『封印の鈴』 ~境界を守る拝み屋女将の物語~
ソコニ
第1話「ようこそ、鈴音旅館へ」
鏡台に映る自分の顔を見つめながら、久野凛子は深呼吸をした。二十九歳。祖母・久野ミサが亡くなってから三ヶ月が経ち、今日から正式に「鈴音旅館」の女将として仕事を始める日だった。
窓の外では秋の気配を含んだ風が、赤く色づき始めた木々を揺らしている。明治時代から続く老舗旅館は、山間の温泉地にひっそりと佇み、代々久野家の女系が守ってきた。
「大丈夫よ」
そう自分に言い聞かせるように呟き、凛子は黒髪を丁寧に結い上げた。ミサ婆ちゃんが生前使っていた簪を髪に挿すと、不思議と心が落ち着くのを感じる。
「何かあったら、私が見ててやるからね」
耳元で聞こえたミサの声に、凛子は微笑んだ。他の人には聞こえない声。でも、凛子にはハッキリと聞こえる。
それが久野家に代々伝わる「お客様」を迎える力だった。
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「女将さん、お客様が到着されました」
仲居の佐々木千枝が障子越しに声をかけてきた。凛子はそっと立ち上がり、最上級の絹の着物の裾を整えた。深い藍色に白い桔梗の花が散りばめられた着物は、新しい女将としての第一印象を大切にしたいという思いで選んだものだった。
「ありがとう、千枝さん。すぐに参ります」
凛子は廊下に出て、千枝の案内で玄関へと向かった。旅館の廊下を歩く足音が、どこか遠くに響いていくような不思議な感覚。百五十年の歴史を持つ木造の廊下は、人の足音を吸い込むように静かだった。
玄関に立っていたのは、四十代半ばと思われる女性だった。きちんとした身なりの彼女は、緊張した面持ちで辺りを見回している。
「ようこそ、鈴音旅館へ」
凛子が挨拶すると、女性はびくりと肩を震わせた。
「あ、はい...予約した佐伯と申します」
女性の声は少し震えていた。そして凛子の目には、女性の肩に乗る黒い影が見えた。人の形をした影。それは女性の耳元で何かを囁いているようだった。
「佐伯様、ご予約確認いたしました。お部屋にご案内いたします」
凛子は平静を装いながら、客を最上階の「菊の間」へと案内した。この部屋は特別な客のために用意されている部屋だった。通常の宿泊客には提供しない、特別な「お清め」が施された部屋。
部屋に入ると、佐伯は窓から見える山々の景色に見入った。
「素晴らしい眺めですね...」
「ありがとうございます。こちらは当館の中でも最も眺めの良い部屋でございます」
凛子は佐伯の背後に立つ黒い影をちらりと見た。影は女性よりも背が高く、首を不自然に傾げていた。それは確かに人の形をしていたが、顔の部分は暗く、表情が読み取れない。
「佐伯様、失礼ですが...何かお悩みでもありますか?」
凛子の言葉に、佐伯は驚いたように振り返った。
「え...どうして...」
「当館は旅のお客様の心を癒す場所でもございます。何かございましたら、どうぞお申し付けください」
凛子は穏やかな笑顔を浮かべた。その瞬間、佐伯の肩の影がピクリと動いた。
「実は...」佐伯は言いよどんだ。「最近、妙な...感覚があって...」
凛子はゆっくりと頷いた。
「夕食は6時からお部屋にお持ちします。それまでにお風呂をお楽しみください。そして...」凛子は声を少し落として続けた。「夜、皆が寝静まった頃、もしよろしければ中庭の井戸端でお会いしましょう。きっとお力になれると思います」
佐伯の目が大きく見開かれた。
「あなた...分かるの?」
凛子はただ微笑むだけだった。
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夜の十一時。旅館の多くの灯りが消え、静寂が支配する時間。凛子は白い浴衣に着替え、中庭へと向かった。月明かりだけが照らす庭で、古い石の井戸が闇の中に浮かび上がっていた。
佐伯はすでにそこで待っていた。彼女の肩の上の影は、月明かりの下でより濃くなっていた。
「来てくださったのですね」凛子は静かに言った。
「あなたは...普通の旅館の女将さんじゃないわよね?」佐伯の声は震えていた。
凛子は井戸のそばに座り、佐伯に同じようにするよう手で示した。
「久野家は代々、特別な『お客様』を迎える家系なのです」
「特別な...?」
「通常の宿泊客の他に、時々...別の世界からのお客様もいらっしゃいます」
凛子の言葉に、佐伯の顔から血の気が引いた。
「あなたの肩に乗っているもの...それはいつからですか?」
佐伯は震える手で自分の肩を掴んだ。
「一ヶ月前...主人が亡くなってから...」
