第14話 3-2 徳川万世と権田坂実松

 今日は「お食事処ごんべい」の休みの日だった。

 権田坂実松とおかみさんは朝食を簡単に済ませた後、ふたりでテレビを見ながらゆっくりくつろいでいた。

 今日は徳川が自宅に来ることになっていた。

 前日親友の徳川万世から電話があり、

「明日相談したいことがあるから」

 と云われて徳川が来るのを待っていた。徳川は午前十時頃にやってきた。

 そして手土産をおかみさんに渡しながら、

「お早うございます」

 と徳川が挨拶をした。

「みっちゃん、わるいねえ、休みなのに朝から時間をもらっちゃって」

 と頭を下げた。

「お早うございます」

 おかみさんも徳川に挨拶を返した。

「こちらこそ、いつもすみません」

 と笑顔で出向かえながら、

「さあ、上がってください」

 と両膝を突いて来客用のスリッパを整えた。

「では、遠慮なく」

 徳川が綺麗に揃ったスリッパに履き替えて、リビングに入っていった。

「徳ちゃん、待ってたよ。なんだい今日は?」

 権田坂が笑顔で徳川を招き入れた。

 ダイニングテーブルの上には湯呑が二つ置かれていた。

 権田坂実松とおかみさんはいつも二人でゆっくりとお茶を飲むのを日課にしていた。

 めったにお茶以外の飲み物は飲まなかった。

 たまに人との付き合いで外食をするとき以外は、珈琲や紅茶、その他炭酸やジュース類等の飲み物を飲むことは一年を通しても殆どなかった。

 徳川は、テーブルの椅子に腰を掛けた。

「どうぞ」

 おかみさんがすぐに徳川の目の前におかれた湯呑にお茶を入れた。

「みっちゃん、おかまいなく」

 と云いながら、いつも被っている日よけ用の帽子と肩から下げる男性用のおしゃれなショルダーバックを隣の椅子に置いた。

「遠慮する柄でもないだろうにさ」

 権田坂が徳川を見て笑った。

「ハハハ、ちげえねぇ」

 徳川が照れるように笑った。

「でぇ、話つうのはなんだい? 徳ちゃん」

 権田坂の方から口火を切った。

「お茶をいただくよ」

 徳川が湯呑を持って【静岡掛川茶】の香りを楽しみながらすすった。

「ハァ、やっぱり権ちゃんとこのお茶は違うなぁ。こりゃ美味しいや」

「そんなぁ、でもありがとうございます」

 おかみさんが笑顔でお礼を云った。

「自分で云うのもなんだが、確かに旨いな」

 権田坂が一口飲んでおかみさんを見た。

「あら、あんたまで。徳川さんは気を使って下さってるんだから」

「うまいもんは旨いよなぁ、徳ちゃん?」

 権田坂が徳川の顔を見た。

「アァ、俺は昔っから本当の事しか云わないよ」

 徳川が続けた。

「そのついでって云っちゃぁなんなんだがな、権ちゃん」

「なんのついでだい? 徳ちゃん」

 権田坂がおかみさんを見ながら笑った。

「実は折り入って頼みがあってきたんだ」

 徳川が思いつめたまなざしで権田坂を見た。

「見ての通り、金ならねえよ」

 権田坂のいつものお返しだ。

「金の頼み事なら、はなっからこねぇさ」

 徳川が苦笑いした。

「ちげえねぇ」

 権田坂が納得した表情をしながら笑った。

「はははっ、冗談だよ。これゃ失礼。みっちゃん、気にしないでね」

 徳川がおかみさんを見ながら、両手を合わせた。

「いいんですよ、二人の掛け合いには慣れてますから」

 おかみさんが笑いながら右手を横に振った。

「じぁ、何だい?」

 権田坂が重ねて聞いた。

「権ちゃん、海斗のプロボクサーとしての戦いがこれから始まる」

 徳川の目がいつになく真剣だ。

「そんなことぁ分かってるさ」

 権田坂が湯呑に手をかけた。

「そこで権ちゃんの力が必要なんだ」

 徳川が力を込めた。

「徳ちゃん、俺は知っての通りボクシングの世界から身を引いた人間だよ」

 権田坂が目線をそらしながら、手に少し力を込めて湯呑を握った。

「こんな年をとった今の俺じゃあ、とても力になんかなれねえさ」

 権田坂が目線を下ろしながら、ゆっくりとお茶をすすった。

「試合になった時、冷静に相手を分析して、その場で的確なアドバイスが出来るスタッフがうちのジムには俺と田口と村木しかいない」

 徳川が力を込めた。

「試合当日、もし何らかの事情でこのうちの二人が欠けたら、試合の成立が非常に難しくなる可能性がある」

 徳川が真剣な表情で権田坂を見た。

「ましてや一分間のインターバルで、ボクサーの体力を回復させなくちゃいけない。加えて血止めのワセリンを塗るのにも技術と経験がいる。ボクシングの基本とテクニック。試合の流れや相手選手の動きを見る眼力! そのすべてを叶えられるのは、信頼できる権ちゃんしかいない!」

 徳川が背筋を真っすぐにした。

「権ちゃん、俺に力を貸してくれ。そしてうちのジムで田口や村木のサポートと、若い海斗やベンタの力になってくれないだろうか?」

 徳川が祈るような気持ちで、権田坂を見た。

「そんなことぁ、急に云われたって……」

 思いもよらない話に、権田坂は湯呑を握りしめながら、さらに下を向いていた。

 権田坂実松は現役時代、日本ジュニアフェザー(現スーパーバンタム)級のチャンピオンとなって五度防衛し、OPBF(東洋太平洋)ジュニアフェザー級タイトルに挑戦したが、試合中の相手選手の故意に近い偶然のバッティングで出血し、傷が深く血が止まらなかったためTKO負けとなり、そのまま世界チャンピオンを目指すことなく引退した。

