第32話 偽装恋愛

 突然の展開に、俺は口をぱくぱくさせたまま固まっていた。そんな俺を見て、詩乃はため息まじりに口を開いた。


「……べ、別に深い意味なんてないわよ」


 ぷいっと横を向き、手ぐしで髪をかき上げる。その動作だけで妙にサマになる。


「これは……偽装恋愛よ」


「ぎ、偽装って……」


「そ。勘違いしないでよね。別に、あんたのこと好きなわけじゃないんだから」


 詩乃は顔を赤らめながら、だがやはりこちらを見ようとはせずに視線を逸らした。


「美羽ちゃんには、まだちゃんと断ってないんじゃない?」


「う……まあ、そうだけど。なんか怖くて断れなくて……」


「だったら、私と付き合ってるってことにすれば、美羽ちゃんも納得して引いてくれるかもしれないでしょ」


「確かに……でも、それってつまり琴音のことは――」


「ちょっと、話を最後まで聞きなさいよ」


 詩乃は人差し指を左右に振ってから、ひとつ息を吐く。


「……何も分かってないのね。恋愛っていうのは、モテる人ほどモテるのよ。“人気者ほどモテる”ってやつよ。ブランド品が気になるのと一緒。“あの子が好きなら、私も気になる”って、そういう心理」


 その理屈、なぜかすっと腑に落ちてしまう。現実はいつだって理不尽だ。


「そう――だから、私と“陽香ちゃん”がつきあってるってことになれば、琴音もヤキモチくらいはやくかもね?」


「おお……さすが詩乃、頭いい!」


 思わず素直に褒めた瞬間、詩乃が小さく「ふん」と鼻を鳴らす。


 そして――


 詩乃がそっと手を伸ばしてきた。偽装なんてみんなを騙すようで悪いなと思い一瞬ためらいはしたが、そっとその手を握りしめた。


 ふと見れば、詩乃の頬はほんのりと桜色に染まっていた。


「……あくまで、偽装だからね。いい? 調子に乗ったら許さないんだから」


「は、はい……」


 こうして、詩乃の“偽装恋愛”は、静かに――でも確かに、始まった。


◇ ◇ ◇


 チャイムが鳴り、カツン、とどこかでペンが落ちる音がした。

 答案用紙を前の席に回していくと、先生がそれを集め、枚数を確認してから教室をあとにする。


「終わったああああああああ!」


 花田の絶叫が教室にこだました。

 続いて、周囲からも「あー解放感……」「もう寝ていい?」といった歓声が上がる。


 俺――陽翔も、机に突っ伏して大きく息を吐いた。

 三日間にわたる期末試験が、ようやく終わったのだ。


 男子たちからの小耳情報、そして詩乃にみっちりしごかれたおかげで、赤点だけは回避できていそうな手応えはある。


 横目でちらりと詩乃を見ると、彼女は女子たちと小声で笑いながら試験の愚痴を言い合っていた。

 

