第11話 山田正広

「夢幻回航」

紺色の軽自動車が、6階建ての集合住宅が建ち並ぶ一角に止まった。 ドアが開き、ドライバーシートから降り立ったのは、山田正広だった。 建物にはそれぞれ番号が振られていて、2と書かれた建物に、山田の足は向いていた。

いつもよりも少しだけ身形を整えているあたりが、山田らしからぬところであったが、紅葉からはいつも身嗜みについてダメ出しを喰らっているものから、山田としても、紅葉に合う時はそれなりに気を遣う。

紅葉がそのような事に注意を払う男性が、山田ただ1人だというのは、紅葉ファンの羨望の眼差しを受けた。 山田は大して意識もしていなかったが、妬みを受ける材料ではあった。 本人は浮いた気持ちなどほとんど無かったのだが、まわりの注意を惹いていることは、山田にもわかった。

最上階の6階フロアの一番端に、紅葉の部屋はあった。 ドアベルを鳴らして、紅葉を呼び出す。

「いるか?」 山田は声をかけたが、中からは返事がなかった。 その代わりに物音がして、1分ほど待っていると、ドアが開いた。 いつもの着ぐるみファッションではなく、シックなよそ行きに着替えた紅葉が顔を出した。

紅葉は上目遣いに山田に言った。 「どう・・・かな?」 こういった仕草が、紅葉ファンが彼女に求める姿なのだろうが、こういった反応が見られるのは山田の特権だった。 「良いんじゃねぇか?」 山田はまるで妹にでも言うような感情しか表さなかった。

2人は連れだって建物を出ると、山田の乗ってきた軽自動車に乗り込んだ。 2人はこれからドクター佐治の所へ行こうというのだ。 猶の容体を見るというのを口実に、山田は紅葉を誘い出すのが目的だった。 男女の感情は遠い昔に薄れていたが、山田はことあるごとに紅葉を誘った。

まだ危うさの残る彼女の精神状態が気になっているのもあるが、山田にとっても妙に気の合う相手だったからだ。 普通の出会い方をしていたら、この不釣り合いに見える容姿の二人は、案外と良い関係になれていたかも知れない。

山田は紅葉がシートベルトを着けるのを確認してから、車の始動スイッチを入れた。

「ごめん、クスリを飲まなきゃ」 紅葉はクスリを取り出すと、3錠一度に、水なしに飲み込んだ。 彼女は精神科に通っていたが、その事実を知るのは山田だけだった。 山田は度々、紅葉の服薬を目にしていたが、そのたびにもどかしい気持ちになった。 こういった病気には、ドクター佐治の治療もあまり効果はない。 紅葉は霊的なもので病気になったわけでは無かったので、普通の病院に通院する必要があった。 紅葉のことを哀れむような感情ではなく、やりきれない、こみ上げてくる何かがあった。

山田は思い出したように、紅葉に言った。 「そう言えば、ドクター佐治に連絡をとっていなかった」 紅葉は薬の空き袋をポーチの中にしまうと、スマホを取り出した。 山田は紅葉の様子を見て、「ドクター佐治のアドレスが入ってんのか?」と、尋ねた。 紅葉は、他人にはなかなか見せない表情を、山田には見せる。 ちょっと意地悪い表情を浮かべると、「妬ける?」と言いながらおどけてみせた。 「馬鹿言ってるなよ。早く連絡しろ」 「ハイハイ」 紅葉はアドレス帳から、ドクター佐治の電話番号をタップした。

電話に出たのは、ドクター佐治本人ではなく、助手のキルケーの方だった。 この助手、実は紅葉がある事件で知り合って、行く場のなくなった彼女を、ドクター佐治の所へ紹介したのだ。

「お久しぶりです」 男女どちらともつかいない中性的な低い音声が流れた。 キルケーのものだった。 紅葉は幽霊でも電話に出ることができるという事に、改めて驚いた。 「お久しぶり、キルケー」 「わたしだとおわかりですか?」 「ドクター佐治はそんな声じゃないもの」 「猶さんの事ですね」 「これから行っても大丈夫かしら」 「ドクターもわたしも、これからの予定はありませんよ」 キルケーの声に、紅葉は、ありがとうと言って、通話を切った。 「大丈夫だって」 紅葉が言うと、山田は頷いた。

