解答編:7

 静けさが戻ってきた。

 ようやく目を開けてみるけど、さっきの白い閃光が視界に焼き付いて、何も見えない。

 少しずつ視力が戻っていくと、もうとっくに日が暮れて真っ暗なはずの教室の中は、揺れ動く光のゆらめきで、ぼんやりと明るくなっていた。

 あたりは台風でも通り過ぎた後のように、机や椅子が散乱し、棚の上の石工像たちは、一つ残らず見るも無惨に粉々になっている。

「なっちゃん…横澤さん…?」

 倒れたまま、首だけを精一杯起こしてあたりを探る。

 横澤さんは、すぐに見つかった。

 僕の倒れている位置からそう離れていないところに横たわっている。うつ伏せで死んだように動かない。

「よ、横澤さん…大丈夫ですか…」

 何とか上半身を起こして、腹ばいで横澤さんの近くに寄ろうとしたら、

「どさくさに紛れて変なとこ触ったらあかんで」

 思いもしなかった方向からなっちゃんの声がして、思わずビクッとしてしまった。

 折り重なっていた机がガラガラガラ…と崩れ、その下からなっちゃんが這い出してきた。

 あちこち汚れてはいるけど、なっちゃんは見たところ怪我などはないようだ。そのままヨタヨタと横澤さんのところまで歩いていくと、彼女をそっと抱き起こした。

 よく見ると横澤さんの胸の辺りがわずかに上下し、時折苦しそうに弱々しい呻き声を漏らしている。

 まだ意識は戻らないようだが、見た限り横澤さんにも負傷の様子は見られない。

(良かった…)

 ひとまずほっとし、それから僕は痛む肩や背中に気を配りつつ、ゆっくりと慎重に身体の向きを変え、ゆらめく光の方を見た。

「…絵が燃えてる…」

 教室を照らしていたのは、キャンバスが燃える炎の光だった。

 炎が音もなくキャンバスの表面を舐めるように燃やしているのが見えた。

 「現実のもの」は燃やせない、なっちゃんの炎だけど、顕現しようとしていた「呪い」を燃やすことで、キャンバスに引火した…ということか。

「ごめん…あたしにはこうすることしか出来ひんかった…」

 背中でなっちゃんの気落ちした声がする。

「いや、仕方なかったよ…」

 そう言うと、僕はあちこち痛む身体を庇いながら立ち上がり、足を引きずるように絵に近寄る。

 また絵の呪いが突然に発動しないとも限らない。慎重に側まで寄って見ると、炎が絵の具を舐め、絵の具を燃やして溶かし始めていた。

絵の具が溶けて消えたその下から、隠れていた下書きが現れた。

 鉛筆書きの、でもそれだけで見事だと感じる圧倒的な完成度の、自画像。

 そして、その周りを取り囲むように、油性マジックで書かれた…見るに耐えない暴言の数々。

(これを…隠したかったのか)

 横澤さんが、慣れない画材を使ってまで隠したのは、この…亀倉あゆに対する幼稚な悪口の羅列…それこそ「呪い」のように刻まれた、やっかみや蔑みに溢れた、人格否定の言葉たちだったのだ。

