幕間Ⅱ(2)

 夕方になり、私は倦怠けんたいを振りほどいて徒歩数分のところにあるレストランへと向かった。

「あ、ヤッホー」

休憩室のドアを開けると同僚どうりょうの女子大生がまかないを食べていた。

「ヤッホー」

私は彼女と同じような挨拶を返した。

「あれ、今日って出勤だっけ」

「いや、駆りだされた」

「ハッカイに?」

「そう。わざわざ電話があったんだ」

マネージャーの猪狩いのかりは私たちアルバイトの間でハッカイと呼ばれていた。西遊記の猪八戒ちょはっかいに似ているというのであった。

「ドンマイ。でも、ラッキーだね。今日ハッカイ、他店舗に行ってるんだって」

労働から怒号の要素を排除する報告をくれた女子大生は目玉焼きハンバーグを平らげると、帰っていった。

 出勤するとマネージャー代理の森川がキッチンでチキンを焼いていた。

「森川さん、今日もよろしくお願いします」

私が挨拶をすると、丸眼鏡のよく似合う森川は笑顔を見せた。

「はい、よろしくお願いします」

 いよいよ私の労働が始まった。入り口のベルが鳴るたびに発狂したかのように心にもない挨拶を叫び、値段の割にはうまくもなさそうな料理を持って客席とパントリーを往復し、客席のベルがなれば、作り笑顔で用を聞きに行くというのが私の労働であった。もっとも、まともな倫理観や、責任感を持っている人間からすれば、人々に高品質なサーヴィスを提供する素晴らしい仕事であったのかもしれないが、どうやら私はまともな人間ではないようであった。私はもうなん年も自宅から近いというだけの理由でここを職場に選んだことを後悔していた。とはいえ、今更職場を変える労力を思うと、現状を継続させる方がいくらか気が楽に思え、私はここに留まっていたのであった。

 夕食時になり、店は少しずつ、混雑し始めた。キッチンは幾らか殺伐さつばつとした雰囲気を帯び始めていたものの、森川だけは普段と変わらず、仏のような表情でハンバーグやチキンを焼き、パスタをでていた。

 客席のベルが鳴る。

「ねえ、まだ料理が来ないんだけど、どうなってるの」

真珠のネックレスをつけた大黒様のような形をした女性が苛立いらだちを隠そうともせずに口を開いた。

「申し訳ございません。確認してまいります」

キッチンへ戻る。

「三十三卓の料理、まだ出ませんか」

「出ませんよ。こんなにたくさん注文があるんだから」

キッチンの清水がぶっきらぼうにつぶやいた。私は心の中で、その特徴的な髪形の男を河童と呼んでいた。

「それより早く、そこの料理、持ってってくださいよ。冷めてるってクレームがきたら作るのはこっちなんですよ」

河童はいつもに増して不機嫌であった。


「いらっしゃいませ、なん名様でしょうか」

三人の客がそう声をかける私の目の前を素通りして、まだ片付けの終わっていない席へと腰を下ろした。空いている席があるというのに、食べ終わった後の食器が並んだ席に好んで座るとは、コバエのような客である。

「あの、お客様、そこはまだ片付けておりませんで、どうぞ、あちらの席へ」

私はそううながしたが、流石はコバエ、もとよりまともな会話はできないようであった。

「あ、そう。早く片付けろ、ここを!」

「はい」

人間社会には人間のふりをした化物が幾らもいるということを、私はこの仕事で学んだ。そんな具体例に直面する度に、私は人間が嫌いになっていった。


「おうかがいします。少々お待ちください」

忙しさのピークが過ぎ去った頃、客席のベルが鳴った。席に行くと、二人の婦人が座っていた。ラクダのような顔とアンコウのような顔であった。

「ちょっと!」

ラクダが激高していた。

「いかがなさいましたか」

「これ! ちっとも味がしないじゃないの」

料理を見て驚いた。チーズの入ったハンバーグにチーズのソースがかかっているという、私が胸焼けハンバーグと呼んでいる代物しろものであった。

「味が、しませんか」

「そう、なんの味もしないじゃないの。どういうことよ」

どういうことよ、はお前の舌だ。これで駄目ならば、一体なんの味が分かるというのだ。

「こんなものにこんな高いお金払わせるっていうの! どうなってるのよ。大体、前に来た時もそうだったわ。随分待たされて出てきたのが冷めきったスープにふやけたパスタ。客をなんだと思ってるのよ。その前はサラダが……」

