腐乱屋敷の革細工

千猫怪談

第一話

 あの夢を見たのは、これで9回目だった。

 数えてしまうこと自体もう意味がないのに。

 夢の中の住人はいつもと変わらぬ様子で朝食を迎える。ぬるく湿ったパンと黒ずんだ果物と焼きすぎた目玉焼き。


 誰も何も話さない。黙々と、機械的に料理を口に運ぶ。誰もが想像するような暖かい家族の団欒が恋しい。彼らの、私の咀嚼音が耳を突く。

 私はというと、きらいな目玉焼きのカリカリした部分を綺麗に残した。


 女が食器を片付ける。制服を着ている若い男は、ぼんやりと部屋の隅を見つめている。


 そして家主は。

 どこに行った?いや、私がその役まわりだったのか?

 ああ。頭が割れそうに痛い。ここに居てはいけない。


 たまらず書斎へ避難する。いつも置いてある瓶の中で引き潰されたカエルのような生き物が浮かんでいる。表面の皮膚が剥がれかけて不様だ。液体に浸され固く密閉されたそれを見るだけで嫌悪感を感じた。


 頭の痛みと不快感は似ているようで別々に襲いかかってくる。

 カエルの目玉がギョロリと動いて私を見た。

 家のどこかでぎゃあという叫び声が聞こえた。若い男の声だ。


 ギシギシと重い何かが床で揺れる音がした。

 すぐに女の叫び声が響く。

 ぎゃあぎゃあと何度も叫ぶ。


 その声とシンクロするように目の前のガラス瓶の中のカエルがブクブクと口から泡を吐き出す。ぎゃあというたびに泡が膨れて弾けるのだ。なんだか滑稽に思えた。


 何度も続くぎゃあぎゃあという声はやっと聞こえなくなった。


 静かな家が戻ってきた。

 落ち着く。とても落ち着く。


 最後は私か。


 アあ、いつもこの調子だ。


 頭が割れそうに痛い。

 いやだいやだいやだいやだ。


 なんで体から剥がれていくんだ。

 いやだいやだいやだいやだいやだいやだ。


 やめておけばよかった。でも我慢できない。嫌だ痛いいたいイタイいたイ。


 助けて。


 助けて。


 助けて。



***


桐谷きりやさん、これを書いた人……普通の精神状態じゃないですよね」

 その手帳は、とある廃屋の玄関を入ってすぐのところ。居間に置かれた仏壇の前に丁寧に置かれていた。

「尋常じゃないよね。うう、気持ち悪い」

 手帳は斑らに染められた皮の装丁が施されている。埃の具合からみてこの家の人間が保管していたもので間違いないだろう。家主はどんな思いでこれを書いたのだろうか。


***


 怪談師をしている桐谷きりや圭一郎けいいちろうはこの日、とある街の外れにある廃屋に来ていた。一部の心霊マニアからは腐乱ハウスと呼ばれる古い一軒家だ。

 雑誌編集者の亀木かめき高雄たかおから、幽霊が出ると噂される古民家に立ち入り取材するから付き合ってくれないか、と誘われのだ。

 心霊に纏わる話が好きな知人が多いこともあり、日頃からこうした誘いは多かったのだが。今回は特別怖いところだという前評判だったこともあって不謹慎ながら期待に胸を膨らませていた。


 というのもこの家は過去に凄惨な一家心中事件が起きた現場であると言われていたのだ。その曰くは次の通り。この家では当時中年の夫婦と一人息子の三人が暮らしていた。夫婦の仲は良好で息子は県内の有名進学校に通っており、周囲からは理想の家族として知られていたという。

 しかしある日を境に夫が精神に異常をきたし、塞ぎ込むようになった。日に日に被害妄想は激しいものとなっていき、最後には部屋に引き篭もったまま家族との関わりをいっさい断つようになった。


 そして桜の花が咲く季節のある朝。息子の始業式の日だった。突然怒り狂った父が叫び声を上げ、籠っていた書斎から躍り出ると。手に持っていた角材で息子の頭部を殴打、続いて逃げようとする妻を背後から襲い、絶命するまで殴り続けた。全てが終わったことを悟ると、夫は自ら首を括ったと言われている。


 それ以来、この家では精神に異常をきたした夫の霊が、凶器を振り回しながらフラフラと家の中を徘徊していると噂されるようになった。ある人によると、この家を通りかかった人が腐った人肉を見ただとか身体中ツギハギだらけの男が血を流しながら獲物を探して歩いている姿を見たのだとか。

 ツギハギがフランケンシュタインのようだから腐乱ハウスと呼ばれるようになったのだと、そんなことを言う人間もいた。

 まるで笑ってしまうような話だが、さすがに凄惨な事件の起きた現場であるから近隣に住む住人もこの家については固く口を閉ざしているらしい。


 亀木に誘われるままこの家の前を訪れた桐谷は、この家の持つ異様な雰囲気に押しつぶされそうな恐怖を感じた。

 木造の平屋建ての古い家の周囲には人気はない。それでいて勾配の大きい雑木林を背にして建てられているせいで昼でも薄暗く常にジメジメしている。

 おそらく一年中湿気がたまっているせいだろう、玄関のガラス戸を開けると、すぐにカビ臭い臭いが鼻を刺激した。玄関から続く廊下は薄暗く壁にはシミが這い出している。


 恐る恐る廊下を進んですぐ、普段家族が過ごしていたであろう居間が見えた。突然住む人間がいなくなってしまったせいか、当時の生活のあとがそのまま残されている。古い家具や雑貨は、カビ臭い臭いとともに時が止まったかのように佇んでいた。

 亀木と無言で目配せをし、居間に足を踏み入れる。すると奥に埃の溜まった仏壇を見つけたのだ。その仏壇の前に一冊の皮の装丁の手帳が置かれていたというわけだ。

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