「何が…起きたのよ…」

 声に振り向くと、横澤さんがなっちゃんの方に捕まりながら身体を起こしているところだった。

「何をしたのよ…探偵部…何をやったのよ…火ヶ崎なつみ…!」

 教室の中の惨状と燃える絵、そして僕となっちゃんを変わるがわる見る。

 横澤さんの、怒りと戸惑い、そしてわずかな恐怖が混ざる目に、なっちゃんはいたたまれないように視線を逸らす。

「横澤さん……あの…」

「…ああ」

 横澤さんは、燃えるキャンバスに描かれた絵の状態を見て、そして全てを悟ったように、諦めたように言った。

「そう。見られちゃったのね」

 言いながら、顔を顰めながら立ち上がり、横澤さんは僕の側まで歩いて来て、まだ燃え残る炎を手で叩いて消そうとする。

 なっちゃんはその様子を見て、横澤さんが気づかないよう、ほんのわずかに手のひらを絵の方へ向け、集中する。

 炎は音もなく消えた。

 横澤さんはキャンバスを持ち上げ、愛しむように絵を指先でなぞる。

「ほんと、ほんとに…余計なことしてくれたね…探偵部」

 表面の絵の具も下書きも、ほとんど燃えてしまっていたが、皮肉にも油性マジックで書かれた暴言の数々だけは、その内容まで読み取れてしまうほどしっかりと残ってしまった。

 なっちゃんはここで初めてそれに気づいたらしく、書かれた内容を見てはっと口を押え、気まずそうに俯いた。

「横澤さん…あなたがこの絵を盗んだ…いや、亀倉さんの代わりに色を塗ったのは、彼女を…彼女の尊厳を守るため、だったんですね」

 横澤さんは絵から視線を上げて、僕を睨みつける。…ちっとも怖くない、鋭くもない視線だった。

「買い被らないで。別に、そんなつもりはないわよ」

 そして、肩をすくめる。

「こないだも言ったとおり、あいつが…あゆが下級生たちに嫌われてたのは、自業自得だと私は思ってる。嫌われるだけのことをやってたよ、あゆは」

「それで、後輩たちからイジメを…」

「そう。画材を隠されたり、無視されたりって程度だけどね」

 そして、少し遠くを見るような目をした。

「あゆは気にしてなかったけどね。才能への妬みからくる陰湿な仕打ちなんて、慣れっこだって言ってた。…ふん、一度くらい言ってみたいセリフだわ」

 横澤さんは面白くなさそうに笑うと、また絵に視線を落とす。

「まあ、あいつらも絵描きの端くれだからか、あゆの作品にまで手は出してこなかったしね。だから私も両成敗くらいの意識で、特に問題にしようとも思ってなかった」

 だけど、事態は発展してしまった。

 後輩たちは、亀倉さんの作品に手を出したのだ。

 横澤さん曰く「自業自得」な態度をとっていた亀倉さんに対する彼女たちの感情が、塗り重ねて明度を失った絵の具のように、最初に抱いた思いはなんだったのか、本人たちにもわからなくなっていたのかもしれない。

 それでも芸術を愛するものが、芸術を冒涜するなんて、いずれにせよ、僕には理解できないけれど。

「あのとき私は、目を疑ったよ。そして、本当に後悔した。ああ…私やいつきが「あいつらの気持ちもわからなくはない」なんて寛大なふりをした事なかれ主義を貫いた結果、こんなことになったのか…とね」


[…あんたたち。]

[何やってるんだ?それは…あゆの作品だろ。]

[あ、やば…。]

[見つかっちゃった。]

[…でも、なーんだ…横澤センパイっすか。]

[部長じゃなくて、助かった、みたいな?]

[くすくすくす…]

[………]

[私は、何をやってるんだ、って聞いてるんだ。]

[何って…。]

[その…まあ、なんて言うかー。]

[わかるでしょ?センパイも。]

[は…?]

[だってえ、見てくださいよ、センパイ。]

[そうそう、これ。]

[亀倉センパイの自画像っすよ。]

[………そのようだね。でも、それがなんだよ?]

[キモすぎないですか?]

[…え?]

[自分の顔、こんなめっちゃ上手に描いてんすよ。]

[超絶上手いんすけどね、それで自分の冴えない顔をこんな克明に描くとか、正直コワイっつーか。]

[普通の神経してないよねーって、みんなで言ってたんですよ。]

[それでまあ、ちょっとねー?]

[なんつーか、注意してあげた、みたいな?]

[あんたコワイよ、って注釈入れてあげてましたー]

[キャハハハハ!]

[…………]

[あれ?センパイ、もしかして怒ってます?]

[えー?なんかショックっす〜。横澤センパイは「こっち」派だと思ってたんすけどね?]

