フチャの生涯
改案堂
だから、嫌いなんだ
だからアタシは大野剛太郎が嫌いなんだ。
この、いくじなし。
関東軍が駐留する、満州国は奉天市。
軍人が闊歩する街中で呑気にも大南門前に画布を広げ色を載せる小男、それが剛太郎だった。
子供が往来でお絵かきして不用心な……と思い、声を掛けたのが最初の記憶。
「一人でコンナトコ、アブナイヨ」
「あれ、あんた横町の食堂で働いてる姑娘だったか。
こんなところまで出前かい? 駄賃に揚げ団子をやろうか」
「コドモがクーニャンいうナ。
アタシ、チビからオヤツ取り上げないヨ」
「はは、僕ぁこれでも大人だからな。
その頭についたお団子、この菓子にそっくりで面白いね」
「生意気なコドモネ。
でも絵は上手」
「どうだい、名付けて『大南門と朝の市場』だ。
もうそろそろ完成する、立派な絵だろう?」
小柄な日本人の中でもひと際小さかった彼は、奉天市で柔道場を開いたと言っていた。
余暇を見ては足繁く大南門近くへ通い、実家に近況報告を兼ねて送るための絵を描いていたそうだ。
その時の会話を切っ掛けに、アタシの働く食堂にもよく来てくれた。
「フチャ、明日の午後は市場へ買い出しかい?」
「ソウヨ、鶏と野菜仕入れる予定ネ。
剛太郎一緒ニ来るか?」
「もちろん」
柔道の師範だという彼は、小柄な見かけによらず天下無双とも言うべき強さだった。
というのも、食堂の常連として彼の姿をよく見るようになった頃。
そして目に見えて兵隊が減り治安が悪化した頃。
市場への買い出し帰り、暴漢に襲われたアタシを助けくれたのも彼だったから。
「偶々通りがかって、声を掛けようとしたところだったよ」
大柄な漢人達をまるでダンスでも踊るようにヒョイヒョイと舞いあっという間に放り投げた彼は、アタシの手を取り仕入れた荷物まで抱え走る。
それまで彼を老けた子供くらいにしか思っていなかったことを恥じた。
アタシは今まで自慢だった長身を縮める思いだった。
対照的に、彼の背中のなんと大きく感じた事か。
それから剛太郎は、外出の際に進んで同行してくれる。
どんなに凶悪な追剥からも怯まず護ってくれる彼に、いつしかアタシは夢中になっていた。
彼と親密になる迄はあっという間だった。
強いだけじゃない。
聞き上手で、いつもニコニコとアタシの愚痴を聞いてくれる。
アタシだけの、小さな守り人。
彼は、好奇の目も気にせずいつも共に過ごしてくれた。
近所の人や他の常連客から逆さま夫婦、雀と鶴、奉天の太閤千早など、夫が小さく妻が大きいとよく揶揄されたけれど、彼の決まって『いやぁ……』と照れる様が一層愛おしかった。
食堂の主人である父に対峙するのは、並大抵の根性ではなかったはず。
誇り高い清朝旗人の両親をどうやって日本人の彼が説得したのか、生涯教えてくれることはなかったけれど。
今思うと、息子も生まれたあの時が一番幸せだった。
戦争は続いていたけれど、アタシたち家族だけは平和が続くと思っていた。
だけど。
恐れていたことが、遂にやってきた。
満州国に在留する邦人への大動員。
開戦からずっと体格不適合で兵役を逃れていた彼の許にも、召集令状が届いたのだ。
「仕方ない、国民の義務だ」
「嫌ヨ、一緒に逃げて!」
「それは……出来ない。
本当は周囲の目が怖いから、どこにも逃げられないから。
フチャ、一生のお願いだ。
僕の事は構わず、君の家族だけでも奉天から逃げて。
フチャと息子だけは生きててほしい。
この絵を持って僕の実家へ行けば、きっと助けてくれる。
ごめん。
僕は家族も守れない、情けない奴なんだよ」
そんなはずはない。
あんなに強いのに。
いつだって飄々と周囲の評判なんて躱してきたのに。
結局実家には送らず出会いの証と大事に飾っていた絵を丸めるなんて。
あんなに可愛がってた息子だっている。
今更情けない振りしたって、アタシだけは騙されない!
……剛太郎の、いくじなし。
彼が戦地に赴いてから暫く。
夏のある日、漢人よりさらに大柄な毛むくじゃらの兵隊たちが押し寄せてきた。
彼らは瞬く間に奉天を占領し、アタシの居た食堂も相当に荒らされた。
アタシと息子は父と母に匿われ、難を逃れることが出来た。
でもその所為で父は殺され、母も連れ去られたまま帰らぬ人になった。
なのに、剛太郎はいつまでも帰ってこなかった。
あと少し、あと少しと待ったものの。
秋になって親類と身を寄せ合って食堂を再開しても。
冬になってお腹にいた彼とのもう一人の子を産んだ後も。
春になって娘の首がすわっても。
再び夏になり、いよいよ本土へ引揚げる日本人が増えても。
もう、それ以上待つことは出来なかった。
食堂は親類が生活のため守ってくれたが、私達親子はもう限界だったから。
やっと町内を散歩できるようになった息子を連れて。
夜泣きが激しくなった娘を抱き。
世闇に紛れ子供たちをあやし移動し。
絵は筒にして杖に仕込み。
何とか子供たちを死なせず大連市へ行き、旅順で渡航する船に紛れ込むことが出来た。
皮肉にも彼と沢山話した、日本語のおかげだった。
運よく彼の実家を頼り、小さな港町に根を下ろすことが出来た。
日々が嵐のように過ぎた。
昔の事はもういい、今を生きる家族だけ守れれば。
彼の地も離れ、子供の進学で東京へ移り住み。
小さな小料理店を開き余生を過ごそうと思っていたある日。
妙に小柄な、片腕の軽やかな壮年の男がふらりと店を訪れた。
「ずいぶん待たせたね、ただいま」
「……今まで何シテタ」
「ソ連と中国でね、ちょっと探し物をしてたんだ。
小さい子を連れた、背の高い美人をね。
寒さで腕も足の指もなくなっちゃって、諦めて引揚げて来たんだ」
それから、もう言葉は要らなかった。
いくじなしの一人くらい、面倒見てあげる。
二番目に幸せな日々。
一緒に住んでからしばらくして、剛太郎はダイエットでもないのに急激に痩せた。
嫌がる彼を連れて病院へ行った。
スキルス胃癌、と診断された。
「良かった、最期は一緒に居られる」
「もっとユックリしててイイノニ。
剛太郎の好きなシャーチーマー作るヨ」
「はは、もうあまり食べ物は入らないんだ。
そ、それより……あの布団子、シニヨン?
フチャのお団子、また見たいな。
よく似合ってたから」
「布団子? ああ、両把頭のこと。
あの髪型は旗人の誇りネ。
髪伸びたら、両側で纏めルヨ」
「それまで生きていらたら、な」
……ばか。
だから、アタシは……大野剛太郎が、嫌いなんだ。
また置いていくなんて。
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