「そうですか...」凛子は穏やかに頷いた。「佐伯さんのご主人は、何か心残りがあったのでしょうね」
「光男は...突然の事故で...」佐伯の目に涙が浮かんだ。「最後に話し合った時、喧嘩をして...仲直りできないまま...」
凛子は黙って佐伯の話を聞いた。そして、静かに立ち上がり、井戸の縁に手を置いた。
「ここは特別な井戸なんです。百年以上前から、この井戸は二つの世界の境目として存在してきました」
凛子は懐から小さな紙の人形を取り出した。「形代」と呼ばれる、神道の儀式で使われる紙人形だ。
「佐伯さん、あなたの肩に乗っているのはご主人の気配...光男さんの未練です。彼はあなたに何か伝えたいことがあるのでしょう」
凛子は形代を佐伯に渡した。
「この形代に、ご主人への思いを込めてください。そして...」
凛子は自分の着物の袖から、細い朱色の紐を取り出した。
「この紐で形代を結び、井戸に投げ入れてください。そうすれば、光男さんは自分の想いを伝えることができるでしょう」
佐伯は震える手で形代を受け取り、しばらくじっと見つめていた。そして、突然、彼女は泣き始めた。
「光男...あなたに酷いことを言ってごめんなさい...私...」
凛子は静かに見守った。佐伯の肩の影が揺れ始めた。それは徐々に人の形を明確にしていき、中年男性の姿が浮かび上がった。透き通るような存在だが、確かにそこにいた。
「由美子...」
かすかな声が、夜風のように佐伯の耳元を通り過ぎた。
佐伯は顔を上げ、息を飲んだ。彼女には見えないはずの夫の姿が、凛子の目には映っていた。
「光男さんは、あなたに謝りたいようです」凛子は静かに言った。「最後の言葉が意地悪なものになってしまったことを...とても後悔しています」
「光男が...ここに?」佐伯は辺りを見回した。
凛子はうなずいた。「彼は言っています。『由美子、俺がいなくても強く生きてくれ。そして...あの箪笥の奥にある青い箱を開けてほしい』と」
佐伯の顔に驚きの表情が広がった。
「青い箱...?あれは...」
凛子は形代を指さした。「思いを込めて、井戸に」
佐伯は形代を胸に押し当て、目を閉じた。しばらくして、彼女は紐で形代を結び、深呼吸をしてから井戸に投げ入れた。
井戸の底から、かすかな光が立ち上った。凛子の目には、光男の姿が徐々に薄れていくのが見えた。彼は微笑み、そして...
「ありがとう、由美子...愛している...」
最後の言葉が夜風に消えていった。
佐伯の肩から黒い影が消え、彼女は突然、力が抜けたように座り込んだ。
「なんだか...胸のつかえが取れたような...」
凛子は微笑んだ。「光男さんは成仏されました。あの青い箱には、きっとあなたへの最後のメッセージが入っているのでしょう」
佐伯は涙を拭いながら立ち上がった。「ありがとう...本当に...」
凛子は静かに頷いた。「これが私たち久野家の役目です。『拝み屋』として、二つの世界の橋渡しをするのです」
佐伯が部屋に戻った後、凛子はしばらく井戸の前に座っていた。ミサ婆ちゃんの声が再び耳元で囁いた。
「よくやったね、凛子。でも...これは始まりに過ぎないよ。本当の試練はこれからだから」
凛子は空を見上げた。満月が雲間から姿を現し、旅館全体を銀色の光で包み込んでいた。
その時、凛子はふと感じた。旅館のどこか遠くで、誰かが泣いているような...そんな気配を。
「次のお客様は、もう来ているようね」
凛子は静かに立ち上がり、月明かりの中、旅館へと戻っていった。
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翌朝、佐伯は晴れやかな表情でチェックアウトの準備をしていた。
「昨夜は本当にありがとうございました」彼女は深々と頭を下げた。「久しぶりに安眠できました」
凛子は微笑んだ。「お役に立てて何よりです」
佐伯が去った後、凛子は旅館の古い帳簿を開いた。そこには通常の宿泊客とは別に、特別な「お客様」の記録が残されていた。ミサ婆ちゃんの几帳面な文字で記された記録の最後に、凛子は新たに一行を加えた。
『令和五年九月十五日 佐伯光男様 成仏』
帳簿を閉じると、凛子はふいに寒気を感じた。廊下の向こうに、薄い人影が立っているような...。しかし、目を凝らして見ると、そこには何もなかった。
「さて、今日はどんなお客様が来るかしら」
凛子は深呼吸をして、新しい一日を迎える準備をした。窓の外では、赤く色づいた木の葉が一枚、ゆっくりと舞い落ちていった。
(第1話 終)
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