第11話 

「あんた、彼氏に浮気されてるんだって?」


 学校の廊下で、これ見よがしに中川から嘲笑を受けて、福原はあたかも奈落の淵に追い詰められている憐れな罪人のような気持ちになった。


 三人ぐらいの集団の先頭に立つ中川。そんな彼女に廊下を歩く生徒たちは奇異と羨望の入り混じった視線を投げかけていた。物珍しさと、カリスマ的存在の中川が喋っているということに対する憧れ。それが半々といったところだろう。


「ざまぁないわね。もう学校もやめてしまえば? どうせ調理師とか料理人にはなれないわよ。あんたのあの下手くそな料理の腕じゃあねぇ」


 くすくすと笑う中川の集団。それに福原は項垂れるしかなかった。


「すいません……」

「だから、謝るぐらいなら辞めてしまえって。無駄だからさ」


 何が無駄なのだろう。福原がこの学校に通うことがか。それとも、生きていることが、なのか、もうわからない。

 発すべき言葉がなくなって、目元から一筋の涙が落ちた。


「何やってんの?」


 すると、ここに春月が現れた。移動教室なのだろうか。手には教科書やペンケースが収まっている。


「あれぇ、白馬の王子様の登場? それとも女癖の悪い裸の王子様かしらね」


 中川の侮蔑に、怒ったのか春月が「ふざけるなよ」と言った。


「どういうつもりか知らないけど、これ以上緑を傷付けるなよ。さっきから聞いてたけど、お前ら酷いぞ。何様のつもりだよ」


「先輩に叱責を受けるなんて、全くすいませんねぇ。でも、もとはと言えば先輩が悪いんじゃないんですか? B高校の女生徒と交際しているっていう噂が立っていますよ? それが本当なら先輩、ドグズですね」


 大笑いする中川。春月はそれを聞いて何を思ったのか、溜息をついて福原の手を引っ張った。


 階段を上がり踊り場につく。春月が、福原の流れていた涙をぬぐって和やかな笑みを浮かべた。それは初めて彼が福原に見せる、気の抜けた本心であるかのようだった。


「緑、大丈夫じゃないよね」


 それに答えられず、軽い嗚咽をもらす。彼は福原の頭を撫でて、「好きな料理のことを考えてごらん」と言った。


「好きな……料理?」

「そう。例えば割ると黄身が溢れ出す半熟のオムライスや、肉がぎっしり詰まったカツフライ。美味しいものは人を元気にする」


 試しにオムライスを想像した。デミグラスソースのかかった黄身がふんわりと仕上がっているもの。一口頬張ると、ソースの重厚な味わいとチキンライスの酸味が合わさって美味しい。


「ほら、顔が綻び始めている。効果があったでしょ」


 福原は首肯した。すると、春月は「ようやっと彼氏らしいことが出来た」と喜んだ。


「俺には……今は誰にも言えない用事があるからさ。その、構ってやれなくてごめんな。それが一定、片付いたら恋人らしいこと、たくさんしような」


 彼には貫き通したい思いがあって、それを叶えるために努力しているからこそ、半端な気持ちで福原に向き合いたくないのだろう。そんな気持ち、福原は理解できるような気がしていた。なぜなら、微かな本心と、彼の姉の話を聞くにあたって福原の考えや向き合い方が変わりつつあったからだ。


「あの……他校の女子生徒と交際の噂が立っていますけど、それってどういう……」

 すると、春月は苦笑しながら、


「多分、中学の幼馴染と一緒に歩いていたのを目撃されて、そんな噂が流れたんだと思う。ごめんね。なんでもないんだ」


 予冷が鳴る。彼は慌てた様子で「じゃあ、また連絡するから」と言って踵を返した。その背を眺めながら、改めて彼への恋心を思い知る。


 ああ、春月君のこと、やっぱり好きなんだな。


 心の溝から覗いてきた淡い恋心が、あたかも温かく福原に接してくるように。胸の内側が熱くなる。


 冷めかけていた想いが、熱湯を注がれたように反応する。


 彼を待ってみよう。そう思えた——。



 時計の針が八時を指したとき、店の出入り口に『大人食堂』の張り紙を貼る。

 するとその数分後、白いワンピースにライダースジャケットを羽織った女性が来店してくる。その女性は、一瞬大人びた服装だったがゆえに気付かなかったが、坂本だった。


「やっほー、緑。元気にしている?」

「中川さんのこともあってちょっとブルーだよ」


 そう肩を竦めてやる。それに笑う坂本。

「わかってる。クラス中で噂になっていたしね。だから今日来たのよ。緑を元気づけてやろうと思ってさ」

「麻衣ちゃんは将来、いいお婿さんになりそうだね」

「そこはお嫁さんって言ってほしかったかな」


 坂本の気配りは、女性ではなく男性臭いと思っていた。それを言葉に出すと、坂本は苦笑した。


 カランコロンとまた鈴の音が鳴る。以前来店したが、控えめに入ってくる。


「また来ちゃいました」

「いらっしゃいませ。席に案内しますね」

 

