第13話
まだ彼女が生きていた頃。頻繁に、というわけではないが、よく彼女の家に遊びに行っていた。
そのとき、料理下手な彼女が作ってくれたのが、どら焼きだった。
「私の好きな『ドラえもん』でも、これがよく出てくるから」
そう言って、ホットプレートで生地を焼いていた。香ばしい乳製品の香りが鼻腔をくすぐってきて、食欲をそそられた。
手軽に作れるどら焼きは、藤原たちの間で重宝された。元々、二人とも外食などは嫌いなタイプだったのだ。なぜなら外食はわずらわしくもあるし、人混みが苦手でもあったから。
藤原が彼女の家に泊まった翌日、朝食に作られたそれを食べながら、胸の内側が熱くなるような気持ちになったものだ。
「どうしてドラえもんは、どら焼きが好きなんだ?」
なんでもない、ただの世間話のつもりだった。だが、彼女は違う風に捉えた。
「作者の自己投影よ」
真面目腐った声音でそう言った。それを聞いて、またあの”病気”が始まったかと頭が痛くなった。
「どういう意味なんだ?」
「不二子・F・不二雄先生が大のどら焼き好きだったのよ。それで、よく作品に登場させていたのよ」
「ふーん。それで、自己投影か」
「あなたも漫画が好きならわかるでしょ。作者は自身の創作物に絶対の愛情を持っている。そういうものなのよ」
ああ、彼女は病的なまでに理屈で物を語る。それに安寧を抱くこともあれば、鬱陶しさを覚えることもある。
理屈とは、物事の本質を見極める性質のことを指す言葉だ。物事を俯瞰して捉え、筋を通そうとする意味にも捉えられる。
藤原は、その対極である感情論の主義者だった。物事は、理屈全てで通るものではないと思う。理屈本来が抱く、物事を見通せるいわば第六感的スピリチュアルに、信用度などないものだ。
そう語っている、藤原は皮肉だが理屈の性質を持つのであろうが、自身は可能な限り、人間本来が持つ感情を優先させたいと考えていた。
そう想い耽る藤原をよそに、彼女は涼しい顔でパンケーキを今日も焼く。
「ありました」
そう言って手渡してくるのは市販で売っているものとは異なる、業務用と書かれたパンケーキの粉だ。
「ありがとう」
卵一個をボウルの中に割って、それを混ぜながら砂糖を入れる。早く混ぜないと結晶化してしまうので、手早く混ぜる。
だいたい終わったら、湯煎して完璧に砂糖を溶かす。
薄力粉をふるいにかけて、卵の中に入れる。
次に、重曹一グラムも加えて、全体をなじませるために三十分ぐらい置く。
そのボウルを興味深げに少女が見ている。藤原はそれを無言で見据えていた際に、思わず声が漏れ出た。
「あんたは、夢を持っているかい?」
少女はこちらを見つめ、唐突な質問に驚いたのか凝固している。
「えっと……、食堂を持つことです」
藤原は笑った。「立派な夢じゃないか。あんたが羨ましいよ」と言って、しばし意味もなく宙を見た。
「どういう意味です?」
「俺はさ……漫画家になるのが夢なんだよ。でもさ、画力もないし才能もないからさ。正直諦めかけているんだよ」
少女が息を呑んだのがわかった。藤原は初対面の人に話すような内容ではなかったかもしれないと後悔した。
「才能って……関係ありますかね。確かに、努力が必要な物って資質とか、遺伝とかが作用しますけど、でもそれって微々たるものじゃないかと私は思うんです。まぁ、その私の理論で言うと、根性論が代表的ですけど、そういうことではなくて、努力を“適切に行えば可能なものなら習得出来る”と思うんです。科学的に証明されているある研究があって、それは何かを習得するとき、それに対して『一万時間』努力すれば、獲得出来るっていう話です。例えば、ある野球少年が長嶋茂雄みたくなりたくて、一日二時間、バットの素振りを行う。それをコンスタントに十五年続ければ一万時間に到達するんです。そうなれば自然とどんなものでも身に着きますよ。普通の人が言う、『努力しても叶わない』というのは、努力の時間が圧倒的に足りないというわけで。そういう人たちが羨む、『才能のある人』というのは、本能的に一万時間以上努力をしているだけなんです」
今度は藤原が息を呑む番だった。少女の姿は、まるで彼女に似通っていたからだ。
彼女も、自分の個性を確立していて、息を吐き出すように考えを吐露していた。そのどれもが筋が通っていた。考えさせられた。
でも、もうそんな彼女とは会えない。話せない。
そんな事実が、藤原を閉塞させる——。
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