 それは過酷な減量苦と一つ階級を上げてしまうと徳川と同じフェザー級になるという理由で、すべては親友徳川と戦わないようにするための配慮からだった。

 しばらくは所属していた帝王ジムでトレーナーをしていたが、ある時ボクシングから一切身を引き、突如料理人を目指して修行を始めた。現役当時からお世話になっていた行きつけの和食のお店があり、そこの一人娘だった現在のおかみさんと結婚して、引退後の人生の再構築をする為の選択だった。

 おかみさんの実家の和食料理店は東京の下町にあった。

 兄がひとりいて、父の跡を継ぎ店を繁盛させていた。

 暫く沈黙の時間が流れた。

「権ちゃん、覚えてるかい、俺と権ちゃんが新人王トーナメントの予選組み合わせで同じジム出身同士なのに戦う事になった時、権ちゃんは拳の怪我を理由に出場を取りやめた」

 徳川が優しい眼になって、権田坂を見た。

「そしてトーナメントが終わった時、俺とほぼ同じ体格の権ちゃんが、『階級を一つ下げることにしたよ。ジュニアフェザー級だ。その方が有利だからな』と笑顔でおれに云いに来た。俺でさえフェザー級のウェイトを維持する減量が辛かったのに権ちゃんは……」

 徳川の眼に涙があふれ、声が上擦った。

「その時、俺は人目もはばからず泣いた。只々、ただただ涙が止まらなかった」

「徳ちゃん、あのなっ」

 権田坂が少し顔を上げて何かを云いかけた。

 その時、傍で聞いていたおかみさんが権田坂の左肩を右手でバシッと叩いた。

「もう、あんた、徳川さんがこれだけ云ってくださってるんじゃない!」

 おかみさんが権田坂の顔を見ようとした。

「私の事は心配しなくていいから、もう一回ボクシングをやって!」

 権田坂の肩が震えていた。

「ボクシングやりたいんでしょ?」

 おかみさんが権田坂の背中に向かって話しかけた。

「海斗君のことが気になってしょうがないんでしょ?」

 権田坂は背を向けていた。

「何かの縁でうちに来てくれた海斗君だってきっと喜んでくれるわよ」

 おかみさんが徳川の方を見た。

「ねえ、徳川さん?」

 まだ下を向いてうつむいている権田坂の顔をおかみさんがのぞきこんだ。

 権田坂は泣いていた。うつむいたまま、右手でこぼれる涙を拭っていた。

「徳ちゃん」

 権田坂が泣きながら顔を上げた。

「俺なんか、こんな年でどれだけ力になれるかわからねぇ」

 権田坂が徳川を見た。

「……けど、……」

 徳川とおかみさんが権田坂を見た。

「やらせてもらうよ」

 権田坂は真剣な眼で徳川を見た。

「権ちゃん……」

 徳川の目に涙があふれた。

「ありがとうな……うぅ……」

 徳川も泣いていた。

「何しろこちとらボクシングの体じゃねぇからな」

 権田坂の心に現役時代の闘志がめらめらと蘇ってきた。

「動けるようになるにはだいぶかかるぜ、徳ちゃん」

「あぁ、少しずつで構わねぇさ。やれる範囲で充分だ」

 徳川が気を使いながら権田坂を見た。

「徳川さん、この人のこと、宜しくお願いします」

 おかみさんの目がうるんでいた。

 権田坂が涙をぬぐって、おかみさんを見た。

「お店だって今まで以上に頑張らなかったら、海斗も困るしなあ」

「あんた! やる以上は両方とも一生懸命頑張らなかったら承知しないからねっ!」

 おかみさんが権田坂の左肩を思いっきり右手で叩いた。

「痛ぇ!」

 権田坂が叫んだ。

「実はこないだ実家の兄に相談してお弟子さんを一人手伝いに来てもらうようにお願いしたばかりだったんですよ」

 おかみさんが徳川を見た。

「兄がうちの店のことも心配してくれて、そのつもりだった、って云ってくれました」

 おかみさんが『私に任せなさい』という顔をして権田坂を見た。

「権ちゃん、みっちゃん、どうかこの通り、よろしく頼みます」

 徳川が頭を下げた。

「そうと決まったら……」

 権田坂が右手を上げて気勢を上げた。

「よーし、頑張るゾウ!」 

「そうだ、その意気だ。頑張れぇ!」

 おかみさんが両の手を口にあてて、メガホンのかたちにして掛け声をかけた。

「ハハハッ、ハハハッ」

 三人の笑い声がリビングに響いた。

 おかみさんが権田坂と徳川を見ながら、拍手をして場を盛り上げた。

 権田坂実松は徳川ジム専属として登録し、田口や村木、田上等選手たちから大歓迎を受けてジムに通い始めた。そして年齢を考慮しながらストレッチを中心に少しづつ体を動かし始めた。

 長年の料理人としての立ち仕事で使っている筋肉以外を鍛えて、動ける身体を作るために、まずはウォーキングと柔軟体操、腕立て伏せ、縄跳び等徐々にトレーニングを開始した。

それから数か月、おかみさんの協力のもと、ひたすら努力を続けた権田坂実松は、JBC(日本ボクシングコミッション)に【セコンドライセンス】の取得手続きを済ませた。

 そして「権(ごん)さん」の愛称で少しずつジムのボクサーにアドバイスを始めた。

 伝説の元日本ジュニアフェザー級(現スーパーバンタム級)チャンピオンと謳われた権田坂実松が、数十年ぶりに日本ボクシング界に本格的な復帰を果たしたのだった。

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