[…………]

[くすくすくす…]

[………ゴッホは、さ。]

[……は?]

[なんです?]

[ゴッホは、画家として活動した10年の間に、40点近い自画像を描いた。流石にそれくらいは知ってるだろう?]

[…はあ、まあ。]

[さまざまな画風を学ぶためとも言われているし、お金がなくてモデルが雇えず、手っ取り早く自分をモデルにして技術を磨くためだとも言われている。]

[………]

[でも私は、ゴッホが自分と向き合い、己の内面と対話するためだったと思ってる。自らの耳を切り落としたり、自殺という形で人生の幕を下ろしたり、ゴッホは自分自身を常に見つめながら、彼の…]

[…あのー、もうそういうのいいっすわ。]

[え?]

[なんて言うかー、なんかもう着いていけないんすよね。そういうストイックなヤツ。]

[…え、……]

[私ぃ、地元で絵描くの上手くてこの学校入って、めっちゃチヤホヤされて将来はアーティストの道、約束されると思ってたんすよね。]

[そしたら自分より上手い人なんてゴロゴロいてぇ。亀倉先輩とか横澤先輩みたいな才能チートな人たち見てたらなーんか、アホらしくなっちゃってぇ。]

[この学校入ってまで、そんな気合入れてウエ目指さなくちゃいけないとか、そんなつもりで来てないんですよねー。]

[先輩たちとか、めっちゃマジじゃないですか?なんかさ、ねえ?]

[うん……なんつーかさ、ウザいんすよね。]

[………]

[後輩だからって、なーんか絵が上手いくらいで上から目線でこられても困るっつーか。調子こかれてると我慢の限界とかあるんで、私たちも。]

[…………]

[あ、なんか黙っちゃった。すみませーん、言いすぎましたー。]

[くすくすくす…]

[……だからって…]

[……?]

[お前らがそういうつもりなら別に構わないよ。上手くなるための努力をしようって気がないなら、無理強いもしない。だからって、努力してるヤツのことを嘲笑う資格なんか、お前らにはないだろう?]

[………]

[あいつは、確かに才能の塊だよ。お前らはもちろん、私だって足元に及ばないくらいのチート野郎だよ。…でもさ]

[………]

[その上さらに努力してやがるんだよ。お前らもそれくらい見ててわかるだろ?持て余すくらい才能持ってるくせに、それに溺れず常に努力して、練習して、試行錯誤して、いつももがきながら作品仕上げてんだよ。そんなやつに勝てるわけないだろう?!]

[………]

[それを嘲笑う資格なんか、誰にもないんだよ!あいつの作品を汚すのだけは、許さない!]

[…ちょ、だからぁ…]

[暑苦しいの、ウザいんだって…]

[何してるの!]

[…!]

[ぶ、部長?]

[いつき…!]

[今、職員室に電話があったわ。…亀倉が…あゆが、事故で…]

[え…?]

[え、ええ…?!]

[ま、まじで…?]

[そんな…]

[…………お、お前ら…ま…まさか…?]

[え?!ちょ、ちょっと待ってくださいよ…!]

[私たち、何にもしてないっすよ?!]

[そ、そんな、いくらなんでもそこまでは…]

[…?なんのこと?…とりあえず、私は急いで病院に向かうわ!]

[あ、じゃあ私たちも行きます!]

[そう。…横澤、あなたは?]

[…………]

[…横澤?]

[…………]

[横澤先輩?どうしたんすか?]

[…………]

[横澤!]

[え?…あ、ああ…ごめん]

[どうかしたの?]

[……いや、大丈夫。……悪いけど、先に行っててくれる?すぐに追いかけるから。]

[……わかったわ。病院の場所は先生から聞いてメールするから。]

[わかった。ありがとう。]

[じゃあ、私たちは行きましょう。急いで!]

[は、はい!]

[…………]

[…………]

[…………]

[……………]

[…………]

[………………]

[…………]

[………………ナイ…]

[!!]