山田たちがドクター佐治の病院に着くと、佐治が迷惑そうに頭を掻きながら応対してくれた。 「まったく今日はどうなってるんだ?患者を休ませてやれよ」 ドクター佐治の言葉に、山田正広と中村紅葉は苦笑いした。

いつの間にか紅葉の脇に、キルケーの光があった。 紅葉や山田はもちろんキルケーの接近に気がついていたが、キルケーにはもちろん悪意はないので、放っていおた。 だが、キルケーは魔性の存在である。 どんな行動原理で動いているかなど、人間の知るものではなかった。 紅葉はキルケーにそっと微笑んだ。

ドクター佐治が、猶の泊まっている病室に案内してくれた。 この病院は廃棄になった学校を再利用したものだが、入院患者のための病室も、教室や準備室などを改装しただけのものだった。

この病院は、ドクター佐治が自前の資金で開業したものだ。 佐治は連盟で修行したものだから、連盟の会員が多く利用しているが、病院自体は連盟のものではなかった。

ドクター佐治に案内されて、個室と表示された部屋に入ってみると、案外と良く出来た内装に驚かされる。 ドクター佐治がこだわって、資金をケチらなかった部分である。 落ち着いた、木目調の床と、壁も普通の病院と違って、落ち着いた感じの淡い茶色のものだった。 木と土の家をイメージしたのだと、ドクター佐治から聞いたことがある。

間仕切りがあって、それなりにプライベート空間が確保できるようになっていた。 他の入院患者は居なかった。 佐治は奥へと、窓際へと進んでゆく。 猶のベッドは窓際だった。 入院患者が一人も居なかったので、特等席なのだろうか。 鬼からの襲撃があることも想定したら、窓際は危険な気がする。 山田も中村紅葉もそう捉えたが、ドクター佐治にはなにか考えがあったのだろう。 猶の気持ちをリラックスさせてやろうとか、そんなところか。

猶はベッドの上に座って、夜空を眺めていた。 3人に気がついて、向き直る。 その目が異様に輝き、突然ケケケと不気味に口をひろげて、怪奇な音で、笑い声を上げた。 佐治が身構えた。 山田も紅葉も体勢を整える。

「ショックが始まりやがったな」 「ショック?」 紅葉が言う。 「人間の精神が魔に触れると、侵されるんだ」 「治るの」 「ああ治せる。だがこれは、どうしても2人の協力が要るかな」 佐治が、ゆっくりと心霊治療の体勢に入ったことが、中村にも山田にも感じ取れた。

「これからひと暴れしてもらうぜ」 ドクター佐治は2人に目もくれずに、猶を見据えて、言葉だけを2人に送った。 2人は無言で頷く。 山田も戦闘訓練は受けているし、修行時代は師匠について、実践をいくつも経験していた。 ただ、実力が一歩だけ及ばずに、実践部隊での活躍をすることはなかったが、普通の人間よりも離れしている。 中村紅葉に関しては、その実力は折り紙付きだ。

「何をやればいい?」 と、山田。 「術で縛り付ければいいの?」 今度は紅葉だ。 佐治は頷いた。 「2人掛かりで頼むぜ」 佐治が言い終わる前に、猶のからだが宙に浮いた。 「ケケケケ」 異様な笑い声と、気の流れが辺りを包む。 病室の照明が、チラチラと瞬いたかと思うと、点滅を始めた。 猶が攻撃を始める前に、ドクター佐治が動いた。 それと同時に山田正広と中村紅葉が動きを縛り付ける術を放つ。

戦闘が始まった。 2人掛かりで行動を縛っているのだが、それでも猶はもがいて攻撃を仕掛けてくる。(※原文ママ:「それで緒はも猶はもがいて」→「それでも猶はもがいて」と解釈) 紅葉は気配を感じて身を躱すと、背後の仕切りが裂けた。 間一髪と言った所か。 だが、紅葉の息は乱れなかった。

