鏡門から浮雲山房(2)
「まあ、座れ座れ」
トキハシはジョバンニを私の隣に座らせ、スイカを
「そういえば、お前はジョバンニのこと、知ってたな」
トキハシが思いだしたかのように問いかけた。
「私が想像しているとおりの、ジョバンニのことなら」
「そうそう。ギンテツのジョバンニよ」
それを聞いたジョバンニは口の中のスイカをすっかり
「銀河鉄道の夜をご存知なんですか。では、初めましてではありませんね、僕たち」
ジョバンニが丁寧にお辞儀をしたのにつられて、私もスイカを一度置いて頭を下げた。
「トキハシ、ジョバンニと知り合いだったんだ。驚いたよ」
「いや、知り合いっていうか、なんだ、こいつの手伝ってる活版所から、俺が仕事
「ええ、トキハシさんは僕や友達にもよくしてくれるんですよ」
とりとめのない会話をしながら、私はジョバンニの姿を観察していた。外見に反して時折見せる何処か落ち着いたような雰囲気や宇宙の色をした瞳は、紛れもなく、私の知っているジョバンニであった。
「そういえば、
「現実から。私はトキハシの作者なんですよ」
そう言った途端、トキハシの顔色が変わり、私は自身が口を
「あ、いや。なんだ、そのな。つまりは俺の作者と共同で執筆する予定で、こいつは俺の作者でもあり、共同執筆者でもあるんだ」
なんとか取り
「いいですよ。シムラさんには、なんとか言っておきます」
諦めたような表情を見せたジョバンニはスイカの種を飛ばした。
「あちらからお出でになったトキハシさんの作者さんならご存知でしょうが、先日、水晶塔が折れました。僕は偶然、この町に来ていて助かりましたが多分、この町ももう
そう言ったきり、黙々とスイカを食べる、少年に似つかわしくないその表情は、己に待ち受ける運命を、既に受け入れていた。
「なんとお
「いえ、いいんです」
ジョバンニが庭を向いたまま、私の言葉を
「僕は、気にしていません。今度のことも、全部、あちらの人々や僕たちに必要なことだったんです。きっと僕たちは生まれ変わることができます。だって、人にはどうしたって、物語や創作が必要なんですから。それまでの間、僕はイーハトーブの仲間や、カムパネルラ、ケンさんたちと銀河鉄道の夢をみているんです」
ジョバンニは快晴の夏空を眺めていた。
「僕はそろそろ、戻ります。スイカ、ご馳走様でした」
「親方によろしくな」
「そういえば、作者さんは
その名を口にする彼の瞳は、どこか悲しげであった。
「ええ、よく知っています。やつらこそ、水晶塔を折り、睡中都市を消滅させた張本人です」
「彼らを、どう思いますか」
眼前に終の町やオールトの図書館で目にした光景が
「憎いです。やつらさえいなければ、睡中都市は、私の仲間たちは消えなかったんですから」
ジョバンニは表情を変えることなく、私の目を見ていた。
「僕は、彼らが
ジョバンニは目に涙を溜めてそう言ったものの、私は素直に彼らを可哀想だとは思えなかった。
「それじゃあ、さよなら」
考え込む私を後ろにし、ジョバンニは駆けていった。
「ねえ、トキハシ。どう思う」
ジョバンニの去った後、私はスイカを食べ続けていたトキハシに
「ジョバンニの言ってたこと。覚醒党員のこと、可哀想だと思う?」
「さあな。ま、ジョバンニにも何か思うところがあるんだろうな」
トキハシはスイカに夢中なのか、気のない返事であった。
「私はやっぱり、許せないよ。でも、彼らを生みだしたのは、紛れもなく私自身だ。作者である私くらいは、彼らのことを愛すべきなんだろうか」
思案に暮れる私の前に、トキハシがまたもやスイカを突きだした。
「それで最後だ、食え」
スイカを持った私は、模範的な夏景色を前に腰を下ろした。
「自分の在り方だとか、どうすべきだとか、そんなこと、必要以上に悩んだって仕方ないさ。分かるべきことは、分かるべき時に分かる。それでいいし、そうしかならない。それまでは一旦、全部保留にしてなんとなく生きてりゃいいさ」
