届かぬ視線:静流のはなし

 その人を初めて見たのは、高校受験のために、志望校の説明会に行った日のことだ。


 説明会は、学校の体育館で行われた。


 特に何も勉強したいことなんてなくて、取り敢えず受かればいいくらいの気持ちでいたから、私は説明会に殆ど興味を持っていなかった。


 一緒に来ていたお母さんはお化粧まで張り切っているから、「早く来ても別に受からないよ」なんて露骨に態度にも出せなくて、まだ人もまばらな体育館の後方、綺麗に並べられたパイプ椅子に座って、配られたパンフレットを読むフリをしていた。


 紙質のいいパンフレットの文字に目を滑らせていると、不意に周囲が一瞬だけ水を打ったように静かになったのを感じて、顔を上げる。何気なくお母さんの方を見ると、視線が体育館の後方出入口に釘付けになっていた。釣られて私も、そちらを見た。


 柔らかそうな金髪に、すらりとした立ち姿が目に入った。「うわ」と思わず声が出た。なんでかは知らないけれど、とにかく「綺麗な人」だと思ったのだ。


 細身の手足に黒い学生服。普通の学ランを着ているから、同じように説明会を受けに来た生徒だろう。自分の知っている「男子生徒」というカテゴリからは著しく掛け離れた、何か、がそこに立っていた。頭に暴力的な勢いで情報を直接叩き込まれたような感覚さえ覚えた。


 男子生徒は、呆然とする私の視線に気付かないまま、体育館後方の受付で、一緒に来ていたスーツの女性(多分母親だと思う)が来校者名簿に記入している様子を、緩みの無い立ち姿で眺めていた。ポツンと置かれた人形みたい、と思った。


 窓からの陽射しが目映いことにも、体育館の壁がオレンジ色をしていることにも、私はその時ようやく気付いた。彼の周囲だけが切り取られた絵画のように完成されている。


 彼に引き摺られて、世界の構成要素が私の意識にいきなり届いたような、そんな非現実的なことを思った。


 男子生徒が親と一緒に、するすると前方の席に歩いていくのを、私はただ目で追った。歩くたびに揺れる髪の曲線さえ優美に見える。最前列に腰を下ろしたのを見届けて、私はようやくお母さんに視線を戻した。お母さんも例の親子を見ていた。


「ねえ、お母さん」

「なに?」

「あんな綺麗な人、いるんだね」

「……そうねえ」


 お母さんはあの子を見てぼうっとしていたらしい。まったく気の無い返事をして、それから思い出したように「あんまりジロジロ見ると失礼ね……」とばつが悪そうに座り直した。私はもう一度、あの男子生徒が座った席を見た。さっきより、体育館の中が明るく見える。


 舞台の深紅の緞帳どんちょうの波打つ陰影も、館内を歩き回る人達の上靴が床に擦れて鳴る音も、彼がいると映画のワンシーンの演出みたいに頭に入ってくる。この高校、こんなに綺麗なところだったんだ。今まで全然気が付かなかった。


 説明会が始まって、学校生活の概要を話されても、私の頭には、さっきの男子生徒のことばかりが浮かんでいた。


***


 男子生徒が有名人だと知ったのは、その日の夜のことだった。小学校の時の友達とメッセージのやり取りをしている時に、「なんか今日、とんでもない美人を見た」という話題を出したのだ。「とんでもない美人」という表現が面白かったのか、友達は「なにそれ」と笑いながら詳細を聞いてきた。私は、説明会で見かけた男子生徒のことを送った。


「金髪のすらりとした男子」

 という特徴は、友達にも心当たりがあったらしい。すぐにメッセージが返ってきた。


「多分、うちの学校の諫早弟かも。諫早いさはや静流しずる


 諫早。諫早静流。私はその名前を頭の中で何度か繰り返して、それから「弟?」と聞き返した。


「双子の弟なんよ。顔は王子様だけど、性格はよくわかんない。というか暗い」

「暗い?」

「うん、なんか、いっつも一人で本読んでる。あと、たまに学校休んでた」

「へえ」


 諫早静流について知っていることを、友達は色々教えてくれた。総合すると、双子の弟で、美形だけど、ほとんど喋らない、あまりぱっとしない人。なんならお兄さんの方がかっこいい、なんて話も出た。兄弟揃って見た目はいいから、他校の女子が彼ら目当てに相談を持ちかけてきたりするらしい。


