悪魔探偵チリアクタ
不明夜
第一話 通常業務グッドスリープ
「現在時刻は深夜二十四時。悪魔憑き現象が確認された商店街『名埋商店街』へ突入する。月は満月、気温は四度。本件の音声記録は────」
「前々から思ってたんだけどさ、その堅苦しい儀式みたいなの、必要?」
「必要です」
「二人ぼっちなのに? まあ、何だっていいけど」
少し街灯から離れるだけで一寸先も見えなくなってしまうような、深く暗い夜のこと。
店のシャッターは全て下ろされ、人払いの終わったアーケード商店街に、男女の声と足音が反響する。一つの足音はゆっくりと、規則的に。もう一つは急ぐように、忙しなく。
「私達のようなフリーの悪魔祓いにとって、業務中の録音は義務です。音声的な分かりやすさは必要でしょう。……この話、何回目だと思いますか」
「イチ!」
「足りませんね、ゼロが二つ」
男は苦笑しながら自分の丸眼鏡を触り、位置を調節し、オールバックを手で撫で付けて整える。
そうして普段のルーティーンを終えた彼は、黒のレザーコートで隠された腰部のケースから拳銃を取り出し、臨戦態勢へと移行した。
一方、相棒の行動など気に留める様子もなく、女はずかずかとアーケード街を進む。
手に武器を持つでもなく、身に纏った白のダッフルコートの内側に何か隠している訳でもない。
長い白髪をゆらゆらと揺らして跳ねるように歩く彼女は、殺気と表現しても差し支えないような圧を放つ男とは対照的に、ただ興味本位で夜の街へ訪れてみた少女のようだ。
尤も、無害で無力な存在が、この場に居る訳はないのだが。
「
そう聞かれた女────
数秒の静寂を風音が破ると、芥はくるりと男の方へ振り向き、至極真面目な顔で告げた。
「上」
「はあ、上?」
「そう、上。この商店街の上、ガラスの天幕。あれを壊したい、かな」
「……はあ、そうですか」
男は大きな溜め息を吐き、苦虫を噛み潰したような顔で銃を掲げる。
溜め息の理由は明白で、かつ、多岐に渡る。
「現在時刻は深夜二時二分、諸事情により止むを得ず発砲する」
これから自らが行う破壊行為に対する罪悪感。
他に方法がないのか、という思考が無駄であると結論付けてくる経験に対する嫌悪感。
「本当に、これが良いんですね?」
「勿論だよ。ボクが欲望に正直じゃなかった事なんてないでしょ」
こうした蛮行に慣れてしまっている自分に嫌気が差す。
芥と云う一個人が持つ特異性に頼り切っている現状に、理性が警鐘を鳴らす。
何より男にとって最も耐えがたいのは、こうした思考の巡りすらも普段通りのルーティーンと言って差し支えがないようなものだという事実なのだが。
芥は鼻唄交じりに天幕を見上げる。その黄金色の瞳は、映画の始まりを待つ子供のように輝いていた。
「────大丈夫だよ。そうするべきだと、ボクの悪魔が呼んでいるから」
その言葉を聞き届けると、男は引き金を引いた。
平和な商店街には似つかわしくない、重厚な銃声が鳴り響く。
時に、悪魔とは何だろうか?
悪という概念の象徴であり、教えを邪魔するもので、神を冒涜するもので、人を誘惑するもの。
古くは紀元前より語られる、邪悪な存在。
銃弾はガラスに命中し、連なる全てのガラスにヒビを入れる。
約500メートルに及ぶ商店街の天幕、それら全てが────
砂となり、霧散していく。
時は遡って十七世紀。
魔女狩りと呼ばれる一大ムーブメントの裏で、悪魔という概念へのテコ入れが行われた。
人や物に取り憑き、災いを齎すもの全て。
超自然的存在の中で、人類にとって都合が悪いもの全て。
妖精、悪霊、怪物、信者の消えた古い神、正体不明の飛行物体。
それらは間違いなく人類の敵であり、殺すべき悪魔である。
少なくとも、その時、そう定義されたのだ。
天より舞い落ちる砂と、その先に見える無傷のガラス。
そして更にその先に見えるソレを見て、男は額に手を当てた。
暫し後、軽く頭を振って金縁の丸眼鏡の上に積もった砂を払い除けた男は、目に砂が入って悶絶する芥の隣に並び、前方へと銃口を向ける。
「今回も最高の外れくじを引けたようですね、何よりです」
「何が! ああもう本当に痛い、最悪、こんな事しなければ良かった!」
「一週間ぶりですね、その類の断末魔は」
「
「……芥さんがそれを言いますか?」
怒りと後悔に満ちた叫び声を男────
「実体化した悪魔との交戦を、開始する」
月明かりが人影を照らす。ボロ切れを纏い、三角の赤い頭巾を被った醜い老人の姿が露わになる。
木の枝の如く痩せ細った腕は触るだけで折れてしまいそうだが、そんな腕で体躯の何倍もある袋を背負っている以上、見た目から強度を推察する事は出来ない。
そもそも、悪魔とされる存在の脅威度を見た目だけで測るなんて、夢のまた夢だ。
約10メートル先に佇む老人の頭部を目掛けて、仁は躊躇いなく引き金を引く。
三度、銃声が響く。近代的な拳銃から銀の弾丸が撃ち出され、飛翔する。
そのどれもが寸分の狂いなく老人の額に命中した。少なくとも、仁はそう観測した。
だというのに、老人に影響がある様には見えない。
老人は、袋を引き摺りながら近付いてくる。ゆっくりと、一歩一歩、着実に。