 二人を別の席に座らせて、それぞれ注文をうかがう。坂本は今日のために昨日から仕込んでいたハヤシライスを。金成はグラタンだ。


 厨房に入り、まず冷蔵庫からハヤシライスが入った鍋を取り出し、それを火にかける。グラタンは、金成に教えてもらった通りに作る。


 三十分後、完成した二つの料理を席に持っていくと、二人は早々にして喜んだ。

 坂本がハヤシライスを口に運ぶと、「うん、これが緑の味。良くも悪くもね」と皮肉に言った。


「どういう意味よ、それ」


 けらけらと笑う坂本。とても上機嫌で、彼女が持つ明け透けない性格が表れているなと思った。


「お二人、仲が良いんですね」

 金成が興味深げに訊ねてくる。それに調子よく答えたのが坂本だ。


「そうなんです。同じ学校の親友です」

「え、私たちって友達だったの?」

「緑? どうしてそんな悲しいこと言うの?」 


 冗談を返してやると焦ったように坂本がうろたえる。可愛いな、この子。

 それに大笑いした金成は、「羨ましいな」と零した。

 適応障害で現在無職の金成にとって、もしかしたら友人関係が希薄なのかもしれない。そもそも、頼れる人がいなかったから病気になったのだろう。そう考えると、上から目線かもしれないが、憐れみを抱いた。

 すると、坂本がハヤシライスの乗った皿を持って金成の席へとつく。


「一緒に食べませんか? ほら、緑も座って。どうせお客さん来ないんでしょ」

「う、うん」


 席はどれも四人掛けなので座れるのだが、会話が適応障害の彼女に負担にならないかが心配だった。

 坂本は屈託なく金成に話しかける。その姿を隣で見ていて、ああ、こういう子が食堂の運営が務まるんだろうな、と思った。


 コミュニケーション能力がもとより高い坂本にとって、もしかしたら人類みな兄弟のポリシーを抱いているのかもしれない。それほどまでに、二人の会話は壁がなかった。


「実は元彼氏がね——」

「そうなんですね」


 順調に会話が進んでいくことに、福原は内心嬉しくなった。適応障害や歩夢とのことを普通に話せるようになった彼女にとって、それは心のケアなのではないか。

 誰かに悩みを相談出来ること、それは深く根付いたトラウマを取り除ける行為でもある。

 三人は微笑み合いながら、談笑を重ねる。その度に、噛み締めるほどの情動が衝き動かされる。

 人とのコミュニケーションは、気持ちが良くて温かい布団にくるまっているような、安心感を得られる。

 こんな時間がずっと続けばいいのに、と思う。

 金成が食べ終わり、「また来るから」と言い残して退店する。

 それを見届けてから、坂本が「あんた、ちゃんとやってんのね」と呟いた。


「どういう意味?」


「いや、全く客なんて来てないと思っていたからさ。ちょっと意外というか」


 確かに、福原の性格を知っている者なら、そういう評価を持つだろう。福原の陰気な性格に、客商売など務まるのか、と。


「うん。正直に言うと最初のうちは全然来てくれなかった。それにたまたま来店した客に嫌な顔をされるなんてこともあった。それでもめげずにやり続けたからこそ今があると思うの」


 それが本音だった。最初の頃は嫌だと思うこともあった。けれども、継続したからこそ現状がある。

 この「大人食堂」が愛されるようになるには、何よりも自分が愛さなければならない。そう思っている。


「緑は将来の夢、決まっているんだよね」

「うん」


「実は私、まだ迷っていてさ。調理師にはなろうと思うんだけど、どこで働くかまだ決めかねているというか……」


「例えば学校だったり、施設だったり?」

 坂本は首肯した。「そう。私的にはどっちもいいなとか思っているんだけど……」


 二つの利点は、さほど大差ないように思える。学校ということは校内にある給食室での調理か、市が設立した給食センターでのそれかのどちらかだろうし、施設——例えば養護施設や老人ホームなどでの調理にあたって、二つの共通点は「与えられた調理メニューを淡々と作る」ことだろう。栄養から何まで決められたメニューを調理することは、楽とも言えるし、福原はやりがいがないなとも思っていた。


 やりがい云々はさておいて、調理師になること自体は簡単なことだろう。食堂を運営しようと考える福原と違って、経営に悩むこともなければ、試行錯誤することもないだろう。

 だが、それは口にしない。言ったところで余計なお世話だろう。

 しかし、福原の考えを察していたのか、坂本が苦笑しながら、「まあ、食堂を持とうと思う緑よりも簡単な夢だけどね」と言った。

 坂本が席を立って、着衣の乱れを直した。


「でも、意外に元気そうで良かったよ。泣いてないか心配だったんだ」

「何それ。……あれぐらい平気だって」

「凛君が守ってくれたもんね」


 そう含み笑いを見せた坂本。全てを見透かしているみたいに。

 彼女は福原に近付き、肩を二回叩いた。そうやって励まし、勇気付けるように。


「あの中川は、嫌な奴だけどそれで緑が我慢することは一つもないのよ。あいつに言いたいことがあるならはっきり言ってやればいいし。緑は時々神経質になって自分を追い込みすぎちゃうことがあるからさ。人間は図々しいくらいが丁度いいのよ」


 坂本は福原のことを誰よりも理解してくれている。なぜなら、中学校が同じでそのときから友人であったからだ。気兼ねなく話し合える仲で、性格も共通点などないのにそりが合っていた。


 友人関係など、いわゆる普遍的なものだと福原は思っていた。特別な関係などではなくて、至って凡庸で、でも近しい距離感の関係。家族などは血縁関係があるがゆえに絶対的な特別感があってしまうが、それがない友人関係は、縁が切れやすいし逆に強く密接しやすいものだ。


 坂本が「じゃあね」と言って店を出る。

 彼女が去って行ったことに、まるで夏のぬくもりが薄れて秋の薄寒さに移ろいでいくような寂しさを感じた。







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