[………………サナイ…]

[…………]

[………………ユルサナイ]

[………あゆ…]

[……ユルサナイ…!!]

[!!!]


「私は、絵の中から聞こえてきた声が、あゆのものだとすぐに分かった。そして…そのとき見たんだよ」

 青ざめた顔を上げて、横澤さんは僕らを見た。

「見間違いでも、気のせいでもなく、鉛筆描きのあゆの表情がどんどん恐ろしい表情に変わっていくのを」

 なっちゃんの炎も消え、すっかり陽も落ちて真っ暗になった教室だけど、目が慣れてきたからか、どこか遠くの、まだ明かりがついている教室から届くほのかな光で、横澤さんの表情は十分に分かった。

 横澤さんの目は泣き腫らしたように真っ赤で、その瞳は後悔の念に滲んでいた。

「なぜか、それを不思議だとか怖いだとか思いはしなかった。ただ、あゆの描いた絵だから…ああ、気持ちが宿ることくらいあるかもなあ、とぼんやりと思っていたよ」

 そして、燃え残ったキャンバスを見て。

「その瞬間、なんとなく分かったんだよ。あゆはもう死ぬんだなって。いつきたちを追って病院に向かっても、もう遅いんだろうなって」

 そう思った瞬間、急に恐ろしくなったんだよ…横澤さんは気まずそうに、そして可笑しくもなさそうに笑った。

「絵は、6割くらいガッシュで着色されていた。私は急いで画材の棚からガッシュを持ってくると、あゆの塗った上から厚く重ね塗りをした」

「…なぜ、そんなことをしたんですか?」

「わからない。自分でもあの時の行動をうまく説明できないんだよ。…だけど、あの恐ろしい形相を…あゆが人前でひた隠しにしている感情を、誰にも見せてはいけないと思ったのかもしれないな」

 横澤さんは、今度は少しだけ可笑しそうに笑って言った。それは自分へ向けた自嘲の笑いだったのかもしれない。

「あいつは、他人の前ではいつも無感情な顔を見せていた。何にも動じず、何にも心動かされることなく。他人が自分に求めている「天才性」とか、ある意味「変人ぽさ」みたいなものを、あえて演じているようだったよ」

「…だけど、本当のあゆちゃんはそうやなかった…?」

 なっちゃんの言葉に、横澤さんはこっくりと頷く。

「一度だけ、誰もいない教室で声を震わせて泣いている、あゆを見たことがある」

 両手のひらで顔を覆いながら、横澤さんは話し続ける。

「珍しく、あゆが先生に感情的に言い返したことがあった。その時、先生が「亀倉さんらしくない」と指摘したんだよ。…あゆは、その言葉を聞いた途端スッと冷めた顔をして「そうですか」って言ったきり、平気な顔をしてた」

 だけどその後、誰もいないところで感情を抑えきれず泣いていた。

「理解されない怒りの涙だったのか。自分らしさとのギャップに苦しむ叫びか。それとも、才能ゆえに思い通りに振る舞えないことへの悲しみなのか…そんなこと、今となってはあゆにしか、わからない。ただ私は、何か絶対に見てはいけないものを見てしまったような気持ちになった」

 きっとその時の亀倉さんの顔は、今の横澤さんの表情とよく似ていたに違いない。横澤さんは溢れる涙を拭おうともせず、ただ淡々と話している。

「横澤ちゃん……」

 天才にしかわからない孤独、とか言ってしまうのは簡単だろう。だけど、誰しも自分のことは他人にも、自分にだってわからず、だから誰しも孤独だ。

「…私は、無我夢中であゆの顔を下手くそな筆で塗りつぶした。ガッシュを何度も塗り重ねられ、ようやく呪いの言葉を吐かなくなったあゆの絵は、その時」

 横澤さんは淡々と言った。

「…あいつが普段そうしてたような、無表情な顔になっていたわ」

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