猶はまた、奇怪な笑い声を上げて、フーッと深く息を出し、また吸い込んだ。 これは発作のようなもので、一般的な戦闘とは違う。 紅葉もわかってはいたが、実際に見たのは初めてだったので、驚いてしまった。 山田も紅葉も、呪縛に集中した。

ドクター佐治は、両足を踏ん張ると、右手に気合いを込めて、右足を踏み出した。 それと同時に、右手で猶に掌打を打った。 さらに同時に気を乗せて、一気に流し込む。

猶が苦しげに呻いて、反対側から何か黒い影のようなものがゆらりと浮かび上がる。 まだか! ドクター佐治は、さらに気を流し込む。 まだ効かない。

猶の反撃が始まった。 先ほどの見えない斬撃が、爪痕のように仕切りや壁、床を切り裂いた。 さしずめ沙都子や世機などが居たら、修理代が大変ね、などとジョークも出ただろうが、ここに居るのは、戦闘のプロではない。 とは言え、3人はギリギリのところで攻撃を避けることが出来た。 本当にギリギリだった。 佐治は、服の一部を裂かれて、皮膚からは少しだけ血が滲んでいた。 致命傷はないというだけか。

紅葉は咄嗟に山田をガードする術を放ったが、佐治にはほんの少し術をかけるのが遅れてしまった。 「すまねぇな、だけど、オレよりドクターを頼むぜ」 山田が顔を歪ませて、紅葉に向かって言う。 「わかった」 紅葉は猶を睨みながら、頷いて見せた。

この場の気が見える人だったら、猶の身体から紫色の淡い光が迸っているのが確認できるはずである。 山田からは赤い気が、ドクター佐治からは青い気が、攻防を繰り広げている。 紅葉からは透明な、少しだけ白っぽく見える不思議な靄のような気が、辺りを包み込むように伸びていた。

この場で一番の能力の持ち主が、隣にいる小さな女性だとは。 山田はチラと紅葉を横目で見たが、不思議と情けないとは思わなかった。 紅葉の弱いところも知っていたし、自分はそれをカバーする力を持っている。 山田はその事をわかっていた。 気合いを込めて、猶を押さえ込む。 根比べだな! 体力勝負。 山田やドクターは多分耐えられるだろうが、紅葉はどうだろうか。 能力は、彼女の方が上。 だが体力はどうだろう。 実戦経験が少ないのも気になるところだ。 山田は見かけによらずに、そんなことを気にかけられる策士タイプである。 頭で戦闘するタイプなのだ。

ドクター佐治が気を溜めているのがわかった。 一気に勝負をかける気だなと言う事が、山田と紅葉にもわかった。 時間稼ぎ。 紅葉がさらに呪縛を強める。

それでもまだ、猶は抵抗して、呪縛を解こうと暴れ回る。 普通の鬼ならば、これだけやれば黙らせられる。

「ありがとよ」 ドクター佐治が言うと、猶を殺してしまうのではないかと言うほどのフルパワーで、気を乗せた掌打を打った。 また、反対側から黒い影が浮き上がる。 今度は猶の身体から引き離すことが出来た。 影がなおも、猶の身体に取り憑こうと、張り付く素振りを見せる。 ドクター佐治は大きく息をすると、さらに気合いを込めた。

佐治の一撃で、紫色の猶の気が影を包むように伸びて、影を呑み込んで消滅させてしまった。

身体から流れ出ていた気は治まり、猶はベッドの上に崩れ落ちた。 床に落ちないように、ドクター佐治が手を差し伸べた。

彼女を寝かせつけてから、佐治は大きく溜息をついた。

「鬼のパワーと言うよりも、この子の力だな」 佐治は誰にともなく呟いた。 「紅葉ちゃんには劣るが、凄いパワーだな」 佐治は言ってから、脱力して、近くにあった椅子に座り込んだ。 「今日はもう大丈夫だよ」 「今日は?」 山田が言う。 「変なのが襲ってこないかぎりという事だよ」 佐治は言って、苦い笑いを見せた。