 自分も諫早くんのことを聞いておきながら言える立場ではないが、なんだかプライバシーが無さそうだな、と少し心配になる。


「どっちと付き合いたいか、って言われたら私は断然兄派。真清ますみくんっていうんだけど」

「名前なんて読むの? まきよ?」

「ますみって! いうんだけど!」


 そこから友人による怒涛の真清くんプレゼンが始まったのだけれど、私は上の空だった。諫早静流のことで頭がいっぱいだったのだ。


 適当に返事をしながら、説明会で目にした彼の姿を思い出す。


 古い体育館に立っているだけなのに、夢でも見ているかのような光景だった。その日の夜は、諫早静流の姿が頭から離れなくて、なかなか寝付けなかった。


 あの高校に彼が行くのなら、また会えるだろうか。そんなことを考えて、勉強しようとささやかな覚悟を決めた。


***


 果たして、志望校……珠庭すば第一高校の入学式にて、私は彼の姿をもう一度目にした。まさか本当にいるとは思っていなかったから、固まってしまった。教室の入り口で唖然として立ち止まり、後がつかえてますよと他の新入生につつかれて、慌てて自分の席を探す。


 諫早静流は、隣のクラスだった。式典では名前の順に座るから、彼の席は一番前にある。金髪が地毛というのは友人に聞いて知っていたけれど、へえ、本当に地毛なんだ。ピンと延びた背筋は、後ろから見ても綺麗だった。


 さらに例の諫早兄、つまり真清くんは同じクラスになれた。彼は弟とは正反対で、明るくて人当たりがいいし、クラスの中心にいるタイプ。入学式のその日のうちに、彼の周りには小規模な人集りができていた。すごいなと眺めていたら、ばちりと目があって、ニッコリ微笑まれる。私は慌てて目を逸らした。


***


 入学早々、委員会決めがあった。


 うちの学校は受験生の勉強を邪魔しないように、秋にやる文化祭を前倒しして六月には済ませてしまう。だから決める内容の中に文化祭実行委員も入っていて、私は「委員会に推薦されたら嫌だな」くらいの気持ちでいた。


 まだ二人くらいと恐る恐る仲良くなったくらいで、他の子とは全然話せていなかった。そんな状態で文化祭のまとめ役なんて、とてもじゃないけれど務められる気がしない。


 先生がずらずらと委員会の名前を黒板に書いて、「じゃあ誰かこの中でやりたいのはあるか?」と聞く。


 私は「ない」を全身でアピールした。他の子も、「特にないですー」「私もー」と無難な返しをする。委員会で時間をとられるなら、バイトでもして、新しいメイクを研究するために時間を使いたい。


 先生が苦笑いしたとき、「せんせー、俺、文化祭実行委員やりたいでーす」と、声がした。見ると、あの明るい真清くんだった。先生の顔がぱっと明るくなる。


「じゃあ実行委員は諫早な」

「はあい」


 黒板に先生が諫早くんの名前を書く。がつがつとチョークが黒板に当たる音を聞きながら、私は自然と手を上げていた。


***


 諫早くんは「よろしくな」と気楽に笑って、連絡先を交換しないかと私に提案してきた。


 断る理由が無いから交換したけれど、なんで実行委員になったのか聞かれて、まさか「弟さんのことを聞きたいからです」とは言えるわけもなく、私は「なんとなく」と無難に答える。


