第三章 姿を現す真実

 東京の小さなカフェで、蓉子は健太を待っていた。窓の外では春の雨が静かに降り続いている。テーブルの上のコーヒーから立ち上る湯気に見入りながら、彼女は何を話すべきか考えていた。


 ドアが開き、健太が入ってきた。三年間付き合った彼の姿を見ると、蓉子の胸に懐かしさと罪悪感が入り混じった感情が湧き上がった。


「久しぶり」健太は少し緊張した様子で席に着いた。


「来てくれてありがとう」蓉子は微笑みを浮かべた。


 二人は最初、お互いの近況について話した。健太は相変わらず建築事務所で忙しく働いていること、最近新しいプロジェクトを任されたことなどを話した。蓉子も創作教室のことや、出版社との打ち合わせについて語った。


 しばらく世間話をした後、健太は真剣な表情になった。


「蓉子、なぜ会いたいと思ったの?」


 蓉子は深呼吸をして、言葉を選びながら話し始めた。


「健太さん、あの日の別れ方……ごめんなさい。うまく説明できなかった」


「大丈夫だよ」健太は穏やかに言った。「僕も考えていたんだ。二人の関係について」


 その言葉に、蓉子は身構えた。しかし、健太が語り始めたのは別れの言葉ではなく、自分自身の迷いだった。


「実は僕も何か探していたんだと思う」健太はコーヒーカップを見つめながら言った。「でも、それは蓉子の中にはなかった」


 その率直な言葉に、蓉子は驚きと共に不思議な解放感を覚えた。


「どういう意味?」


「僕たちは、お互いを愛していたと思う」健太は慎重に言葉を選んでいた。「でも、愛だけじゃ足りないときがある。僕は蓉子に、自分の理想の伴侶像を求めていた。でも、それは君じゃなかった」


 蓉子は黙って彼の言葉を聞いていた。


「君は自由な魂を持っている」健太は続けた。「でも僕は……もっと従来的な関係を求めていたのかも。そして君も、僕の中に求めるものを見つけられなかった」


 蓉子はゆっくりと頷いた。健太の言葉は痛みを伴うものだったが、同時に真実でもあった。二人は互いを愛していたが、それぞれが描く未来の姿が違っていたのだ。


「健太さんありがとう、正直に話してくれて」蓉子は静かに言った。


 二人は長い沈黙の後、穏やかな笑顔を交わした。これが本当の別れの瞬間だった。痛みはあったが、不思議な解放感も感じられた。


「蓉子」健太は立ち上がる前に言った。「自分の道を見つけてね」


「健太さんも」


 カフェを出た後、蓉子は雨の中をゆっくりと歩いた。雨粒が彼女の頬を打つ感覚が、どこか心地よかった。何かが洗い流されていくような、浄化の感覚。


 家に戻った蓉子は、すぐにノートパソコンを開いた。新しい小説を書き始めたのだ。主人公は、自分自身の内なる声を聴くことを学ぶ女性。彼女はまだ具体的なプロットを持っていなかったが、久しぶりに心から書きたいという衝動に駆られていた。


「わたしの内側にある声」と彼女はタイトルを入力した。そして、言葉が自然と流れ出し始めた。


---


 冬が過ぎ、春の訪れを感じる頃、蓉子の新しい小説が完成した。出版社に送ると、編集者の朝山から熱烈な反応が返ってきた。


「有村さん、これまでとは違う深みを感じます」朝山は電話越しに興奮した様子で言った。「率直に言って、あなたの最高傑作だと思います」


 蓉子はその言葉に戸惑いながらも、静かな喜びを感じていた。これまでのように外部からの評価に一喜一憂するのではなく、自分自身が満足できる作品を書いたという充実感があった。


「『内なる旅路』というタイトルはどうですか?」朝山が提案した。


「いいですね」蓉子は素直に同意した。かつての彼女なら、自分のタイトル案に固執していただろう。しかし今の彼女には、そんな小さなこだわりよりも大切なものがあった。


 出版が決まり、蓉子は創作教室の参加者たちにその報告をした。皆が心から喜んでくれたが、特に北川七瀬の反応が印象的だった。


「先生の言葉が、多くの人の心に届くといいですね」彼女は温かな笑顔で言った。


 蓉子はその言葉を胸に刻んだ。自分の言葉が誰かの心に届く。それこそが彼女が作家として求めていたものだったのかもしれない。


 出版記念のイベントで、蓉子は読者から質問を受けた。


「作家として、次はどんな目標がありますか?」


 以前の蓉子なら、「ベストセラー作家になる」とか「賞を取る」といった外部からの評価に関する答えをしていただろう。あるいは、「結婚」や「家族」という言葉が出てきたかもしれない。しかし、今の彼女は違った。


「私は物語を通じて、人々の心に寄り添いたいと思っています」彼女は静かに、しかし確信を持って答えた。「それがきっと、私の使命なのだと思います」


 その言葉は、彼女自身の内なる声から生まれたものだった。

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