佐治やキルケには防ぎきれないって事か。 山田は紅葉の方を見る。 「ラーメンと餃子の店ならば、この近くにもある」 紅葉は山田の言っている事を察して、少し考えてから返事をした。 「出前は頼めないの?」 山田はフッと笑って、ドクター佐治に視線を向けた。 佐治は山田の意をくみ取って、意地悪く笑った。 「病室でイチャつくなよ?」 紅葉が真っ赤になって全力で否定したものだから、山田はほんの少し心に傷を負った。 その様子を見て佐治は、「すまねぇ」と言って。頭を掻いた。

如月淳也は車を運転しながら、今後の自分たちの方針を考えて見た。 だが、運転中のこともあり、あまり集中できなかった。

如月順子は淳也に運転を任せながら、自身は窓の外を眺めながら、思索に耽っていた。 協会は、里神翔子に対して、順子達が思うよりも寛容な処置を求めてきた。 警察に引き渡すのではなく、自分たちで捕らえよと言うのである。 何故かという事は明らかにはならなかったが、里神がテロリストと行動を共にするようになる切っ掛けが、協会になるという噂もあったことから、そのような事実を隠蔽するためのものなのではないかと、淳也などは考えているようであった。

如月順子もその辺りのことは気になったが、むしろ里神翔子の事について、個人のことについて興味があった。 里神順子。 腕の方は確かなようであったが、協会からの情報は、隠蔽されているような気がしてならなかった。 年の頃なら自分と大差ない女が、どうしてテロなんかに染まっていったのか。 子供や連れ合いとの関係も言われていたが、勇名をはせた彼女が、本当に宗旨替えするのだろうか。 順子にはわからなかった。 同性の順子にもわからないのだから、淳也にはわかるはずもなかった。

淳也は協会事務所に報告に変える前に、コンビニエンスストアに寄ろうと、車を走らせた。

7の文字の目立つコンビニエンスストアがあったので、そこへ車を止めた。(※原文ママ:「コンビニエンスストあ」→「コンビニエンスストア」と修正) 「何か買う買い?」 順子に促す。 順子は少し面倒くさそうな表情だったが、自分も降りて、食事や飲み物を購入することにした。 店の入り口付近には、未だに灰皿が設置されていて、何人かが店の前でタバコを楽しんでいた。

順子はあからさまに嫌そうな顔をして、タバコを吸う連中を避けて、店の中へと入っていった。 淳也はそんな順子を、微笑みながら見ていた。 淳也も、順子の後から、自動ドアをくぐると、店内に入っていった。

淳也が店内を見回すと、見知った顔が1つだけあった。 淳也は順子を小突いて注意を促す。 相手は順子も見知った顔であった。

前の事件での関係者だった。 当時は18才の女の子であったのだが、3年経った今は、妙齢の女性に変身していた。 まぁ、化粧が上手くなったと言ったところだ。

雑誌を立ち読みしているところへ近付いていって、二人して声をかけた。 「相良さんですね」 「お久しぶりです」 如月兄妹が言うと、相手は今初めて気が付いたようで、声をかけられたことにも驚いて、ビクリと肩をふるわせた。 「お久しぶりです」 相良と呼ばれた女性が、マンガ雑誌から視線を離して、二人の方を見た。 身長は(※原文ママ:「廃り」→文脈から「順子」などの誤字か?)と同じくらいの、女性としては高身長で、モデルも勤まりそうなスタイルだった。

淡い水色の上着に、ジーンズがよく似合った、モデルでも務まりそうな美人だった。 「あのときはお世話になりました」 相良さんが言い、頭を下げた。 如月淳也と如月順子は、「失礼しました。では、お元気で」と言って、一礼して、相良さんから離れた。 その際に、相良も一礼して、また、雑誌の立ち読みに戻った。

「相良さん、美人になったね」 順子は淳也に言った。 もちろん揶揄う調子が含まれていた。

淳也は否定したが、相良さんが淳也の好みのタイプであることは、身近にいる順子が一番よく知っていた。 淳也と順子は、それそれに別の種類の弁当を買い、急いで車へと戻った。

「協会に行って、休憩室で食べよう」 順子が言う。 「そうだな」 淳也も相槌を打った。 淳也は車を教会の建物に向けて走らせた。

如月姉弟が車を走らせていると、ビルが立ち並ぶ影から、何かが飛び出してきて、結構大きな音をたてて車に打つかった。 淳也は車を止めて、確認のために外へ出てみた。 まだ、周りに人が多く、車も数が多かった。 宵の口。 というか、まだ時間は21時位だった。