 そして、最初の委員会の日になった。実行委員は、クラスから男女一人ずつ選出されている。期間まで短いから、集まりは割と頻繁に行われるらしい。


 帰りのホームルームで、最初は顔合わせだけだから、と先生に言われた。放課後、指定された教室が空くのを、諫早くんと廊下で待つ。


「……諫早くん、なんで実行委員になったの?」

「俺? サボるため」

「え」


 何気ない質問のつもりが、けろりと言われて面食らう。


「他の委員会と違って、文化祭は二ヶ月頑張れば良いだろ? 短くていいなーって」


 他のクラスの委員もぞろぞろ廊下に集まりつつあるなか、諫早くんは悪気なんてありません、って顔でニコニコしている。


「良いの、そんな理由で?」

「お互い様だろー、そっちだって文化祭目当てじゃなさそうだし?」


 にんまりと笑って、諫早くんが言う。


「え、それは、その」

「ま、推薦されて渋々って奴もいるし、大事なのは動機よりも結果ってことで!」


 肝心の理由は聞かずに、ぱっと明るく話を終わらせる諫早くんの側から、「感心しないな」と低い声がした。


「サボりを明言するのは良くない」


 柔らかいバリトンの声が、撫でるように諫早くんを嗜める。


 声の主を見て、私は「ひ」と思わず小さく悲鳴を上げた。


 諫早くんの後ろに、いつの間にか背の高い男の人が立っていた。柔らかそうな金髪に、すらりとした細身の手足。


「い、諫早くん、この、人」


 聞かなくてもわかっている。中学の時に説明会で見た日から、高校の入学式で見掛けたときから、なんだかんだ話し掛けようとして、どうしてもできなかった人、だ。


 今日は盛れてないからとか、私より可愛い子が話し掛けてるから並びたくないとか、理由は色々だ。だから、こんなタイミングで近くに来られるなんて、全く覚悟ができていなくて、猛烈に鏡を見直したい気分になる。


「ああ、こいつね、うちの弟。……静流、この子になんかした? 物凄いビビられてるけど」


 諫早くんが、金髪の人……静流くんを振り返って聞く。間近で見る静流くんは、思っていた何倍も綺麗だった。


 生で見て、やっぱり綺麗な人というのは存在するんだな、と痛感する。顔のパーツが完璧なバランスで収まっているうえに、その一つ一つが整っている。何をどうしたらそんな顔になれるのかが理解できない。


 私はイタリアンファミリーレストランで見掛けた、宗教画の天使の顔を思い出していた。が、


「僕の知ったことじゃない」


 整った唇からは、剣のある言葉が飛び出した。


「静流、言い方」


 諫早くんが咎めるように言う。


「なら言い方を変える。濡れ衣だ。勝手に怯えられても困る」

「そりゃ悪かったよ」


 静流くんは諫早くんに、淡々とした口調で返す。私は「あ」とか「え」とかしか言えなくなって、ただ二人のやり取りを聞いているしかなかった。


「あの、私……怯えてたんじゃなくて……」

「そうか」


 静流くんが、私を見た。その目にあまりにも温度が乗っていないから、私は思わず口を噤んだ。


「……あの、ごめんなさい……」

「謝られても困る。君は僕に何もしていないし、僕も君に何もしていない」


 静流くんは淡々と言うけれど、私はなんだか泣きたくなってきた。話してみたいとは、思っていた。けれど、こんな風に会話のキャッチボールすらままならないなんて、予想はしていなかった。


