第八章 根を張る

【月子】

辺里町を包み込むよるはカチッ、カチッという音の度深まってゆく。時計の針は、重々しく十時を指し示していた。畳の匂いと、微かに香る線香の匂いが混じり合い、独特の静けさを醸し出している。私は、窓の外の闇を見つめていた。あれから、もう一時間も経ったのか。そんな物思いにふける。

彼は、私の沈黙を裂くように、低い声で言った。

「そろそろ、行こうか」

促されるままに立ち上がると、彼は私の手を部屋の外に引く。

宴会場へと続く廊下は、ひっそりと静まり返っている。微かに聞こえるのは、クラスメイトの寝息だけだ。無防備な彼女たちの寝顔を見ていると、これから待ち受ける運命と重なり、自然とえみが零れる。

罪悪感はあまりにも希薄で、絶望がうすれることに対する喜びしかない。

宴会場の襖を開けると、所狭しと並べられた布団の上で同級生ががまだ眠っていた。修学旅行の疲れではない。彼が、食べ物に睡眠薬を入れたといった。クラスメイトの無邪気な寝顔を見ていると、遠い昔の、まだ何も知らなかった自分自身を見ているような錯覚に陥る。

彼女たちも、これから私のように絶望するのだ。まるで私と同じだ。

彼は、皆の寝顔を一瞥すると、私に問いかける。

「皆を君の学校のバスに乗せて、湾まで行っていいかい?」

彼の言葉は、旅行計画を立てるかのように、淡々と────むしろ楽しげだ。私は、彼のその平静さに、言いようのない共感を覚えた。これは必然の流れであり、疑う余地などないのだと、心のどこかで納得する自分がいる。

「いいですよ」

私の声も、同じように冷静だ。何度もリハーサルを重ねてきた台詞を口にするかのように、淀みなく言葉が出た。

私たちは、眠るクラスメイトたちを起こさないように、一人ずつ抱きかかえ、宴会場の外へと運び出した。夜の冷たい空気が、彼女たちの頬を撫でる。誰も目を覚ますことはない。これから自分たちに何が起こるのか、知る由もない。

学校のバスの座席に、眠る同級生を丁寧に寝かせると、バスはゆっくりと動き出した。夜の帳の中、ヘッドライトだけが前方を照らし出す。車内は静まり返り、聞こえるのはエンジンの低い唸り声と、クラスメイトの穏やかな寝息だけだ。私は、助手席に座り、ぼーっと外を眺める。

怒津湾へと続く道は、街灯もまばらで、深い闇に包まれていた。窓の外には、黒々とした木々のシルエットが、不気味な影絵のように次々と現れては消えてゆく。湾に近づくにつれて、潮の香りが強くなってきた。


湾の岸辺には、一台の漁船が静かに停泊している。漁師の長が、船の上で私たちを待っているという。彼の顔は、闇に溶け込んでよく見えないが、影だけははっきりと浮かび上がっている。

私たちは、バスから眠るクラスメイトたちを運び出し、一人ずつ、漁船へと乗せていった。この船が、皆を二度と戻れない場所へと運んでゆくのだという事実が、私の胸にじんわりと広がってゆく。

船は、音もなく岸を離れた。しばらくして、エンジンの音が、夜の静寂を破る。私たちは、眠るクラスメイトと共に、海へと滑り出してゆく。周囲は、完全に闇に包まれ、見えるのは、漁船の小さな灯りだけだ。

「これで、少しは気持ちが晴れるんだよ」


私は、まだそれが分からなかったが、彼の言葉に、かるく頷いた。だが、彼の言う通りなのだろう。この行為は、彼の長年の苦しみと憎しみの記憶を消すためには必要なのだろう。罪悪感など、微塵も感じなかった。

船は、ゆっくりと湾の中央へと進んでゆく。眠るクラスメイトたちの穏やかな寝息が、運命を示唆するように、波に消えゆく。

ガタッと音を立て、船が停止した。私は、男性と共に、一人ずつ海に沈めてゆく。

ぽちゃ、ぽちゃ、ぼちゃ、ぼちゃ

クラスメイトが、海に波紋を産む。だが彼女たちは、私たちの心に、波紋を産むことは無かった。

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