順子は窓から顔を出して、確認する。 「淳也、どうしたの」

如月淳也は車の周りを見回したが、何も打つかった形跡はなかった。 後ろから来たトラックが、邪魔になるとクラクションを鳴らしたので、淳也は急いでシートに戻り、車を移動させた。

なんだか嫌な予感がしてならない。 今のは、ただの衝撃ではなかった。(※原文ママ:「ただに衝撃」→「ただの衝撃」と修正) 霊的なもの? 順子の方も、今の衝撃に違和感があったらしく、印を結んで何かを唱え始めた。(※原文ママ:「順子の方の」→「順子の方も」と修正) 防御の方は、姉がやってくれるから、淳也は安心して運転に専念できた。

暫く車を走らせていると、郊外に出た。 仕掛け時はここだな! 淳也も順子も身構えると、やはり敵は仕掛けてきた。

左側方から白く輝く光が4条奔る! 順子がそちらに意識を飛ばして、イメージの防壁を張る。 如月淳也はただ真っ直ぐに、ハンドル操作を誤らないように気をつけながら走行する。(※原文ママ:「謝らないように」→「誤らないように」と修正)

光が車にあたった瞬間、物理的な衝撃とは違う、独特な衝撃波と、ガラスの割れる時の音が響いた。(※原文ママ:「バラス」→「ガラス」と修正) 凄まじい轟音がした。 耳をふさぎたい衝動を押さえながら、如月淳也と如月順子は必死で耐えた。(※原文ママ:「絶えた」→「耐えた」と修正)

また同じ方向から、今度は2倍の光の筋が飛んできた。 一点集中攻撃! 淳也は直感して、攻撃を避けようと、車を加速させた。 いくら姉が防壁を展開しているとはいえ、連続して攻撃を受けたのでは、防壁が持たない。 先程の一撃は、そう思わせる力があった。

あと6キロも走れば、彼らの家に着いてしまう。 そうなれば、有利に戦闘できるが、周りの民家を巻き込むことになる。 如月淳也と如月順子は、それだけは避けたいと思っていた。

どこか開けた空き地でもなかったか? 淳也は必死で頭の中を検索する。

と、目の前にイベントホールの、かなり広い駐車場が目に飛び込んできた。 仕方ない!ここで決めるか。 幸いにして、ホールの駐車場まで、車はなく、人通りもなかった。 薄暗い街灯だったが、淳也の目にはそれで充分だった。

「順子、行くよ」 淳也は姉を、姉さんとは呼んだことがない。 順子も淳也を弟と呼ばなかった。 2人はいつも名前で呼び合っているものだから、よく、夫婦か恋人に間違われたものだが、今回の淳也のセリフも、どこか場違いな響きである。

「いいよ」 受ける姉。

駐車場に乗り入れる時に、スピードが出ていたために、車の腹をこすってしまった。 「チッ」 淳也は舌打ちをし、自分のドジを呪うだけの余裕は、今はまだあった。

駐車場には何台か車が止まっていたが、淳也はお構いなしに自慢のドラテクを披露して、攻撃に転じた。 攻撃担当はもちろん姉。

次の光を、淳也がドリフトで躱すと、姉が車の窓を開けて、光の飛んできた方角に自分の札を放った。 淳也は上手く駐車している車の間を縫って、車を走らせた。 不思議なことに、淳也が車を疾走させても、誰1人外の様子を確認するために顔を出す者も居なかった。 おそらく誰かが結界でも張ったのだろう。 しかしこれだけ大きな結界を張るってのは、相当な準備がいるだろうに。(※原文ママ:「潤部ガイル」→「準備がいる」と解釈) 淳也はそう思いつつも、今は攻撃を避けて、姉が少しでも有利に攻撃できる位置取りを探し回った。

「淳也、そこの広いところで90度右にターンさせて!」 順子の声が飛ぶ。 「OK!」 淳也は軽く加速させて、急ハンドルを切って見せた。 順子は車の天井に腕を伸ばして身体を固定させている。 タイミングを計って、先に取り出していた札を、半分の6枚ほど、宙に放った。(※原文ママ:「中に」→「宙に」と修正)