 楽観的に考えすぎていたことに、今更気付く。私は静流くんのことを、優しいけど、会話が苦手なだけの内気な人だと、イメージだけで勝手に決めつけていた。


「静流、そういう時は『何も悪いことしてないんだから、謝らなくても大丈夫だよ』って言うんだって」

「そうか」


 諫早くんの言葉に、静流くんは短く返す。肯定なのか、納得なのか、その他もろもろの感情が乗っているのか、私にはわからない。


 作りものめいた美貌からも、うまく感情が読み取れない。お兄さんの諫早くんは笑ったりふざけたりを大袈裟なくらいするのに、弟の静流くんは、人形みたいに無表情だった。


「驚かせたことは謝る」


 じっ、と私の顔を見ながら、静流くんは口を開いた。


「放っておいてくれ。そうすれば僕も何もしない。する理由がない」

「……お前、それで本当に実行委員できる?同じ組の女子泣いちゃわない?」


 諫早くんの言葉に、静流くんが「問題ない」と答える。


「今その女子を探していたところだ。同じクラスの『はなぶさ』と言うんだが、見掛けなかったか」


***


 静流くんと同じクラスの実行委員、纐纈はなぶささんは、遅れて合流してきた。


「ごめん、ちょっと先生に呼ばれてて!」


 もう空いた教室に実行委員があらかた座り終わった頃になって、ようやく彼女は駆け込んできた。クラスが隣だから、静流くんと纐纈さんは私達の隣の席だ。


「開始間際だな」

「本当にねー!間に合って良かった」

「全くだ」


 淡々と話す静流くんに、纐纈さんはまるで動じていない様子だ。静流くんが「問題ない」と言っていた理由に納得する。


「じゃあ、全員揃ったし委員会始めようか。まずは自己紹介からでいいかな」


 先生が手を叩きながら言う。


 私は、諫早くんの隣で、こっそりと静流くんの方を見た。彼はもう私なんて眼中にないみたいに前を向いていて、プリントにシャーペンを走らせる姿まで絵になっていた。


 自己紹介で彼が立ち上がった時、女子が何人か、「かっこいい」とひそひそ囁く声が聞こえたけど、その時静流くんが一瞬だけ顔を歪めたことに、私は気付いてしまった。


***


 その日の夜、私はベッドで横になったまま、私は静流くんの『放っておいてくれ』という言葉を思い返していた。確かに、勝手に動揺して泣きそうになったのは悪かったな、と反省する。こっちが一方的に彼を知って、憧れて、イメージと違ったから、勝手にがっかりしただけだ。


 と、スマホに真清くんからのメッセージが届いた。何かあったら俺が静流に言っとくから、気にしないで、という内容と、簡単な謝罪が書いてあった。


「これは単なる質問なんだけど、静流くん、いつもあんな感じなの?」


 思いきって聞いてみる。真清くんからの返事はすぐに来た。


「あんな感じ、って?」

「愛想がないというか」

「ああ、そうかも。静流、あんまり人に好かれたくないみたいでさ」


 人に好かれた結果、色々面倒なことがあったのだと真清くんは教えてくれた。昔はあそこまで無表情じゃなかったこと、中学に上がってから、あんな感じになってしまったこと。


「というか俺、静流と普通に話せる女子が居たってことに正直驚いてるんだよな」

「ハナブサさんのこと?」

「当たり。静流もな、『はなぶさは僕に全然興味がないから嬉しい』だってさ」

「そうなんだ……」


 真清くんから、静流くんの口真似のメッセージが届く。


 私は、なんだか拍子抜けしてしまった。なんだ、静流くんに嫌われたわけではなかったのか。


 スマホを横に置いて、ごろりと転がった。


「興味がないから、嬉しい、か……」


 そういう人がいるなんて、あまり考えたことがなかった。自分の頬に手をやると、もっちりした感触が指に吸い付いてくる。毎晩のパックの成果だ。


 私は、「興味がないから嬉しい」なんて思ったことがない。興味を持たれたら嬉しいし、可愛いね、って言われたら嬉しい。好きになって貰えたらもっと嬉しい。だからスキンケアもすればメイクも頑張るし、画像の加工だって勉強中だ。


 でも、静流くんは違うのだ。興味を持たれ過ぎた結果、「色々面倒なことがあった」と諫早くんは言っていたけど、それってどんなことだったんだろう。好かれたくないと思う程の面倒な何かが、中学の頃にあったことはわかる。


 望み通りに放っておかれたとして、彼は寂しくないのだろうか。


「……寂しいと、思うんだけどな」


 いまとても難しい問題に突き当たっていることは分かる。静流くんのことを考えて、私は目を閉じた。


***


 その後も何かと、静流くんが纐纈さんといる様子を見掛けることが増えた。いつの間にやら委員会とは特に関係ないときでもセット扱いされるようになっていて、噂好きの生徒の間では、好奇の目配せが交わされるようになり始めていた。


 とはいえ委員会で窺い知れる二人の間にそんな甘いことはなく、纐纈さんは「困ったときの相談や業務連絡しかしてないのにね」とぼやいていた。でも、二人の会話を聞いていると、周囲が勘違いする気持ちも分かってしまう。