「そうかな」
「そうとも」
トキハシは庭にスイカの種を吐きだした。気がつくと庭には、大量のスイカの種が散らばっていた。私は深刻な
「そうだ。釣り行くか」
トキハシがスイカの皮たちをゴミ袋に詰めながら台所から提案した。
「釣り? 今から?」
私は居間に寝そべったままで返事をした。
「そうよ。お前もせっかくここに来たんだ。ひと間に閉じ
「でも、トキハシ原稿書かなくちゃいけないんじゃないの」
「いいんだよ。今日は書く気がしない。そんな日には何書いたって駄目だ。それに、そっちはジョバンニが上手く言ってくれるだろ。まだ猶予はある」
しばらくトキハシは台所で何やら音をたてていたが、やがて黄色いプラスチックのバケツを
「さ、行くぞ」
トキハシに続いて石段を下り、車道へ出た。夏の太陽がまともに照りつけ、背中が汗ばむのが分かった。
「この道をな、こっちに行くとチヨ
トキハシはバケツを持った手を上げ下げしながら解説してくれた。私たちは車道を渡り、
「それにしても暑いな。タオル持ってくればよかった」
トキハシは汗を着物の
「ねえ、川へは
そんな疑問を口にすると、トキハシは不思議そうな顔をした。そして私は今更になって彼が釣竿を持っていないことに気づいた。
「川? この川か? 向こうから下りられるぞ」
トキハシが指したのは私たちが歩いているのとは正反対の方角であった。
「釣りって、川でやるんじゃないの? あと、釣竿は?」
「川でなくたって、釣りはできるさ。それに、釣竿ならちゃんと持ってきてる。安心しろ」
トキハシは畦道を田圃の方へ下りていった。
「さて、ここら辺にするか」
トキハシは或る田圃の近くにバケツを置き、しゃがみ込んだ。
「ほれ、釣竿だ」
彼がバケツから取りだしたのは割り箸であった。
「それから、ほれ。
トキハシはスルメを一本よこし、自分は一本を食べながら釣竿を完成させた。
「釣りってもしかして」
「ザリガニ釣りだ。もしかしたらそれ以外にも何か釣れるかもしれないけどな。カエルとか。それはそれで面白そうだ」
炎天下、いい歳をした男が二人、田圃にしゃがみ込んでザリガニを狙うことになった。
「お、きたきた。でかいぞ」
水に入れたスルメの
トキハシが竿を上げると、ザリガニが怒りを示すような格好で凧糸にかかり、くるくると回っていた。彼はそんなザリガニをスルメから引き離すとバケツに投げ入れた。
「とうとう釣れたね」
私は一向に竿にあたりがこないことを悔しく思い始めていた。
「逃がさないの、それ」
「どれだけ釣れるか気になるだろ」
「まあね」
トキハシは再び田圃に釣り糸を垂らした。
「そうだ。せっかくだし、釣れたやつら食うか」
「え、ザリガニって食べられるの」
「さあ。エビみたいな見た目してるし、食えるだろ」
「美味しいのかな」
「さあ」
ザリガニの寄ってくる気配のない手元から顔を上げると、田圃の向こうに鏡門の繋がった杜が見えた。暑いな、と呟くトキハシを横目に、田園風景の中、ザリガニを釣る。馬鹿馬鹿しいようでありながら、この時間が
「食ってる食ってる。おい、竿上げろ」
トキハシの声に手元を見ると、ザリガニがスルメを挟んでいた。慎重に釣竿を上げるとザリガニは己の存在を
「お、俺の釣ったのよりでかいな」
はしゃぐトキハシを横目にしながらも、私の心は晴れなかった。のどかな田園風景の中に居てさえ、この世界の終わりを意識すると、もはやそこから思考は離れなかった。トキハシは黙って私のザリガニをスルメから外し、バケツに入れた。
しばらく、私もトキハシも黙って釣り糸を垂らしていた。
ザリガニが五、六匹も釣れた頃になって、ようやくトキハシが口を開いた。
「お前、どうせまた、考えたって仕方ないこと考えてるだろ」
「分かる?」
「顔に書いてる」