順子の札は、沙都子のとは少し違って、自立して敵をサーチしながら追いかけるように出来ているのだ。 札は弧を描き、それぞれの的に狙いをつけて、散っていった。 札が散った先は3カ所。 少なくとも3人の敵が居るという事になる。

札は2枚ずつ一組になって軌道を描いた。 敵が最大何人かなどと言う事は、順子は考えないようにした。 見えない敵にすくんでしまっては、勝てる戦いも勝てなくなってしまう。 如月淳也は違っていた。 淳也は、札の散っていった方角を確かめながら、敵の位置や人数を、おおよそ予測してみた。 その予測によって、車の動きを計算して見せた。

順子は彼のそうした戦略眼を褒めて、「あなたが弟で無かったら、抱きついてディープキスでもしてやるわ!」などと言い始めた。 「遠慮しとく、キモいし」 淳也はさりげなく嫌な顔をして、姉のジョークを躱しつつ、敵からの攻撃も、見事に躱して行った。

「そんなだから、彼女いないんだよ~」 順子は札をもう一閃放ちながらも、まだ淳也に絡んでくる。 「自分の姉とディープキスするくらいなら、アザラシにキスしてもらった方が、いくらかマシだろうさ」 淳也も負けていない。 姉が放った札が、全て敵にヒットした確信を得てから、車をまた駐車場から路上へと出した。

まだ敵が追ってくる気配があった。 手傷は負わせたはずだが、それでも気配だけは迫ってきていた。 暫く出鱈目に車を走らせて様子を見たが、やはりまだ数人の気配がした。 3回、光が攻撃してきた。 全て躱しきったところで、急に空気が変わって、人気も多くなってきた。 結界が切れたのだとわかって、二人はやっと安堵の溜息を漏らした。 結界の外では術は使わないのがルールであるから、敵もルールに縛られているのならば、攻撃はないはずである。(※原文ママ句読点修正)

あの札は、一撃必中の札で、当たれば暫く動けなくなるくらいの衝撃があるはずなのに、何故敵は追撃できた? 順子は自分に落ち度はなかったかと、自分なりに確認してみた。 人数が目算よりも多かったのだろうか。 それとも、敵の耐性が高く、札による攻撃では効果が無かったのか? 様々な要因があるが、どれも想像の域を出なかった。 順子は思考を打ち切り、コンビニで購入した、ストローを差し込むタイプのコーヒーを、チュウチュウと音を立てて吸い始めた。

淳也はその様子を見て、姉が相当にいらだっているのを感じた。 彼女の攻撃が、ここまで無力だったのを、淳也は今まで見たことがなかった。 淳也は、このまま協会に寄らずに家に帰ろうと、姉に提言したが、順子は黙って窓の外を眺めて、ストローを吸い続けた。

それにしても、敵の正体くらいは確認したかったな。 この感触だと、里神翔子では無いだろうという事は、淳也にも順子にもわかっていた。 強い敵が何組も居るのではないかという、世機の予感は的中していたわけだが、順子にとっては今回のは、少々屈辱的だった。

順子の実力は、沙都子よりはほんの少し上と言った所だが、それでも、術師の中ではかなりの手練れだった。 淳也にしてもそうである。 手練れであることには、まわりの者は異を唱える者は居ないだろう。 そう言った者達である。 それが、退治でき損ねたのである。 今回の敵は、本当に難敵なのかも知れない。

淳也はしばらく適当に車を走らせて、やっと自宅に戻る気になった。 車をしばらく乗り回して、回り道をしたのは、敵の尾行が気になったのと、このまま帰っては、順子が考え事に集中していたので、邪魔したくなかったのである。 彼女は行動派でいて、実は知性派の一面も持つ。 活発な性格なので、緻密さを持つという一面はなかなか他人には評されないが、いつも近くに居るだけあって、淳也はよく彼女を理解していた。 言動は、少々ガサツではあるが、よく気のつく一面を持つ。 まあ、ガサツさが目立つので、見た目はそんなに悪くないと言う者もいるが、恋人らしき影すらもなかった。

