鎖されたエデン
霧崎マユル
上幕:楽園の鍵守たち
プロローグ
眠れない夜を過ごす皆様へ、一つの物語を聞かせましょう。
むかしむかし、人々は願いました。苦しみや悲しみのない世界へ行きたい。痛みを感じず、心が揺れることのない、永遠の安らぎに包まれた世界へ。
無数に集まったその願いは、「エデン」と呼ばれる楽園を生み出しました。美しく輝く島、青く広がる海、何もかもが完璧な形で存在するこの場所で、人々は何もかもを手に入れました。
代償として、彼らは外の世界へと出ることを許されず、そして死者さえもこの地に縛られたままになることも知らずに。
楽園の中心にあったのは、誰もが触れることのない、神々の存在。神々は、世界の秩序を守るために人々に呪いをかけ、楽園に閉じ込めました。『神の
しかし神々ですら本当の支配者ではありませんでした。この楽園を創り上げたのは、実は人間だったのです。遥か昔、彼らが「
「鍵守」の役目は、楽園のすべての秘密を知り、常に楽園を維持すること。しかしその代償として、彼らは五感や感情を次第に失っていく運命にありました。
どうしてこんなにも詳しいのか、ですって?では先に、一人の少女のお話をお聞かせします。
ある神様の使いの家系に産まれた少女は、楽園の世界である青年を愛しました。最愛の人のため、少女は命を投げ出して楽園に貢献しましたが、その愛は報われませんでした。
それから彼女は楽園の法則に囚われて、死者として楽園に蘇りました。呪いによって片目はどす黒く染まり、その瞳に見つめられたものは少女の感情を「強制的に理解」してしまいます。少女に関われば関わるほど、少女を愛せば愛するほどにその人は狂気に引き込まれ、やがて破滅していくのです。
それから少女は、自ら孤独になることを選びました。愛した者も崇めたかった神々の尊厳も存在しない、楽園とは程遠い世界で。
これは、とある「鍵守」の青年と、孤独に苦しみながらも繋がりを恐れた少女の物語。
「こうして王子様とお姫様は、いつまでも幸せに暮らしましたとさ…めでたしめでたし。」
「…」
「面白くなかったですか?」
「出会ってたった数日の二人が、生涯愛し合って生きることができるものなのか。」
「…ハートリアさん、そんな事を考えるのは野暮ですよ。」
私は本のページを閉じた。沈黙の庭に響いていたのは、物語の終わりを告げる私の声と、静かな風のざわめきだけ。
レイヴン・ハートリア――この楽園の「鍵守」。虚ろな眼をした青年。彼は、まるでこの場所が唯一の安息であるかのように、ある日からここへやってくるようになった。
「童話に、納得がいかなかったのですか?」
そっと問いかける。彼は軋んだ木のベンチに座ったまま、かすかに首を傾げた。その仕草は、まるで忘れてしまった「納得」という感情が何なのかを理解しようとしているようだった。
「生涯、愛し合う……そんなことが、本当にあるのか?」
彼は再び言葉を繰り返す。その瞳は琥珀色をしているのに、まるで何も映していないようだった。私は、ふと自分の指先を見下ろす。
(彼には、触れられるかもしれない……)
前にもそう思ったことがあった。彼は「鍵守」だから。楽園の法則に縛られながらも、他の者たちとは違う存在。もしかしたら、彼だけは、私に触れても狂わないのかもしれない。
でも……もし、彼も私のせいで狂ってしまったら?
かつて私に愛を囁いた人は皆、最初こそ幸せそうだった。でも、やがて彼らは私の瞳の奥にあるものを見て、壊れていった。感情を理解することは、時に呪いになる。理解しすぎた者は、自分が何者なのかさえ忘れ、狂気に溺れてしまう。
「ハートリアさんは、愛を信じていないのですね。」
そう呟くと、ハートリアさんはゆっくりと私を見た。その瞳には、ほんの僅かに波紋のような揺らぎがある。まるで、遠い記憶の中に埋もれた感情を手探りしているかのよう。
「愛……?」
「ええ。たとえ短くても、深く結ばれることはあると思います。」
「たとえば?」
彼が問う。私は言葉に詰まる。何を答えればいいのかわからなかった。
「鍵守」となったものは凄まじい能力の代償として記憶や五感を失っていく、ハートリアさんも例外では無い。それならば、彼は目隠しの下の私の瞳を覗いても何も感じないのだろうか?私の呪いすら、彼には届かないのだろうか?
そう思うと、恐ろしくなった。
「……あなたには、関係のないことです。」
私は短くそう告げ、そっと立ち上がる。沈黙の庭を後にしようとしたその時、ふいに彼の指が私の袖を掴んだ。
「……?」
驚いて振り向くと、彼は静かに私を見つめていた。その瞳の奥には、わずかな迷い。
(……彼は、本当に何も感じていないの?)
「まだ…行かないでほしい。」
そう言ったのは、他でもない彼。
私の心臓が小さく跳ねる。
彼が私に「行かないでほしい」と言うのは、何の意味もないのかもしれない。ただ、そこに誰かがいてほしいだけなのかもしれない。それでも、彼の指の感触は、まだ人間らしくて――
「……あなたは、どうして私と話すのですか?」
私はそっと尋ねた。
「お前の声を聞いていると、何かを思い出しそうになる。」
「……何か、とは?」
「わからない。」
彼は静かに目を伏せた。そして、掴んでいた袖をそっと離す。
私は何も言えなかった。答えられなかった。
彼に触れられるかもしれないという期待と、また誰かを壊してしまうかもしれないという恐怖が、私の中でせめぎ合っていた。
あなたは、私の呪いに耐えられるの?
それとも――
この庭に落ちる月光は、静かに私たちを照らしていた。
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