第3話 闇の工房



意識が戻りつつあった。頭がずきずきと痛み、身体が冷たい。悠子はゆっくりと目を開けようとしたが、まぶたが重い。薬の効果がまだ完全には切れていないようだ。


周囲を見回そうとするが、暗闇しか見えない。目が慣れるまでしばらくかかった。


ここは…どこ?


天井が低く、窓のない部屋。わずかな明かりは、ドアの隙間から漏れてくるだけ。手足を動かそうとしたが、縛られていた。冷たい金属製のテーブルに横たわっている自分に気づき、悠子は恐怖で息が詰まりそうになった。


「助けて…」


声を出そうとしたが、喉から出るのはかすれた音だけ。口の中が乾いていた。


どれくらいの時間が経ったのか。悠子は状況を思い出そうとした。天羽の家、蝋人形の制作、そして見つけたあの恐ろしい部屋…。それから、お茶に何かを入れられ、意識を失った。


由香里へのメッセージは送れただろうか。誰かが自分を探してくれているだろうか。


ドアが開く音がした。光が差し込み、悠子は目を細めた。


「目が覚めましたか」


天羽修一の声だった。彼はゆっくりと近づいてきた。白い作業着を着て、手術用のマスクをしている。完全に別人のようだ。


「ここは…どこ?」


「私の真の工房です」


修一は部屋の明かりをつけた。その光景に、悠子は悲鳴を上げそうになった。


部屋の棚には、様々な段階の人形の頭部が並んでいる。人間の頭蓋骨から始まり、徐々に蝋で覆われていくプロセスが見て取れた。まるで博物館の展示のように整然と並べられている。


そして部屋の隅には、等身大の蝋人形がいくつも…


「気に入りましたか?私のコレクションです」


修一は誇らしげに言った。


「あなたは…彼女たちを…」


「芸術にしたのです」


修一の目が狂気に満ちていた。


「美しいものは永遠に保存されるべきです。生身の女性は、いずれ老い、腐敗する。でも、私の技術なら、その美しさを永遠に残せる」


悠子は恐怖で震えながらも、時間を稼ごうと必死だった。


「どうやって…」


「簡単なことです。彼女たちを眠らせ、体液を抜き、特殊な保存液に浸す。そして、肌の質感を再現するために、薄い蝋で覆う…」


修一は熱心に自分の「技術」を語った。彼にとって、これは殺人ではなく芸術だった。


「でも、どうしても完璧にならない」


修一は突然悲しげな表情になった。


「肌の質感、表情、特に目の輝き…生きていた時の美しさを完全に再現できない」


悠子は吐き気を覚えたが、会話を続けた。


「あなたの…最初の妻も?」


修一の表情が変わった。


「葵は特別でした。最初の傑作です。でも、彼女でさえ完璧ではなかった」


「だから、他の女性たちを…」


「そう。より良い技術を求めて。そして、真理に出会った。彼女は葵に最も近かった。だが…」


彼は首を振った。


「あなたは違います。あなたは技術者です。蝋人形師として、私の理想を理解できる唯一の人間です」


修一は悠子の顔に近づいた。


「だから、あなたには特別な役割があります」


悠子は恐怖で心臓が止まりそうだったが、冷静さを保とうとした。


「どんな…役割?」


「私の最高傑作となる真理の制作を手伝ってもらう。そして、その技術を私に教えてもらう」


「そして、私も…コレクションに?」


修一は微笑んだ。


「ええ、最終的には。でも、それまでは共に芸術を作り上げましょう」


悠子は必死に考えた。時間を稼ぐ必要がある。


「分かりました。協力します」


修一は驚いたように目を見開いた。


「本当に?」


「はい。蝋人形師として…私も完璧な作品に挑戦したいんです」


嘘をつくのは難しかったが、生き延びるためには必要だった。


修一は喜びに顔を輝かせた。


「やはりあなたは理解してくれる!」


彼は悠子の拘束を緩め始めた。


「ただし、逃げようとしても無駄です。ここは地下室。外部とは完全に遮断されています」


拘束から解放された悠子は、ゆっくりと体を起こした。筋肉が痛み、頭がぼんやりしていたが、何とか立ち上がることができた。


「水を…」


修一は水の入ったグラスを差し出した。悠子は用心深く受け取り、少しずつ飲んだ。再び薬を盛られるかもしれないが、脱水状態では考えることもできない。


「さあ、あなたの技術を私に見せてください」


修一は作業台を指さした。そこには、真理の等身大蝋人形が運び込まれていた。まだ完成には程遠い状態だ。


「続きをやりましょう。特に、目の表現について教えてください」


悠子は深呼吸し、時間を稼ぐために作業に取りかかった。道具は全て揃っていた。さすが「コレクター」だけあって、最高級の材料と器具が用意されている。


「目の表現には、光の反射が重要です」


悠子は説明しながら、ゆっくりと作業を始めた。自分の技術を見せることで、修一の信頼を勝ち取る必要がある。


時間の感覚がなくなっていた。地下室には窓がなく、外の状況が全く分からない。何時間経っただろうか。それとも一日?


修一は熱心に悠子の技術を観察し、時に質問を投げかけた。彼の知識は素人のそれではなく、長年研究を重ねてきた者のものだった。悠子は恐怖を抑えながら、できるだけ詳細に説明した。


「瞳の奥に小さな点を置くと、生命感が増します」


「なるほど…」


修一はメモを取りながら頷いた。


「休憩しましょうか。何か食べますか?」


悠子は腹が減っていることに気づいた。どれだけ時間が経ったのか。


「はい、お願いします」


修一は部屋を出て行った。悠子はすぐに周囲を見回した。脱出できる場所はあるだろうか。


部屋には窓がなく、唯一のドアは頑丈そうだ。道具はあるが、武器になりそうなものは持ち出されている。それでも、何か使えるものはないか…


悠子は作業台の引き出しを静かに開けた。中には様々な道具が整然と並んでいる。彼女は小さなメスを見つけ、服の袖に隠した。


足音が近づいてきた。悠子は急いで元の位置に戻った。


修一がトレイを持って戻ってきた。パンとスープ、そしてミネラルウォーターのボトル。


「どうぞ」


悠子は慎重にスープを口に運んだ。薬の味はしないようだったが、完全には信用できない。


「この技術を学ぶのに、どれくらいかかると思いますか?」


修一が尋ねた。悠子は考えるふりをした。


「基本的な技術なら数ヶ月…でも、私のレベルまで来るには何年もかかります」


「そうですか…」


修一は少し落胆したようだった。


「でも、私が手伝えば、真理の人形はきっと完璧になります」


希望を持たせることが大切だ。修一が悠子を必要としていると感じている間は、彼女は生きていられる。


食事の後、再び作業が始まった。悠子は出来る限りゆっくりと、しかし確実に進めていった。いつか救出されることを願いながら。


※※※


由香里は不安で落ち着かなかった。悠子からの最後のメッセージから24時間以上経っていた。


「危険。助けて」


そのメッセージを受け取った瞬間、彼女は高山刑事に連絡していた。しかし、民間人である由香里には限界がある。


「令状が必要です」と高山刑事は言った。「単なるメッセージだけでは、天羽家に踏み込む理由として不十分です」


「でも、彼女は危険な状況にいるんです!」


「証拠が必要なんです」


由香里はフラストレーションを感じたが、法律家として、その論理は理解できた。それでも、彼女には行動しなければならないという使命感があった。


彼女は天羽家の周辺を車で何度も通った。しかし、高い塀と門に阻まれ、中の様子を窺うことはできない。


工房に戻った由香里は、悠子の残した資料を再度確認した。天羽に関する記事、失踪した女性たちの情報…何か見落としはないだろうか。


突然、彼女はあることに気づいた。天羽が美術品コレクターであること、特に蝋人形に執着していること。そして、失踪した女性たちの共通点…


由香里は急いで高山刑事に電話をかけた。


「高山さん、重要な情報があります。天羽家の地下を調べる必要があります」


「地下?」


「はい。天羽家の建築図面を見つけました。地下室があるんです。そして、失踪した女性たちの共通点…彼女たちは全て、天羽の最初の妻に似ていました」


高山刑事は沈黙した後、言った。


「分かりました。これならば、令状申請の材料になります」


※※※


地下室の作業は続いていた。悠子は真理の人形の顔に最後の仕上げを施していた。修一は終始そばにいて、一つ一つの工程を熱心に観察していた。


「素晴らしい…まるで生きているようだ」


修一の目は異様な輝きを放っていた。悠子は微笑むふりをしたが、内心では恐怖に震えていた。


「次は髪を植えていきます」


髪の植え付けは、最も時間のかかる作業だ。悠子はわざと遅く作業を進めた。一本一本、丁寧に…時間を稼ぐために。


どれくらいの時間が経っただろう。悠子の目は疲れ、指は痛んでいた。しかし、諦めるわけにはいかない。


「私…少し休みたいです」


修一は不満そうな表情をしたが、同意した。


「15分だけ」


彼は部屋を出て行った。悠子は深呼吸し、袖に隠したメスを取り出した。もし戻ってきたら、自分を守るために使うしかない。


しかし、その前に…悠子は作業台の下にあるメモを見つけた。紙切れに住所が書かれている。この地下室の正確な住所だろうか?彼女はそれをポケットに忍ばせた。


突然、上階から物音がした。修一が何かを落としたのだろうか。


だが、それは違った。複数の足音、そして声が聞こえる。


「警察だ!動くな!」


悠子の心臓が高鳴った。救助が来たのだ!


地下室のドアが開き、修一が慌てた様子で入ってきた。


「黙っていろ」


彼は悠子の首にメスを突きつけた。上から足音が近づいている。


「ここにいるぞ!」と誰かが叫んだ。


地下室への階段を下りてくる足音。悠子は震える手で、袖から自分のメスを取り出した。


ドアが開き、高山刑事と複数の警官が銃を構えて現れた。


「天羽修一!武器を捨てて、手を上げろ!」


修一は悠子を盾にして後ずさりした。


「近づくな!彼女を殺すぞ!」


状況は一瞬で凍りついた。悠子は修一の腕の力が緩んだ瞬間を待った。


「天羽、もう終わりだ。観念しろ」


高山刑事が静かに言った。


「終わりじゃない…私の芸術は永遠だ!」


修一の注意が警官に向いた一瞬、悠子は全身の力を振り絞って、手に持っていたメスを修一の腕に突き刺した。


「ぐあっ!」


修一が悲鳴を上げ、悠子から離れた。警官たちがすかさず飛びかかり、修一を取り押さえた。


「御子柴さん!大丈夫ですか?」


高山刑事が駆け寄ってきた。悠子は震える足で立ち上がろうとしたが、力が入らず、その場に崩れ落ちた。


「真理は…他の人たちは…」


「地下室を調べています。何か見つかるでしょう」


救助隊員が担架を持って駆けつけ、悠子を運び出した。地下室を出る時、彼女は最後に振り返った。


そこには真理の不完全な蝋人形が、まるで自分を見ているかのように座っていた。


※※※


病院のベッドで目を覚ました悠子。窓から差し込む自然光が、どれほど恋しかったことか。


部屋には由香里が座っていた。


「よかった、目が覚めた」


「何日経ったの?」


「丸一日。あなたは脱水症状と軽い薬物中毒でした」


悠子は体を起こそうとしたが、まだ力が入らなかった。


「天羽は?」


「逮捕されました。地下室から恐ろしい証拠が大量に見つかったそうです」


由香里は悲しげに言った。


「7人の女性の遺体…正確には、遺体を蝋で覆った『作品』が見つかりました」


悠子は目を閉じた。想像を超える恐怖だった。


「真理は?」


由香里は沈黙し、悠子の手を握った。


「彼女も…見つかりました」


涙が頬を伝った。友人を救えなかった悲しみが押し寄せる。


「彼女はどうやって…」


「天羽は全て自白したそうです。画廊で見かけた女性たちに近づき、信頼を勝ち取り、そして…」


由香里は言葉を切った。詳細を語る必要はなかった。


「あなたのメッセージが命を救いました。位置情報と『助けて』という言葉。高山刑事はすぐに動いてくれました」


悠子はぼんやりと思い出した。最後の力を振り絞って送ったメッセージ。


「証拠は?」


「地下室で見つかった手帳、そしてあなたが送った写真。天羽は完全に罠にはまりました」


悠子はほっとため息をついた。しかし、心の傷は簡単には癒えないだろう。


「私の蝋人形は?」


「証拠として保管されています」


悠子は窓の外を見た。青い空、流れる雲。当たり前の日常がどれほど貴重なものか、身に染みて感じた。


「もう蝋人形は作れないかもしれない」


彼女は小さな声で言った。手元に浮かぶのは、天羽の「コレクション」の姿だ。


「時間がかかるでしょう。でも、あなたの技術は人々に喜びを与えるものです。それを忘れないで」


由香里の言葉に、悠子は弱く微笑んだ。


数日後、悠子は退院した。自宅に戻ったものの、工房に入る勇気はまだなかった。


真理の葬儀が行われ、悠子も参列した。他の犠牲者の家族たちも来ていた。共通の悲しみを分かち合う人々。


葬儀の後、真理の母親が悠子に近づいてきた。


「娘の話をよく聞かせてくれたわね。ありがとう」


「私は何もできなかった…」


「いいえ。あなたが真相を明らかにしてくれたのよ。娘も喜んでいるわ」


真理の母は小さな箱を差し出した。


「これを受け取ってほしいの」


箱の中には、真理の子供の頃の写真と、小さな人形があった。幼い真理が作った粘土の人形だ。


「娘はいつも、あなたの技術を尊敬していたのよ」


その言葉が、悠子の心に温かさを灯した。


帰宅した悠子は、しばらく躊躇した後、静かに工房のドアを開けた。埃をかぶった道具たち、途中で放置された小さな蝋人形たち。


悠子は深呼吸し、作業台に近づいた。そこには、事件前に制作していた小さな少女の人形が残されていた。悠子はそれを手に取り、優しく微笑んだ。


この技術は、悲しみではなく、喜びを生み出すためのもの。


彼女はゆっくりと道具を手に取った。少女の人形の顔に、最後の仕上げを始める。


悠子の指が、再び命を吹き込むように動き始めた。


その夜、悠子は不思議な夢を見た。


真理が微笑みながら、彼女の工房に立っていた。


「続けて」と真理は言った。「あなたの技術で、私たちは生き続ける」


悠子が目を覚ますと、朝日が窓から差し込んでいた。彼女は真理から受け取った小さな粘土人形を見つめ、静かに頷いた。


そして、新たなスケッチブックを開き、デザインを描き始めた。


真理をモデルにした、笑顔の少女の蝋人形。悲しみではなく、彼女の生きた証を残すための作品。


工房には再び、悠子の指先の動きだけが響いていた。

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