第5話 監視塔


丘の頂上のすぐ下あたりに羊たちがいた。思い思いに草を食んでいる。

ティールは足を止めて振り返った。


いつもと同じ風景だった。

眼下には、まばらに灌木が生えたなだらかな丘が続き、羊飼いの家が点々と建っている。さらに遠くには、半円形の海岸線が広がり、入り組んだ海岸線の一角には、遠目からでも威厳を放つ国王の城がある。

いったい、この風景を何度見たことだろう。子供の頃から、父さんに連れられて毎日この丘を登っていた。


「何かが違う」

ティールはつぶやき、目を閉じた。

丘を登る初夏の風に乗って、若い草の香りがする。青臭いが心を軽くしてくれる。羊たちの鳴き声に、潅木の木の葉がすれる音がかすかに混じっている。

「とても懐かしい。でも、なぜ懐かしいんだ」

ティールは目を開け、一気に頂上まで駆け上った。


頂上には、石造りの高い塔があった。

監視人ロイドの塔だ。広く見渡す目、ロイドは屋上にいた。半鐘の吊り下げられた柵の横に微動だにせずに立っている。ティールの足音を聞いたのか、痩せこけた男が下を向くこともなく片手を上げた。

ロイドは城の兵士だ。ティールの生まれる前からここにいて、王国を見守り続けている。嵐の夜、子羊が迷子になり、ここまで探しに来た時も彼は立っていた。

噂によると、メージュの夜でさえ、目を閉じながら立っているとのことである。


「何かあったのか、アルガルの息子ティール」

風のうなりのようなかすれた声が響いた。

「特に何もない」

そう答えながらティールは驚いた。ロイドが自分から口を開いたのは初めてだった。

「お前はいつも聞く。今日は何が見えるかと」

その通り、そしてロイドは答える、空と海そしてラウンディ王国と。

それが日課だった。

「だが、今日は聞かなかった」

ロイドはここに来いとばかりに塔の入り口を指差した。


ティールは重い扉を引き、中に入った。

石壁に包まれた空間に螺旋階段が伸びていた。

細かなチリが小窓から差した光の中でゆっくりと流れ、時折、鳥の羽ばたく音が聞こえた。階段を登る途中の突き出た杭の一つには鳥かごが下げられ、中には鳩がいた。

この国の住民は、鳩を飼っている者が多い。特に家族と遠く離れている者にとって、連絡手段としての鳩は重要な役目を持っていた。ロイドもどこか遠方に家族がいるに違いない。


ティールは屋上に出た。ここに招かれたのは初めてだった。

塔の上を吹く風は意外に強かった。目がヒリヒリし、長めに刈った髪が無造作に踊り上がった。

ロイドは長身のティールより、さらに拳一つ分、背が高かった。頬はこけ、目は落ち込んでいる。その中の鋭い光を放つ瞳は、遠くを見続けていた。

「今のお前は、自分の目で物事を見ようとしている。さあ、世界を見よ」

歳はとっても老いを感じさせない長身の男は、人の心を見透かすようなことを言う。時にその人の心が、まだ気づいていないことさえも。

ティールは遠くを見つめる男に見習った。


塔の下で見る風景とはまるで違う。王国がパノラマのように広がった。

青い空と一線を引くように、灰色がかった外海が見える。

内海と外海との間には、百リルド前後の切り立った岩壁が円を描いて連なっている。(リルドとは、湿原に生える葦の一種。成人した男の胸の高さまで伸び、急に枯れてしまう。その草の長さを、人々は1リルドと呼び、長さの単位としていた)


円を描く岩壁は、外海からは渡り鳥の翼を隙間なく並べたように見えるため千枚羽の岩壁と呼ばれている。

この国にしか産出しないメージュの水晶を求めて、これまで多くの外国の商人が、時には軍艦を引き連れてやってきた。が、そそり立つ岩壁を前に、なすすべもなく自国へと帰っていった。

天然の壁の内側には、外海よりもわずかに水面の高い内海がある。海と呼ばれるが、内海は巨大な湖で、岩壁のいくつかの亀裂からは、絶えず小さな滝が流れているという。

内海には百五十余りの島々が点在し、その主だった島は、王家の親類が領主として統治していた。島同士の交通は船が結び、今も数十隻の船が行き交っている。


ぐるりと見回すと、北側に一際目立つ山がある。

千枚羽の岩壁に寄り添うように立つ、グローン島の霧の山だ。水辺からすぐ垂直に近い斜面が始まり、海抜千リルド程の所で、切り取られたように平らになっている。その頂上は常に霧でおおわれ、実際にどのような地形が広がっているのかは未だに知る者はいない。

王の住むこの島についでの広さを持つグローン島だが、誰もそこに住む者はいなかった。


ティールは耳を澄ました。

風に乗って外海の波音がかすかに聞こえた。親しい者たちが囁きかけているようだった。

彼の曾祖父は外海から、一人この国にやって来たという。本来なら、よそ者は即、岩壁の淵に連れて行かれ、外海に突き落とされたはずだった。

が、特別な技を持っていたらしく、国王の側近に気に入られ、この島で暮らすことを許されたという。

不慮の事故で幼い頃に父を亡くしたアルガルは、曽祖父から多くのことを学んだと言っていた。だが、その内容については教えてくれなかった。

父アルガルは、ティールに様々なことを教えてくれた。天候の読み方、羊の追い方、生きる知恵などを。

・・しかし、父さん。あなたは他に教えてくれるべきことがあったのではないか・・


「何か見えたか」

ロイドのかすれ声にティールは我に返った。知らぬ間に目に涙が浮かんでいた。

「昔の思い出さ」

作り笑顔をして答えた。

「アルガルの息子よ、お前の瞳は、もはや以前のものとは違う」


・・一度も顔を見なかったはずなのに・・

ロイドの言葉に、ティールは驚きつつも、再び涙がこみ上げそうになり、慌てて塔の降り口に足を向けた。

「招いてくれてありがとう。本当、素晴らしい眺めだった」

「今の生活に思い出を見るようになった時、その瞳は、もはや以前のものではない。その瞳が求めるものはここにはない。旅立ちの時だ、ティール」

かすれ声を背に聞きながら、ティールは螺旋階段を下りていった。


扉を押して外に出た時、何かがきらめきながら落ちてきた。

握り拳よりやや小さな楕円形をした銀色の薄いかけらだった。雲母のように見えるが、そうではない。

頭上から声が降ってきた。

「それはアルガルから預かっていた。お前が旅立ちの瞳をもった時に渡すようにと言われた」

広く見渡す目、ロイドはそれ以上は何も言わなかった。何事もなかったかのように遠方を見つめている。

ティールは銀色のかけらを拾い、腰布の上のポケットに突っ込んだ。

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