ラクダは見境なく過去の出来事を吐きだし始めた。ああ、これが反芻はんすうという行動かしらと納得する私の目の前で、アンコウは声も出さず、さも深刻な事件の目撃者だというようにうなずいていた。私は脳内回路を自動モードに切り替えた。

貴方あなたたち、お金もらって働いてるんでしょう!」

「はい」

「じゃあ、もっと責任感持って仕事しなさいよ」

「はい」

「それがプロでしょ、プロ!」

「はい」

「なんとか言いなさいよ。こういうことはね、必ずしっぺ返しが来るのよ」

「はい」

「そんな不誠実な事ばかりしてたら、いつか貴方に不幸が降りかかるのよ」

「はい」

「気の無い返事ばかりしてないでなんとか言ったら! どうせ貴方、私のことうるさいババアだって思ってるんでしょ」

「はい」

「え?」

「え?」

空気感おかしいことに気がつき、私は自動モードを解除した。会話を振り返ってしくじったことに気がついた。

「あ、いえ、そんなことは」

手遅れであった。

「もういいわ、貴方じゃ話にならないから、上の人間出しなさい! もっと人間らしいのを!」

「私、人間らしくございませんか」

「できのいい猿よ!」

 報告のためにパントリーに戻りながら、私はこの店に猪と河童だけでなく、猿まで揃っていたのかと感心していた。さながら仏のような森川は三蔵法師であろうなどと、くだらぬことも考えていた。三蔵法師に今の出来事を伝えると、彼はキッチンから出て、身なりを整えた。

「じゃあ、僕が行ってきます。お席はどちらですか」

「二十一卓です」

「ありがとう」

森川は席まで歩いてゆくと、膝をつき、丁寧に話を聞きながら、何度も頭を下げていた。散々怒号をき散らしたラクダはやがて静かになったかと思うと再び何か叫び、ついには泣きだした。私よりも年若い森川は動じるでもなく丁寧に対応していた。

 やがてラクダとアンコウは連れ立って店を出ていった。

「森川さん、申し訳ありませんでした。結局、どういうことになったんでしょう」

「大丈夫ですよ。今回はお代をいただかないということで納得していただけました」

「そうですか。ありがとうございました」


 その後、労働しながら、私は森川のことを考えていた。私は森川という男を尊敬していた。この店は決して良い労働環境とはいえなかった。マネージャーやそれ以上の職位の者が常に誰かを怒鳴りつけ、かつてのマネージャー代理は皆、短期間で消えていった。その中で森川だけは、何故なぜか、長くこの店に留まっているのであった。理不尽な上司の怒号や客からのわけの分からないクレームにえながら、いつでも笑みを絶やさず、穏やかな表情を崩さなかった。彼が声を荒らげているところなど、見たことがなかった。にごった水の中でも美しく咲く、睡蓮すいれんのような人物に思えた。


「今日はまだ、仕事が残っているので、先に退勤してください。閉店作業は僕がやっておきますから」

 森川の目の下に、くまができているのを見つけた。

 私は、言われたとおり退勤すると、森川に挨拶をして店を出て、裏手の喫煙スペースへ向かった。煙草に火を点け、煙を吐くと、今日一日のくだらぬ出来事が空に溶けていくようであった。しかし、森川に頭を下げさせてしまった後悔だけは、心に残ったままであった。

 過去に一度だけ、散々マネージャーに怒鳴られた森川が少し困ったような顔をして

こたえますね」

こぼしていたことが頭に浮かんだ。あんなに良い人がこんな境遇に置かれるのは間違っていると確信するとともに、そんな彼にどうか幸あれと、私は祈っていた。


 煙草を吸い終わり、帰ろうとしたところへ歩いてくる人物があった。森川であった。

「おや」

「森川さん、もう仕事は終わりですか」

「まさか。ちょっと休憩に、ね」

森川は煙草に火を点けた。これほど煙草が似合わぬ人物もそうないであろうと考えていた。

「今日は、すみませんでした。そして、対応していただいて、ありがとうございました」

森川は笑顔で手を振った。

「いえいえ。これも仕事ですから」

私は森川の吐いた煙が、空に流れてゆくのを眺めていた。

「森川さんは、どうしてこの仕事を続けているんですか。大変なことの方が多いように思えるんですけれど」

森川と二人で話をする機会を得た私はかねてからの疑問をぶつけた。森川は煙草の灰を灰皿へ落とし、口を開いた。

「僕は、いつか自分の喫茶店を持つのが夢なんですよ。そのために調理の学校を出てからここに入社したんです。いつかのための勉強になると思って。でも、なかなか上手くいきませんね」

