それを知ってるってことは、お前にとって幸いだ。だけどな。お前は人より
力強く、彼が打った石が細かく震えていた。彼はまだ、盤から目を上げようとしなかった。
「これはこうしなきゃいけない。こうあるべき、これをすることが自分の使命、何を捨ててでもそれを成し遂げる。皆、そいつにとって牢獄になるだけだ。そんな狭苦しい中で人生を過ごすなんて、つまらないと思わないか。ま、この言葉も牢獄といえば牢獄か」
彼がようやく碁盤から顔を上げると、吹き込む風。それに庭の木がざわめいた。
「今のお前を閉じ込めてる大層な牢獄の名が分かるか」
私は右手に石を持ったまま、答えを探していた。頭に浮かんだのは常夜ヶ原で私を拘束していた文字列であった。
「
彼が口にしたのは私にとって牢獄ではなく、心のよりどころであった。そしてそれは、私の表情から容易に察することができたようであった。
「意外か? そうでもないだろ。お前はまだ、昨日、俺とザリガニを釣った時のままだ。この世界を救わなきゃだとか、なんとしてでも人に知らせて
全て、覚えがあった。
「だからこそ、お前はこの世界の消失を前にして、そんなに
「そんなことはない。今の私にとって、この世界は大切で、だからこそ、失くしたくない場所なんだ」
「ほらな、やっぱり、今のお前にとって睡中都市は牢獄だ。考えてみろ、お前は本当はあっちに生きてるんだ。睡中都市の作家として生きる以外にも、選択肢は腐るほどある。本当にそれを切り捨ててまで、救う程のものか、この世界は」
「当たり前だ。決めたんだ。私は夢に生きるって」
「頑固だねえ」
トキハシはあきれたように首を振った。
「ま、覚えとけ。睡中都市に捕らわれる必要はない。いつかお前が作家以外の道を歩むことになったとしても、それは別に悲観する事でもない。
トキハシは煙草に火を点けながら、盤上を指で叩いた。早く置けと言うことらしかった。私はさして考えもせず、石を置いた。
「お、いい手だ。そうくるか」
どういうわけか、トキハシはゲームが始まってから一番の関心をみせていた。
「いいか、もう直、睡中都市の燃えカスであるここも、完全に消滅する。もしかしたら、しばらくお前と俺が対面することはないかもしれない。でもな、俺たちはずっと居るんだ。存在ってのはお前が考えるよりもずっと強い概念だ。誰かが否定しても、大勢が否定しても、お前たちの世界が滅んでも、宇宙が消えても、もはやお前が否定しても、この世界の存在は消えない。それが本当の意味での存在だ。こっちは気楽にしてるから、お前も気楽に生きてろよ」
トキハシは力強く石を置いた。
私とトキハシは日暮れ近くまで碁を打ち続けた。私は彼に、これまでの旅の思い出を語った。
最後のゲームを終えた時、盤上には見事なまでの無秩序で石が並んでいるように見えた。
「結局お前は、体験すべきことを正確な順番で体験したんだろうよ。全てには、壮大な意図がある。きっとそれは、お前をガイドしたトアノすら知り得なかった宇宙の意図だ。なんて言うと、ちょっと
トキハシは照れたように笑った。
「俺にはそんな気がする。そして、睡中都市の消滅もまた、意図に含まれてる。この先は、きっと、試験だな」
「試験?」
私はその言葉を旅路で聞いたことがあるのを思いだした。
「お前は
彼の忠告を聞いていただけに、
「ちょっと悩ませすぎたか」
トキハシは困ったように頭を掻いていた。
「ニュートラルに生きてろよ。
トキハシはやかんに少しばかり残っていた麦茶を飲み干した。
「さ、行くか」
縁側に差し込む陽が、色づいていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます