十六話:紅い月は霞んで見えた

「君が鍵守になった理由について、僕は相当疑問に思っていたみたいだね。どうせ君の事だから、『誰かが役割を果たす必要があった』なんて言いそうだけど。」

「君は知らないでしょ。「鍵守」が、神官ですら引き出すのに苦労する神の力を単体で扱える理由を。そして鍵守の本当の役割を。」

「僕らは『予備の器』なんだ。万が一、エデンの神座がもぬけの殻になってしまった時の、ね。」





 鮮血が、夢の世界に降り注ぐ。カインも、アルマも、俺も、その光景をただ傍観する事しか出来なかった。周囲に散らばる肉片は先程まで意志を持ち、共に戦い続けていた仲間。


「ケ…ビン……」

「カイン!待——」

「うあぁぁぁぁ!!!」


 凄まじい慟哭と共に、カインの剣がアベルに迫る。アベルは身を翻して避けようとするも、左腕を失ってバランスが掴めないのか、顔の右半分は避けきれなかった。


「ぐぁ…っ!」


 言葉にならない悲痛な呻き、右眼を潰されながらも、アベルはなおも足掻くように黒い霧を纏わせ、その身を虚空へと溶け込ませていく。


「待て!!」


 カインの怒号が響き渡る。容赦なく振るわれる刃が、霧の中へと切り込む。しかし、それはまるで虚無を切り裂くように何の手応えもなく、アベルの姿は淡く揺らぎながら闇の奥へと消えていった。


 ゴーン…ゴーン…


 どこか遠くから聞こえてくる鐘の音。途端に轟音が鳴り渡る。


 世界が歪み始めた。


 紅く染まった空に無数の亀裂が走る。地面は崩れ、建物は泡のように弾け飛んでいく。すべてが目覚めへ向かう夢のように儚く砕け、現実へと回帰しようとしていた。


「……まずい、崩れる!」


 アルマの叫びが響く。元来た場所を探すが、空間そのものがねじれ足場さえも安定しない。


『聞こえていますか!?』


 どこからともなく透き通った光が降り注いだ。フィオナの声が響く。


『夢の世界が崩壊し始めています!私ももう、あまり持ちこたえられません、今から脱出する道を開きます!急いでください!』

「フィオナ!お前は大丈夫なのか!?」

『大丈夫、私はもういつでも脱出出来るから!』


 現れた光の道を目指して駆け出す。カインも無言のまま剣を握りしめ、光へと向かおうとする。


 だが——


「……っ?!」


 突如として地面がひしゃげ、鎖がカインの足を絡め取る。


「カイン!」


 咄嗟に手を伸ばすも、闇は瞬く間に広がり、彼を引きずり込んでいく。そこにはアベルの残滓が揺らめいていた。


「逃がしませんよ、兄さん…ここで永遠の眠りにつきなさい。」


 カインが剣を振り下ろすが、足元の闇は彼の動きを封じ込めていた。次カインの身体は光の道とは真逆の深淵へと引きずり込まれていく——


「カイン!!」


 アルマの叫びも虚しく、彼の姿は闇に呑まれた。


『さぁ、早く!』

「待ってフィオナ!カインがまだ奥にいる!」

「振り返るな!」


 来た道を戻ろうとするアルマを片手で抱え、僅かに残された光の道へと飛び込む。


 ——エデンの夢の世界は完全に崩れ去った。




 沈黙の庭を静寂が包み込む夜、赤黒く染まった空に佇む月が俺を照らしていた。夢の世界から帰ってきたというのにまだ身体は軽く、ぴょんと跳躍すれば月でさえ、この手に収まってしまうように錯覚する。

 軋んだ木製のベンチに座っていると、背後から誰かがこちらへ来る気配を感じ取った。歩幅は小さくも軽快な足取り。


「…お前か、『カルマ』。」

「カルマ?誰それ?」


 しまった。


 アルマ本人には彼女の存在は打ち明けていない、カルマの存在や言動は謎が多すぎるが故に話しても混乱を招くだけと判断したからだ。


「ぷっ…あっはは!レイヴンガチで焦ってやんのー!」

「僕だよ、カルマだよ。」


 俺の僅かな動揺を見透かしたように、彼女は一瞬で態度を変えた。くすくすと笑いながら、俺の隣に腰を下ろす。木製のベンチが軋み、不気味な音を立てる。


 ガシャン!


 俺と彼女は見事に夜空を仰いだ。


「うわぁ!いってて…」

「……座りたいなら先に言え。」

「あはは、ごめんごめん。」


 彼女はひょいっと立ち上がり、こちらに手を伸ばす。無言でその手を取り、連れられるがまま花壇の石垣に腰を据えた。


「お前が来る時は大方、重要な話があるんだろう。」

「別に?ボクはただ、君がこれからどうするのか聞きたかっただけだよ。」

「……。」


 『終わりなき夢の使徒』を仕留め損ね、カインとケビンという主力を失った『堕天の翼』のメンバーは帰還した俺たちを様々な罵詈雑言で責め立てた。


「あんなのは気にしなくてもいいよ。無力な群衆の遠吠えなんて。それとこれとは別の話。」

「何が肝心な話だ。」

「ほんとに、これから元の群れを抜け出してまで、たった一人であの子を連れ出すのかなーって。」

「…さっきから違和感のある物語りをしているな。」

「バレちゃった?」


 カルマはくすくすと笑いながら、両手を組んで背伸びをした。月明かりがその影を伸ばし、不気味に揺れる。


「僕は知ってるよ、レイヴン。君の眼はもう光を失いかけている。」

「……。」

「感じない?身体を巡る血がやけに冷たく、もう聞こえないはずの声が聞こえてくる。エリス、セルビア、そしてアリアンナ。」

「……?」

「あぁ…彼女・・はもう消えそうになっているんだったね。」


 カルマの瞳が、深淵を覗き込むように揺らめいている。あの紅黒く染まった月のように。


「君はもう、極めて危うい状態にいるんだよ。分かるかな。」

「…俺はただフィオナを連れ出したいだけだ。自由で神など存在しない、エデンの外に。」

「そうかな。ほんとうにそれだけでいいのかな。」

「彼女の望むものが本当に自由だと、どうして言い切れるんだい?」

「……だとしても、もう戻ることは出来ない。」

「そうだね、僕に言わせれば君は黒い鳥でも花でもない。独りよがりな愛の為に、燃え尽きる運命にあるのだから。」


 カルマの声は冷たい。


「ふふ…今の君の目、すごく素敵だよ。」

「僕ならフィオナの呪いを解く方法も知ってる。君の覚悟に答えるよ、レイヴン。」


 ぼやけた視界の中、月光に照らされた二つの影が僅かに揺れた。カルマがそっと俺の顔に触れ、くすりと笑う。


「このままどこまで堕ちていくのか。楽しみだね。」


 ゴーン…ゴーン…


 鐘の音が、楽園に朝を告げる。


 異様に赤く染まった空、雲の隙間から射す光はどこか歪んでいて、あらゆるものを不気味に照らし出す。地面には黒い染みが至る所に広がっており、その中にはまるで生き物のように動くものさえ感じられる。


 声に出す必要はなかった。何度も経験した絶望の予兆。神を失いつつあるエデンに何かが起ころうとしている。


 道すがら、住民たちは戸惑っていた。空を見上げ、遠くの山々を見つめ、果ては地面に目を落としながら不安そうに話し合っている。彼らの顔に浮かんだのは、恐怖と疑念。それに構っている暇は無い。


 神官アベルの元に、そして『終わりなき夢の使徒』の元に、俺は単身で乗り込む。最後の神を殺し、フィオナを鎖されたエデンから解き放つために、


 

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