そういった見えない面も知っているから、もし自分が弟でなかったとしても、順子には言い寄ることもないだろうけれど。 弟の感想などは知らぬ様子で、順子はじっと窓の外を眺めていた。 1時間ほどそうして走ってあげたが、頃合いだと、淳也は車を自宅に向けた。 何事もなく、30分ほどで自宅に着いた。

如月淳也と如月順子も、沙都子や世機と同じ様に、協会の寮とでも言うべき、系列の経営するマンションに住んでいた。 建物の建築様式や、方位に関する考え方なども、連盟のマンションと似たところがある。 霊的な防御などを考えた設計になっている。 呪詛を防ぎ、悪霊や悪鬼の侵入も容易ではない、そのような術を施しつつも、建物としての外観の違和感がなくなるように設計されている。

故に、少しだけだが、機能的に使いづらく感じてしまう部分もあった。 それは、慣れだけで克服できる程度のものだった。 如月姉弟は独立して仕事を受けるようになってからずっとこのマンションに住んでいる。 他に引っ越そうと思わないのは、霊的、呪的な防御仕様の建物など一般には存在しないからだ。 このような仕事をしていれば、休める場所を作るのは大変なのだ。 呪的な守りという他にも、他の術師も住んでいるから、困ったときには協力体制が取れる。 実はこれが、一番大きな利点なのだ。 管理費などを含めた家賃は決して安くはないが、それでもここに住み続ける最大の利点なのだ。

呑気なものだが、マンション敷地脇で、畑を耕作している呪術師が居て、彼は作業中だった。 この、呪術協会の持ち物も、意外に規律はゆるくて、敷地の空いているスペースを、申請さえ出せば、この様に使うこともできる。(※原文ママ:「使いこともできる」→「使うこともできる」と修正) 野菜づくりなど、呑気なものだと言われそうだが、呪術的には非常に重要なのだ。 呪術もやはり、体力や気力の弱っているときには効果が出やすい。 つまり、気力体力を充実させておけば、防御力もアップするというわけである。 だから、若い呪術師の中にも、畑を営むものが多い。 それと、畑を作るもう一つの利点は、食費のことを減らす効果も期待できる。 心身と経済的に利がある。

意外に思われるかも知れないが、実はこの如月姉弟や、沙都子や世機も、作物を栽培している。 もっとも、本格的な畑というわけではなく、少量の野菜ではあった。 さらに術者は呪い返しの意味もあって、植物を身近に置いておく。 それと、動物を魔除けの一部として飼っておく者もいる。 故に、マンションはペットOKなのである。 ペット好きの術者は、絶対に別の所へ移りたくなくなるのだ。

如月姉弟は、姉の順子が、動物を飼育するのがヘタで、世話が面倒といい、動物を飼っても結局淳也が世話をする事になってしまうから、動物は飼わないことに決めている。 弟の淳也は、動物を飼いたいとは思っていなかったので、姉をあきらめさせるのに苦労したのだ。

如月順子は、仲間の術師がペットのハスキー犬を連れて歩いているのを見て、笑顔を作って近寄っていった。 動物を見ると、疲れが吹っ飛ぶとか、クサクサした気持ちが癒やされるとか言っていたな。 淳也はそんなことを思い出した。 また飼うと言い出さなければ良いのだけれど……。 順子は立ち話も早々に、早速大きなハスキーに抱きついて、撫で始めた。 「よーしよしよし」 ハグして撫で回している。 そういうことを男にでもやれば、その性格でももらってくれる人が居るだろうにと、淳也などはそう思ってしまう。 それは反対に、順子の方も、思っていることだった。 淳也がもうちょっと、愛想が良くて、自分から離れてくれれば、いっその事嫁でももらってくれれば、自分も安心して結婚でも何でも出来る。 そう思っていた。

順子はしばらくハスキー犬を愛撫してから、飼い主にお礼を言って、挨拶をしてから、身体を離した。 「気は済んだ?」 淳也。 「気なんて済まないよ~」 これで、可愛らしく言っているつもりなのだから、淳也はなんだか呆れてしまった。 しかし、姉を可愛いと思ってしまう。 プッと吹き出す。