 彼らの間にあるのは、業務上の最小限のやり取りだけだ。変な距離の探り合いも、プライベートな話もほとんど無い。


 だから相手の対応に一喜一憂せずに、ポンポンとテンポ良く会話が進む。端から見ると、気難しい静流くんが、纐纈さんに対してだけは以心伝心で、まるで長年連れ添ったパートナーのように見える。


 正直なところ、羨ましいな、と思う。あれだけ周囲を圧倒するような美貌が自分に向いていたら、私ならきっと萎縮してしまうし、好意を向けられたら舞い上がってしまう。セット扱いなんてされた日には何らかのお祝いでも開きたくなるけれど、彼女にはそれがない。


 普通だ。静流くんの顔が綺麗でも、纐纈さんは普通に対応していた。


 あんなに綺麗な生き物の、美しいところを完全に見ないようにして振る舞うというのは、なにか相当な我慢をしなければ無理そうな気がする。なのにどうして彼女は静流くんに対して無関心でいられるのか、それがよく分からなかった。


***


 その日の委員会は、出し物を決めるクラス代表ジャンケンが行われた。一年生は食品を扱う出し物ができないから、食べ物系の出店は二年生以上から選ばれる。入学したてなのもあって、あまり大規模な仕掛けのできない一年生の選択肢には、必然的に地味な出し物が並んでいた。


 希望の出し物をやりたいというクラスの期待が双肩に掛かっているから、ジャンケンは熾烈を極めた。うちのクラスは結局、諫早くんが「校内から目的の人を探すスタンプラリー」という、第一希望の内容を勝ち取っていた、のだが……


「郷土研究発表って……!」

「はなぶさ、残念だったな。だが負けは負けだ」

「うぐっ」


 最後までジャンケンに負け続けた纐纈さんが、拳を抑えて崩れ落ちる。その肩をポンと叩いて容赦ないトドメを刺す静流くんの言動に、纐纈さんはコントのように胸を抑えた。明らかにおふざけだ。


 他の実行委員のクスクス笑いが細やかな泡のように弾けて、消える。


「地味だがちゃんとした出し物だぞ。しっかりやれよ」

「先生! 郷土研究発表といっても校内謎解きツアー形式にしたいです!」


 起き上がった纐纈さんが食い下がった。


 郷土研究発表は、本来であれば自由研究を模造紙に書いて壁に張り出すような、地味な出し物だ。ほとんど休憩所に近い。


「ほう、なかなか面白いじゃないか。だが、他の出し物との兼ね合いもあるからな」

「そこをなんとか!」

「うーん……じゃあ、他の出し物との兼ね合いを上手く調整して、時間や場所の調整ができたら許可する」

「……ありがとうございます! 頑張ります!」


 先生が大きく頷いて、纐纈さんがガッツポーズをする。静流くんが「良かったな、はなぶさ」と言った。その声音は、本当にそう思っているように聞こえた。


「じゃあ、次は出し物をやる際の注意事項についてだが……」


 先生が話を続けるのを聞き流しながら、私はそっと、隣に座る静流くんの方を見た。彼は相変わらず無表情だったけれど、私には彼が少し笑ったように見えたのだ。


 静流くんが仕事と関係ない会話をするのも、初めて聞いた気がする。私は、なんだか胸がざわつくのを感じた。


 ……静流くん、笑うんだ。しかも、纐纈さんのおふざけに付き合って、慰めの言葉まで掛けて。


 私の視線に気付いたのか、静流くんがちらりと私の方を見た。どきりとする私とは対照的に、彼はすっと目を閉じると、改めて黒板の方を向いた。まるで「見るな」とでも言うように。


 私は、慌てて視線をプリントに落とした。心臓がドクドクと鳴り始める。血の巡りが良くなって、耳が熱くなるのを感じた。あの瞬間、彼の目が一瞬だけ私を捉えた気がした。でも、その視線には、何の感情も乗っていなかった。


 まるで、私がそこにいることなんて、どうでもいいと言わんばかりの冷たさだった。


 どうして私じゃダメなんだろう。私は、静流くんの笑った顔をもっと見たいし、笑わせられるように頑張るのに。纐纈さんは静流くんのことを本当に意識なんてしていないのに、どうして。


 どうして、私は選ばれないんだろう。

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