トキハシは釣れたザリガニをバケツに入れた。カリカリと彼らがプラスチックを歩き回る音が聞こえていた。
「そうだな。先ずはお前、
「執着って?」
「睡中都市は別に特別な場所じゃない。お前が生涯の内に
非情とも思える言葉に、私はザリガニを外そうとした姿勢のまま固まった。
「この世界が消えたらだとか、
トキハシの口から出た現実という言葉が聴覚上は平坦に、視覚的にはモノトーンに、味覚上では砂のように感じられた。
「睡中都市に繋がれて、お前がお前として生きられなくなるなんてことになったら本末転倒だろ。必要以上にお前がこの世界のことを背負う必要はないんだ。お、また釣れた。よく釣れるもんだな」
彼の言うように生きられれば、確かに、私は幾らか安楽であろうと理解はできた。
「
「ま、無理もないことだな。この世界はお前の創った物語が他の創作を巻き込んでできた場所だからな。思い入れもあるだろ」
トキハシは前を向いたまま、
「うん。今度の旅ですっかり思いだしたよ。私の生が創作無しでは成立しないことにね。だからこそ、私はこの世界を――」
「まあまあ、そう情熱的になりなさんな、作家先生」
トキハシは目線を田圃に向けたままで私をなだめた。
「あ、そっち、食いついてるぞ。お前が現実も夢も、あらゆる世界を見渡して、それでも書きたいなら、盛大に書けばいい。ただし、執着は厳禁。お前がお前を生きた上で、書け」
「難しいね」
「そうか?」
いつの間にやら、バケツには気味の悪い程、ザリガニが溜まっていた。
「さて、そろそろ戻るか。こいつら、
トキハシは立ちあがった。
「お前は、なんのために小説を書くよ」
彼は釣竿で私を指しながら
「これからは、この世界の再興のためさ。物語を紡いでいれば、いつか、この世界は
私も立ちあがり、バケツに釣竿を放り込んだ。トキハシは脱力して口を開いた。
「そんな作家先生にいい標語を教えてやろう」
「何さ」
「全ての創作はゲロだ」
衝撃的な組み合わせに、私の
「誰かに見せるためだとか、何かを為すためだとか、何者かになろうだとか、睡中都市を再興させようだとか、創作ってのは、そんなことのためにやるもんじゃない。ただ、自分がそれを吐きださないことには気持ちが悪いからそうするんだ。純粋な創作なんて、皆そんなもんだろ? だからお前も、ゲロのために生きるな。生きてゲロを吐け」
私は何か分かったような、納得しきれないような、中途半端な気持ちで
「あ」
「どうしたの」
「見つかった」
彼の視線を追うと、
「こら、トキ! お前に原稿の
作業服姿の男は臨界点を超えた様子で言葉のリボルバーを放っていた。
「ええと、二週間前、くらい、でしたっけ?」
トキハシは彼と目線を合わせないようにとぼけていた。
「二か月前だアホタレ。まだできていないとは何事だ。なんとしてでも今日中に書いてもらうぞ。今日中だ!」
「いや、その。今日は共同執筆者との取材が……」
ザリガニバケツを持つ姿にはあまりにも似合わぬ台詞であった。
「取材も下剤もない。うちの事務所を貸してやるから、そこで書け。仕上がるまでは帰れると思うな」
烈火のごとく怒鳴っていた男は急に静かになると一歩、私の方へ近づき、滑らかな動きで顔を
「トキさんのご友人様ですか。どうも初めまして。活版所のシムラと申します。ちょっと、こいつ、今から仕事でして。お借りできますか」
強烈な温度差で
「ありがとうございます」
一転、シムラの顔に
「そら、来い、トキ!」
「いや、しかし親方。取材……」
「来い」
トキハシは大勢のザリガニたちと共に活版所へと連行されていった。トキハシは振り返って何かを投げてよこした。見ると革の財布であった。
「それで今日一日遊んでろ」
そう叫ぶ彼の姿がどんどんと遠ざかっていった。
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