「行くぞ?」 淳也の声に、順子は口をとがらせて、小声で何事か呟いた。 淳也は無視して先に歩みを進めた。 順子も仕方なく、それに従う。 「絶対に、ハスキーにする!」 順子は決意を呟く。 もちろん淳也に聞こえるようにだが。 当の淳也は、やはりそう来たかと溜息をついたが、なにも反応せずに、無視して、建物の中へ入っていった。

「絶対にハスキーにする!」 順子は再度、音声のレベルを上げて言葉を連ねた。 子供かよ……。 淳也はおかしくて笑い出しそうになるのを、必死でこらえていた。

それにしても今回の敵は何か違うな。 いつもの仕事と、何か違う。 連盟との協力の件だってそうだ。 いつもならば、協会だけで解決しようとする。 何か、事件の裏側に潜む別のものがあるのだろうか? そう考えると、なんだかしっくりくるような気がする。 その、裏に潜むものとは? 淳也には、それが何なのか、まだ想像も出来なかった。 順子は嫌うだろうが、相談してみるかな。

順子は時代が違ったら、一軍の将にでも成れるほどに、豪胆な一面を示すことがある。 男の淳也でさえも舌を巻く、そう言った性格を持っている。 強情な一面もある。 淳也は意識してはいないだろうが、彼は姉のような女性に惹かれるようである。 だから、姉との関係は、居心地の良いものなのだ。 なにも知らない者が二人を見たときに、二人の関係が恋人のように見えたり、感じたりするのは、二人の相性が、ひじょうに良いためである。 故に、離れたくても離れられなくなってしまい、淳也も順子も、そういった関係をなんとかしたくてしょうがなかった。 だから、順子は淳也からの相談などは、かなり嫌がった。

淳也もわかっていたが、仕事だから仕方がない。 ほんの少しの邂逅だったが、神憑世機はどう考えて、どうやって切り抜けて行くだろう。 世機の顔が思い浮かび、淳也は自分が弱気になっているのでは無いかと、少々不安になった。 淳也と順子は3階の自分の部屋に辿り着くと、ドアのロックを解除して、中へ入った。

中は整然としていた。 と言うか、殆ど物が無かった。 生活感が薄い部屋だった。 わざとそうしたわけでは無い。 この二人には物欲があまりなかった。 姉の順子は洋服や、女性の喜びそうな小物などには一切興味が無く、全力で、動物だけを愛していた。 如月淳也の方は、それにもまして金銭感覚が発達して、無駄な物は一切購入しなかった。 驚くことに、家計簿などは、淳也がつけていた。 ただ1つだけ、淳也には趣味があった。 それが車である。 淳也の車は改造がされていた。 淳也が何年もかけて中古車を改造し、登録申請を出し、自分で作り上げた車だった。 車の改造と、ドライブやレース参加などが、唯一の散財方法だった。

淳也の車は、呪術的にも、猶の車以上に素晴らしい防御策が張り巡らされていた。 その気になれば、AIでの自動走行よりも安全な、使い魔を使った自動運転なども出来るように、自分の使い魔を仕込んであった。 ただ、運転が大好きな彼は、戦闘時以外は、この使い魔を使ったことはない。

淳也はこの事件の裏には何かが潜んでいるのではないかという、自分の意見を、姉に披露して、反応を確かめてみた。 「裏に、確かに今回は、いつもと何もかもが違う。里神の組織も暗躍してはいるけれど、それだけだったら、連盟との協力なんてあったかしら」 嫌うかと思ったが、至極真面な反応に、淳也は驚きを隠せなかった。 「だとしたら、どんなヤツかな。里神の組織に命令、もしくは依頼したヤツって事でしょう?」 淳也は頷く。 「里神の今居る組織って、実はそんなに大きくないのよ」 順子は語りはじめる。 「協会と連盟が協力しなければいけない相手……、外国の術師の組織?考えられるね」 淳也はその考えまでは到らなかった。 てっきり里神と同じテロリストかと思っていたが、その方が、連盟との協力の協力というのは納得がいく。(※原文ママ:「てっき里神」→「てっきり里神」と修正) 順子に聞いて正解だったな。 淳也は姉の意見に耳を貸す気になった。

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