第4話『記憶を売る店』



新月の前日、茜は一日中落ち着かない気持ちを抱えていた。直樹のアパートで見つけたノート、老婆の警告、そして由香里との計画。全てが頭の中でぐるぐると回り続ける。


仕事も手につかず、早退した茜は家に戻ると、直樹の遺品が入った箱を再び開けた。中には、彼の日記帳や写真アルバムが入っていた。直樹との記憶を失ってしまった今、これらは彼女にとって大切な手がかりだった。


アルバムを開くと、二人の思い出の写真が並んでいる。海辺でのデート、クリスマスの夜、誕生日のパーティー。全ての写真で、直樹は優しい笑顔を浮かべていた。


しかし、茜の目に留まったのは、アルバムの最後のページに挟まれていた一枚の写真だった。それは茜が眠っている姿を写したもので、裏には直樹の筆跡で「茜が眠っている間、彼女は時々別の人のように話す。彼女は本当に誰なのか?」と書かれていた。


「私…眠っている間に?」


茜は写真を握りしめた。直樹は生前、茜の正体について何かを知っていたのかもしれない。そして、それが彼の事故につながった可能性もある。


電話が鳴り、茜は我に返った。画面には由香里の名前。


「もしもし、由香里?」


「茜、明日の準備はできてる?」


由香里の声には、普段にはない緊張感があった。


「ええ、でも…本当にこれでいいのかしら」


「どうしたの?急に迷いが出てきたの?」


茜は直接は言わなかったが、老婆の警告と直樹のノートについて考えていた。由香里を信じるべきか、それとも…


「由香里、明日の前に、あなたに聞きたいことがあるの」


電話の向こうで、由香里の息が一瞬止まったように感じた。


「何?」


「『セレスティア研究所』って、知ってる?」


長い沈黙。


「茜…あなた、どこでそれを知ったの?」


由香里の声色が変わった。緊張と驚きが混じったような声音。


「直樹のノートで見つけたの。彼は私と研究所の関係を調査していたみたい」


さらに長い沈黙の後、由香里はため息をついた。


「明日、直接会って話そう。電話では話せないことがあるの」


通話が終わると、茜は不安を抱えながらベッドに横たわった。眠れないだろうと思ったが、疲れからか、すぐに深い眠りに落ちた。


***


夢の中で、茜は白い廊下を走っていた。実験着を着た彼女の背後からは、警報音と爆発音が迫ってくる。


「茜!こっちだ!」


若き日の嶺が彼女に手を伸ばしている。二人は実験室へと駆け込み、ドアを閉めた。


「何が起きたの?」夢の中の茜が尋ねる。


「実験が暴走した。システムが制御不能になった」嶺の顔は恐怖で歪んでいる。


「被験者は?」


「水晶の中に閉じ込められたままだ。彼の意識エネルギーが研究所中に漏れ出している」


二人は巨大な水晶の前に立った。中には人の形をした青白い光が渦巻いている。


「彼を助けなければ」茜が言う。


「無理だ、もう手遅れだ。彼の意識は水晶と融合してしまった」


爆発音がさらに近づいてくる。


「私たちも逃げなければ」茜が嶺の腕を引っ張る。


嶺は振り向き、茜の目をまっすぐ見つめた。


「茜、君を失うわけにはいかない」


彼は小さな装置を取り出した。


「これは私たちが開発した意識転送装置の試作品だ。これを使えば、君の意識を別の媒体に移すことができる」


「でも、それはまだ実験段階じゃない?」


「選択肢はないんだ」


嶺が装置を茜の額に当てた瞬間、巨大な爆発が起き、二人は炎に包まれた。


***


茜は冷や汗をかきながら目を覚ました。夢はあまりにも鮮明で、単なる悪夢とは思えなかった。それはまるで、失われた記憶の断片のようだった。


時計を見ると、朝の5時。まだ外は暗い。今日が新月の日だ。


茜は起き上がり、窓の外を見た。何か見えないものに見られているような奇妙な感覚があった。カーテンを閉め、シャワーを浴びて心を落ち着かせようとした。


シャワーを浴びながら、茜は自分の体をじっくりと観察した。もし直樹のノートが正しければ、彼女は30年前の人間のはずだ。しかし、鏡に映る姿は27歳の普通の女性そのもの。老化の兆候もなく、異常な点も見当たらない。