悲しい笑顔を、彼は見せた。

「どうも僕は昔から物覚えが悪いようで。失敗ばかりですよ。自分の喫茶店なんて夢のまた夢だと、いつも思うんです」

普段、マネージャーや他の社員から激しい怒号を浴びせられている森川の姿が思い返され、私は返答の言葉をつむげないでいた。彼はそんな私の心情を読み取ったかのように少し、話題を変えた。

「夢、といえば、この間、面白い夢を見ましてね。何処どこか、知らない田舎の町で、僕が喫茶店を経営していたんです。決してもうかっているようでもありませんでしたが、常連さんがいて、とても良い環境でした。あんな夢なら、めなくてもよいとすら思いましたよ」

睡中都市すいちゅうとしには、森川の店があるのだろうと、私は確信した。夢をみ続けてほしいと、それは決して届か届かぬ幻想ではないと、私は森川に伝えたかったものの、なんの前提もないままのその言葉は、いかにも陳腐ちんぷな表面上の言葉に思え、私は躊躇ちゅうちょした。

「いや、夢ばかりみていないで、きちんと現実を見なければいけませんね」

森川が再び見せた悲し気な笑みが、私の躊躇を払拭ふっしょくした。

「自分の望みが否定されることが現実なわけではないと思います。夢をみることは、現実を見ることと、なんら、変わらないと思います。きっと、それは、偉大なことです。どうか、森川さんの夢を」

そこで、私の言葉は途切れた。どんな言葉を繋げばよいか、分からなくなったのであった。持ち続けてください、忘れないでください、大切にしてください、どんな言葉も尊大そんだいに聞こえた。私は作家でありながら、上手く言葉を操れないでいたのであった。

「ありがとうございます。その考えって、とても素敵だと思います」


 やがて、私は森川に挨拶をして、店を後にした。どうか森川が夢を捨てないようにと祈っていた。そして、今を生きる、森川と同じような善き人々にも、夢をみ続けてほしいと願っていた。

 帰宅し、机の上に積み重ねられた原稿を眺めているうちに、る考えが浮かんだ。

 この物語の結末は、このままでは不適切である。

 ゲンジツに蹂躙じゅうりんされたままの終結など、認めたくなかった。しかし、もはや睡中都市を訪れることは叶わないであろうと自覚していた私は、この続きを自身の力で創作することに決めた。旅を適切な終わりに導くために。

 私は続きの構想を練りながらシャワーを浴び、歯を磨き、しばらく原稿用紙に向かい、結局、何も書けないまま布団に入った。

もし、もう一度、睡中都市を訪れることができたなら、どうなるか。空想が膨張し、分岐ぶんきし、消滅し、脳髄はその他のことをすっかりと遮断していた。

 明確な展開も思い描けないまま、幾度目かの寝返りを打ったその時、私は妙な感覚に、ふと目を開けた。視界を埋める銀河。私が寝ているのは、生い茂るささやかな背丈の植物の上。水の流れる音が聞こえる。私は跳ね起きた。

浮き島だ。

 待ちわびた、あるいは諦めていた再訪に、私は打ち震えた。まだ、睡中都市は完全には消失していなかったようであった。反射的に鏡門きょうもんの方へと目を向けた私は、硬直した。鏡面には大きな亀裂が幾本も走り、ふちさびに変色していた、落ち着いて周囲を見回すと、水の音は聞こえても、川は何処にも無かった。ただ、この浮き島だけが、果てしない闇の中にぽっかりと存在していたのであった。

「やはり、この世界は一度崩壊したのだ」

フラッシュバックした終末を受け入れ、私は再び、鏡門と対峙たいじした。

「しかし、まだ繋がりは残っている」

確信を口にしながら、私は一歩ずつ鏡門へと近づいていった。鏡の中の私との距離が縮まるなか、ふと、鏡の中にトアノたちの姿が映ったような気がして振り返った。何者も立っているはずはなく、風さえ吹かない空間があるだけであった。それでも、私は彼らがまだ私と共にあると信じ、鏡門をくぐった。


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