102号室

kamo_f

ベランダ越しの

 これは、私が大学在学中にうつ病を患い、引きこもっていた頃の話です。もう10年近く前になりますが、今でもときどき思い返しては「あれは本当に現実だったのか?」と思うことがあります。はっきりしたオチがあるわけではないのですが、よろしければ最後までお付き合いください。


 当時、私はマンスリータイプのアパートに住んでいました。築年数こそ古かったものの、見た目は比較的きれいで、住む分には十分快適でした。ただ、立地が少し特殊で、近くに大きな霊園があるせいか周囲には墓石店が立ち並び、通りを挟んで向かい側には老人ホームや病院が点在していたのです。深夜になると、窓の外から赤いライトのような光が差し込み、そのたびに目を覚ますことがよくありました。


 通りに面したアパートで、駅からはそこそこ近かったので人通りは少なくありません。そのアパートにはブロック塀と、砂利の敷かれた小さな庭のようなスペースがありましたが、居住者が入れるような場所ではありませんでした。


 私が引きこもりのような生活を始めて二、三ヶ月が経つころには、生活習慣がすっかり狂っており、昼前に寝て夕方に起きるという毎日を送っていました。もちろん大学にも行けず、自分の中で何か大きな歯車がずれていくのを、はっきり感じていました。


 茹だるような暑さが続いていた真夏のある日、深夜の3時を回った頃のことです。何をするでもなく「このままではどうしよう」と考え事ばかりしていたら、突然、外から「ジャリ、ジャリ」という、細かな石を踏むような足音が聞こえてきたのです。最初は大して気に留めず、そのまま考え事に没頭していましたが、ふと一段落ついた瞬間、急激な違和感に襲われました。理由はわからないのに、とにかく「おかしい」という感覚だけがどんどん強まるのです。心臓が早鐘を打ち、顔が熱くなるのを今でも覚えています。


「なんだ……?」


 自分でも、その正体を必死に考えました。そして気づいたのです。


「……音だ」


 先ほど聞こえた「ジャリジャリ」という足音。本来なら聞こえるはずのない場所からの音でした。冒頭にも書いたように、砂利の敷かれたスペースに人が入るには、そこそこ高さのあるベランダから飛び降りるか、ブロック塀を乗り越えるしかありません。もし猫や小動物が通っただけならまだしも、どうもそういう雰囲気ではない。窓の外から伝わってくる不気味な違和感が、私の「ただの動物かも」という希望的観測を否定するのです。


 本当なら急いで窓を閉め、電気も消すべきだったのかもしれません。しかしそのときの私は、窓の外にいる「何か」に、自分がその存在を認識していると気取られるのが嫌で、身動きできずにいました。じっと窓を見つめたまま、体感では一時間ほど経った頃でしょうか。再び「ジャリ、ジャリ、ジャリ」と足音が近づいてくるのです。


(近づいてきてる……!)


 パニックになった私は、思わず勢いよくベランダに出ました。震える手で携帯を握りしめ、いつでも通報できるよう身構えながらあたりを見回します。


(……誰もいない)


 あまりに静かな様子に、急に力が抜けてしまいました。ベランダの手すりに肘をつき、大きく深呼吸をしたそのとき――ふと視線を下にやったら、目が合ったのです。


 老婆と。


「……っ」


 喉の奥から、声にならない悲鳴のようなものが漏れ、腰が抜けました。もう一度、しっかりと確かめる勇気はありません。そのまま何度か深呼吸をしてから、私のベランダにもたれかかっているらしき老婆に向かって、かろうじて声をかけました。


「な、何ですか……?」


 しかし老婆は何かを口走っているものの、はっきりとは聞き取れません。


「hyらう、はyるてあ……」


 何を言っているのかわからず、もう少しはっきり聞こうと顔を近づけると、彼女の表情がクリアに見えました。ボサボサの髪、口元にはにやついたような笑み。そして口の端には何やらカスのようなものが溜まっていて、真っ暗な口の中を開きながら、こちらに必死で訴えかけているのです。


(無理だ……)


 そう思った瞬間、私の意識はそこで途切れました。


 翌朝、灼熱のような日差しの中で目が覚めると、私はベランダでとんでもない姿勢のまま倒れていました。全身が痛くて仕方ありません。それでもあのときの光景がはっきり蘇ってきて、手足が震えたのを覚えています。


 ――これで今回の話は終わりです。


 正直、あれが一体何だったのか、いまだによくわかりません。もしかしたら、向かいの老人ホームから出てきた迷い人だったのかもしれません。それとも幻覚か、あるいは他の何かなのか……。それだけは、今でもはっきりしないままです

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る