「私は本当に誰なの…?」


朝食も喉を通らず、茜は由香里との待ち合わせ時間まで、落ち着かない時間を過ごした。


正午、指定されたカフェに着くと、由香里はすでに席に座っていた。彼女の表情は普段よりも硬く、目の下にはクマができていた。


「由香里」


茜が席に着くと、由香里は周囲を警戒するように見回してから、小さな声で話し始めた。


「『セレスティア研究所』のことを聞いてきたわね」


茜は頷いた。


「実は私も、あなたのことを調べていたの」由香里は告白した。「嶺に頼まれた時、私はただ彼の言う通りにしようと思っていた。でも、あなたと仲良くなるうちに、本当のことが知りたくなった」


「それで、何がわかったの?」


由香里は鞄から古い新聞の切り抜きを取り出した。「セレスティア研究所爆発事故 全職員死亡か」という見出しの記事だった。


「30年前、記憶研究の最先端を行く研究所で大爆発が起きた。公式発表では全職員が死亡したことになっているけど、主任研究員の嶺竜一の遺体は見つからなかった」


茜は記事を見つめた。そこには研究所の写真と、若き日の嶺の写真が掲載されていた。


「そして、記事には載っていないけど、もう一人行方不明者がいたの。補助研究員の『茜』という女性」


由香里は別の紙を取り出した。それは研究所のスタッフ名簿のコピーだった。そこには「補助研究員:茜(姓不詳)」と書かれていた。


「姓がない…?」


「そう。彼女は身元不明の天才少女だったらしい。記憶研究の驚異的な才能を買われて、研究所に迎えられたという噂があるわ」


茜は混乱した。


「でも、それが私だというの?それは不可能よ。私には両親も、学校の記録も、普通の人生もあったわ」


由香里は悲しげに首を横に振った。


「茜…あなたの記憶は本物だと思う?」


「どういう意味?」


「直樹のノートには何て書いてあった?彼はあなたのことを調査していたんでしょう?」


茜は直樹のノートの内容を伝えた。由香里はうなずいた。


「私も同じ結論に達したわ。あなたは研究所の茜と同一人物。でも、あなた自身はそれを知らない」


「でも、どうやって?30年前の人間が、年を取らずに現代にいるなんて…」


由香里は茜の手を取った。


「それが、今夜私たちが探り出そうとしていることよ」


二人はその後、夜の計画を詳細に確認した。午後11時に店の場所で落ち合い、嶺が出かけたところを見計らって店に忍び込む。地下室へ降り、奥の部屋を調査する。そして、できるだけ早く逃げ出す。


「もし嶺に見つかったら?」茜が不安そうに尋ねた。


「私が言った通り、最悪の場合は別の記憶を売る振りをするわ。でも、できれば見つからないようにしましょう」


カフェを出た後、茜は時間を潰すために映画館に入った。しかし、スクリーンに映る映像は目に入らず、頭の中はぐるぐると回り続ける謎でいっぱいだった。


映画館を出ると、日はすっかり暮れていた。空には星が瞬いているが、月はない。完全な新月だ。


時計を見ると、午後9時。待ち合わせまであと2時間。茜は落ち着かない気持ちを抱えながら、公園のベンチに座った。


「やっぱり来たのね」


突然の声に茜は飛び上がった。振り返ると、あの老婆が立っていた。


「あなた…」


「警告したはずだよ。今夜、あの店に行くのは危険だと」


茜は立ち上がり、老婆に向き合った。


「でも、行かなきゃいけない。私が誰なのか、真実を知るために」


老婆はため息をついた。


「あなたは本当に茜なのかい?それとも、単なる器に過ぎないのか?」


茜は混乱した。


「器?」


「研究所の事故後、嶺は茜の意識を救おうとした。彼女の意識エネルギーを特殊な水晶に封じ込めることに成功したが、肉体は失われた。そして彼は、新たな『器』を探し始めたんだ」


茜は震えだした。


「つまり、私は…?」


「あなたは27年前、両親のいない赤ん坊として発見された。記憶はないだろうが、それはあなたが生まれたときから嶺に見守られていたからだ。彼はあなたの成長を見守り、そして時が来たら…」