 ――さて。

 昼食を終えれば、試験の間は中断していた生徒会活動が再開される。

 そして、いよいよ“偽装恋愛”の始まりだ。


◇ ◇ ◇


 食後、詩乃と並んで廊下を歩いていると、彼女がぴたりと立ち止まった。


「……ほら、カップルなんだから。手、つなぐよ」


「えっ」


 俺が戸惑っている間に、詩乃はすっと手を伸ばしてきた。

 指をからめる――いわゆる“恋人つなぎ”だ。


 その手を取った瞬間、心臓が跳ねた。


「い、行こ」


 そう言って詩乃は、少しだけ顔を背けながら歩き出した。

 恋人つなぎで生徒会室のドアを開ける。――演出は完璧。


「みんな、久しぶりっ!」


 詩乃の明るい声に、生徒会室にいた琴音と美羽がこちらを振り返った。


「えっ、どゆこと……?」

「詩乃さんと陽香さん、手つないで……え?つきあってはるの?」


 恋人つなぎの意味を瞬時に理解した二人の目が、まるでスローモーションで見開かれていく。


 詩乃は勝ち誇ったように胸を張った。


「陽香ちゃんがね、期末前の勉強会で告白してきたのよ。『ずっと好きでした』って」


 ――そんな事実は、ない。断じてない。


「くぅ~っ、悔しいけど相手が桐島先輩なら、しょうがないなあ!」


 案の定、美羽は即・降参。潔すぎて逆に怖い。


 一方――


「…………っ」


 琴音は机に肘をつき、顔を両手で覆った。


「ひどいです……陽香さんは、わたくしから詩乃さんまでも奪ってしまうのですね……」


 えっ、いやいや待って!?

 なんかものすごい誤解が生まれてる!?


「大丈夫よ、琴音。あなたが一番大切なのは変わらないから」


 詩乃はそっと琴音の背後に回ると、耳元に口を寄せて囁いた。


「知ってるでしょ? 私が女の子しか愛せないって」


「じゃあなぜ、陽香さんと“おつきあい”など……!」


「だって泣きながら土下座して、『どうか私と付き合ってください』って頼まれたのよ? そこまでされたら断れないじゃない?」


 さらなる捏造が、ナチュラルに積み上げられていく。


 琴音は鼻をすんとすすり、そっと詩乃を見上げる。そして――


「……もう、詩乃さんの意地悪……」


 そう言いながら詩乃に身を寄せ、頬を胸元に預けた。

 詩乃もそっとその背を抱きしめる。まるで劇中の恋人たちのように。


 生徒会室に満ちていた甘ったるい空気は、仕事に取りかかると同時に霧散した。

 詩乃の切り替えの早さは相変わらずで、さっきまで恋人ムーブをしていたとは思えないくらい、淡々と書類に目を通していく。


「さて、期末も終わったし……次はクラスマッチの準備よ」


 詩乃が手元のファイルをぱらぱらとめくりながら、すっかりいつもの生徒会長モードだ。


「昨年度は、全クラス共通の競技がバスケットボールで、男子はサッカー、女子はバレーボールでしたわね」


 琴音がさらりと補足する。表情ひとつ変えず、ペンを走らせる姿はまるで秘書のようだった。というか、実際秘書だった。


「うーん……今年は、空手とかキックボクシングとか、どうですかね〜?」


 美羽が能天気な笑顔で、物騒な提案を投げてくる。


「いや、それは……運動会じゃなくて格闘技イベントになっちゃうでしょ」


 陽翔は即座にツッコミを入れた。詩乃と琴音がふっと笑う。

 ああ、この感じ……なんだかんだで、やっぱりこの4人が一番落ち着く。


 そんなこんなで仕事もひと段落し、恒例のおやつタイムへ突入。

 テーブルには各自持ち寄ったスナックやチョコがずらりと並び、期末テストが終わった解放感も手伝って、会話は自然と弾んでいった。


「テスト終わったら、あとは春休みまで一直線だね」


 陽翔はチョコパイをぱくっと齧りながら、気楽に口を開いた。


 そのとき――。


「……陽香ちゃん、ちょっとジッとしてて」


 詩乃がふいにこちらへ身を乗り出してきた。


 戸惑う間もなく、彼女の指先がそっと陽翔の唇をなぞった。

 指にはチョコのかけらがついていて、それを詩乃は――ぺろりと、舐め取った。


「……詩乃?」


 思わず名前を呼ぶと、詩乃はふいっと目をそらして言った。


「フン。私の“彼女”がそんな顔で歩いてたら、私が恥ずかしいでしょ」


「え、えっと……私、彼女だったんだ……彼氏じゃなくて?」


「当たり前でしょ」


 そう言って、詩乃はペットボトルのお茶をひと口。

 その横顔は、どこかちょっとだけ照れているようにも見えた。

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