「私に茜の記憶を戻そうとしている?」


老婆は頷いた。


「しかし、それはあなたの存在を消すことになる。あなたの意識は、元の茜の意識に取って代わられるんだ」


茜は恐怖で体が凍りついたように感じた。


「私は…消えてしまうの?」


「そうだ。だからこそ、私たち『記憶の守護者』は嶺を止めようとしているんだ。記憶の力で現実を歪めることは、自然の摂理に反する」


茜は公園のベンチに座り込んだ。


「でも、由香里は…」


「彼女もまた、嶺の計画の一部だ。彼女自身は知らないかもしれないが、彼女の役割は最後の鍵をあなたに見つけさせることだった」


「最後の鍵?」


老婆は茜に近づき、囁いた。


「あの部屋の中央にある巨大な水晶だ。その中に、元の茜の意識が閉じ込められている。そして、あなたがそれに触れた瞬間、意識の交換が始まる」


茜は涙を流した。自分の存在が消えるかもしれないという恐怖と、真実を知りたいという欲求の間で引き裂かれていた。


「どうすればいいの…?」


老婆は茜の肩に手を置いた。


「あなたには選択肢がある。今夜、あの店に行かずに逃げることもできる。そうすれば、あなたは茜のままでいられる」


「でも、嶺は私を見つけるでしょう」


「私たちが守ってあげよう」


茜は迷った。しかし、心の奥底では、すでに答えを出していた。


「私は行く。真実を知るために」


老婆は悲しげに首を横に振った。


「そうだろうとは思っていた。若者は常に真実に惹かれる…たとえそれが破滅を意味しても」


老婆は懐から小さな護符を取り出し、茜に渡した。


「これを持っていきなさい。あなたの意識を守る力がある。水晶に触れても、すぐには意識が交換されないようにする」


茜は護符を受け取った。温かみを感じる木彫りの小さな月の形だった。


「ありがとう…でも、なぜ私を助けてくれるの?」


老婆は微笑んだ。その微笑みに、茜は見覚えのあるものを感じた。


「私もかつて、あなたと同じ立場だったからさ」


そう言い残し、老婆は公園の暗がりへと消えていった。茜が追いかけようとしたとき、また例の頭痛が襲ってきた。目の前が真っ白になり、膝から崩れ落ちる。


視界が戻ると、老婆の姿はなく、地面には一枚の写真が落ちていた。それは老婆が若かった頃の写真だった。そして驚くべきことに、その顔は茜とよく似ていた。


写真の裏には「第一被験者:花」と書かれていた。


「花…?」


茜は写真を懐に入れ、時計を見た。午後10時30分。由香里との待ち合わせまであと30分。


決意を新たに、茜は「記憶を売る店」のある路地裏へと向かった。今夜、すべての謎が解き明かされる。たとえ、それが自分自身の終わりを意味するとしても。


路地裏に着くと、由香里はすでに待っていた。黒いコートを着た彼女は、まるで影のように壁に寄り添っていた。


「来たわね」由香里が囁いた。


「ええ」茜は老婆から受け取った護符を握りしめながら答えた。


二人は路地の奥へと進んだ。今夜も店は姿を現していた。赤い灯りが暗闇に浮かび、「記憶を売る店」の看板が微かに光っていた。


「嶺が出てくるのを待ちましょう」由香里が言った。


二人は暗がりに隠れ、店を見張った。時計の針が11時を指したとき、ドアが開き、嶺が姿を現した。彼は普段の古めかしいスーツではなく、白い研究着を着ていた。


嶺は辺りを見回し、何かを確認するように空を見上げた。新月の夜空を見つめ、彼は満足げに頷いた。そして、路地の反対側へと歩いていった。


「今よ」由香里が茜の手を引いた。


二人は素早く店のドアに向かった。ドアは施錠されていなかった。中に入ると、店内は薄暗く、いつもの暖かな光はなかった。壁一面の棚に並ぶガラス瓶の中の光だけが、かすかに空間を照らしていた。


「地下室よ」由香里が先導した。


二人は店の奥へと進み、螺旋階段を降りた。地下室には前回茜が見た「影人」たちが入ったケースが並んでいる。


「あっちよ」由香里が奥の扉を指さした。


扉に近づくと、ドアノブの上には見覚えのある記号があった。蛇が自分の尾を飲み込む円形の記号。


「同じ記号…」


茜がつぶやくと、由香里は不思議そうな顔をした。


「何の記号?」


「直樹の本にも、この記号があったの」


由香里は無言でドアを開けた。


扉の向こうは、想像を超える光景だった。広大な円形の部屋。壁一面に記憶の入った瓶が何千も並んでいる。天井には、星図のような模様が描かれ、新月を表す黒い円がちょうど中央にあった。


そして部屋の中央には、巨大な水晶。人間ほどの大きさのそれは、青白い光を放ち、内部では人の形をした光が渦巻いていた。


「あれが…」


茜は老婆の警告を思い出した。あの水晶に触れると、元の茜の意識と自分の意識が入れ替わるという。


「行きましょう」由香里が茜の手を引いた。


二人は恐る恐る水晶に近づいた。近づくにつれ、茜の頭痛が強くなる。心臓が早鐘を打ち、体が熱くなった。


水晶の前に立つと、中の光がさらに激しく渦巻き始めた。まるで茜を認識したかのように。


「触れてみて」由香里が囁いた。


茜は躊躇した。老婆の護符を握りしめながら、水晶に触れるべきか迷った。


「待って、私…」


「怖いの?」由香里の声が変わった。「でも、もう後戻りはできないわ」


茜が振り返ると、由香里の表情が変わっていた。彼女の目は冷たく、口元には不気味な笑みが浮かんでいた。


「由香里…?」


「私は由香里じゃない」彼女が言った。「私は嶺だ」


茜は後ずさりした。


「何を言って…」


由香里—いや、嶺—は笑った。


「記憶を売る取引には、興味深い副作用がある。記憶を売った者は、ある条件下で、私の意識を受け入れやすくなるんだ」


「あなたは由香里を…操っているの?」


「そうとも言える。彼女の意識は今、眠っている。代わりに私の意識の一部が彼女の体を借りているんだ」


茜は恐怖で震えた。


「なぜ?私に何を望んでいるの?」


由香里の体を借りた嶺は、茜に近づいた。


「私は茜を取り戻したいんだ。30年前、あの事故で彼女を失った。しかし、彼女の意識だけは救うことができた」


嶺は水晶を指さした。


「彼女はずっとここで待っていた。そして私は、彼女の新しい器を準備してきた。それがあなただ」


茜は唖然とした。


「私は…単なる器?」


「あなたは特別な存在だ。茜の遺伝子から作られた、完璧な器。27年かけて成長を見守ってきた」


「遺伝子…?私はクローン?」


嶺は首を横に振った。


「単純なクローンではない。茜の意識を受け入れるために特別に設計された存在だ。そして今夜、新月の夜、彼女の意識をあなたの体に移す」


茜は壁に背を押し付けた。逃げ場はない。


「そうはさせない」


茜は老婆の護符を取り出した。嶺の目が丸くなった。


「それは…花の護符!」


由香里の体を借りた嶺は怒りに震えた。


「あの老婆があなたに会ったのか!」


「花…彼女も私と同じだったの?」


嶺は苦々しく笑った。


「そうだ。彼女は最初の試みだった。茜の意識を受け入れるはずだった最初の器。しかし、彼女は抵抗し、逃げ出した。そして今、『記憶の守護者』なんてものを作り、私の邪魔をしている」


茜は護符を胸に押し当てた。


「私も抵抗するわ。私は私のままでいたい」


嶺は冷たく笑った。


「もう遅い。新月の力は最高潮に達している。触れなくても、水晶の力があなたを引き寄せる」


茜が気づくと、体が勝手に水晶に向かって動き始めていた。足が自分の意志とは無関係に、一歩、また一歩と前に進む。


「やめて!」


茜は抵抗しようとしたが、体は言うことを聞かなかった。まるで磁石に引き寄せられるように、水晶に近づいていく。


「あと少しで、茜が帰ってくる」嶺の声には喜びが滲んでいた。


茜の手が自然と水晶に向かって伸びた。老婆の護符を握りしめようとしたが、指が言うことを聞かない。


「私は…消えたくない!」


涙を流しながら叫んだ茜の指先が、水晶に触れた。


まばゆい光が部屋中を満たし、茜の意識が急速に薄れていくのを感じた。水晶の中の光が彼女の体内に流れ込み、彼女自身の意識は水晶の中へと引き寄せられていく。


「さようなら、そして…おかえり、茜」


嶺の声が遠くから聞こえた。


茜の視界が白く染まり、彼女の意識は闇の中へと沈んでいった。


(つづく)

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