「ふむ、特殊銀弾は効かない。悪霊系でも怪物系でもない悪魔ですか。面倒ですね、神酒手榴弾を使っては採算が取れませんし。芥さん、お願いできますか」
「待って、ごめん、目開けられないかも。ねむい……」
「はい? そんな事言ってる場合ですか、冗談は業務外だけに────」
芥はふらふらと、今にも倒れてしまいそうな体勢で両目を擦っている。
老人は歩みを進める。引き摺られた袋からは少しずつ砂が溢れ、しぼんでいく。
袋がしぼみ、小さくなるにつれ、老人の歩みは加速する。
距離が縮まる。仁が手を引き後ずさろうとも、その距離が開く事はない。
夢の世界へ堕ちようとする相棒を横目に、仁は冷や汗をかく。
眼前の悪魔が何なのか、てんで検討が付かないのだ。
何故特殊銀弾が効かなかった。大抵の悪魔には通用すると云うのに。
何故芥はずっと目を擦っている。砂が目に入った、それだけでは説明が付かないだろう。
「お願いです、起きて下さい、私一人で正体不明の悪魔は祓えません」
「ん……情けないね、仁くん」
「仕方ないでしょう今の私ほぼほぼ非武装ですよ、このままだと死にますよ。私が。私だけが!」
仁は普段と変わらぬ無表情のまま、非常に情けなく叫ぶ。
老人が迫る。距離にしてあと3メートル、歪み崩れた醜い顔が迫ってくる。
「……これだから悪魔は嫌なんだ。早く起きて下さい芥さん! 来てる! 来てます芥さん!」
────この、塵散仁という男。窮地では全くと言っていいほど役に立たないのである。
「なに、もう……ボクは眠いんだよ。それに瞼が開かない」
「それは、開けて、ください!」
「無理。だってこれ、呪いの類だよ」
「じゃあそれを早く言ってくださいよ! 触れただけで呪われる砂だなんて、冗談じゃない」
老人が、ついぞ手の届く距離にまで接近する。仁へ向かい、緩慢な動作で手を伸ばす。
仁は後に飛び退き躱す。老人はまた近付き、手を伸ばす。それを躱す。
なんと不毛な応酬だろうか。
最後の優雅さをかなぐり捨てた仁は芥の手を引く事を諦め、肩に担ぎ、老人に背を向け全力で走る。
「ええ、急に揺れっ……ああもう、窮地みたいだね。仕方ないから頭を使うよ、悪魔に関する事だけはボクの仕事だって約束だもんね。仕方ない、ああ本当に仕方ない!」
「御託はいいです。私は、何をすれば」
「教えて。生憎ボクは何一つ見えてないから。詳細に、何が見えて何が起こったのか、全部教えて」
商店街を疾走する人影が二つ。
一つは人を担ぎ、もう一つは袋を担ぎ、一見珍妙な鬼ごっこが一直線の舞台で行われる。
とはいえ。仁がいくらジーンズの股が裂けんばかりに走ったとて、担がれている芥は夢うつつ。
一人だけ真剣な私がどこか滑稽ですね、と仁は心の中で悪態を吐いた。
「……商店街の屋根ガラスを破壊すると同時に出現。破壊したガラスは砂に、また真のガラスは未だ上に。破壊したガラスは悪魔憑きによる異常事象の一環として形作られたものと推測されます」
「了解、他は」
「悪魔の姿は老人、身長140センチ程度。巨大な白い袋を引き摺っていて、袋からは砂が溢れている。走る速度は、そうですね、私の全力疾走より少し遅い程度です。それと、加速してますね、今も」
「なるほど。うん、分かった。ボクはその悪魔を識っている。名は────」
商店街の端まで後10メートル。出たからとて状況が好転するとは限らないが、とりあえずの逃走目標としては分かりやすいだろう。
などという考えは意味を為さない。仁の足はぴたりと止まる。いや、止められる。
「ザントマン。ヨーロッパに広く伝わる睡魔で、妖精。それが、この商店街に憑いた悪魔だよ」
芥は告げた。同時に、老人────ザントマンの手は仁の肩へ置かれた。
もう片方の手が頭を掴み、強引に膝を突かせ、上を向かせる。
「芥さん! 助けて、待って、私はこれから何をされるんですか!?」
仁の青い透き通った目と、ザントマンの濁った目が向かい合う。
叫ぶ。それはもう切実に。
が、その叫びは地面に投げ出された入眠寸前の芥には届かない。
ザントマンの手により、さらさらと眼鏡の上へ砂が盛られていく。
「くっ、力が強い……私は、今、何をされているんですか!?」
誰も聞く耳を持たない。ザントマンの手により、さらさらと眼鏡の上へ砂が盛られていく。
「何で。何が目的ですか!?」
「……ザントマンは眠りの妖精。魔法の砂を人の目にブチ込んで、瞼を開かなくするだけの無害なヤツだよ。多分ね。だから諦めてもいいんじゃないかな……死にはしないよ」
「いやいやいや……げ、不味……」
眼鏡の淵より溢れた砂は口に達し、不快な食感と共に危機を再確認させる。
直接的に危害を加えられていない事と、間違いなく平和では無いという事は、両立し得るのだ。
「仁くん、今どんな感じ?」
「見ての通り……見えてませんね。私が捕まって、ずっと砂を盛られています」
「何それ。きっとボクを笑ったバチが当たったんだよ。ざまあみろ!」
「……全くだ。もう良いです。後の事は私が何とかします。だから、アレを」
その言葉を聞き届け、地面に倒れた芥の頭がこくりと動く。
糸が切れたように動かなくなって、代わりに淡々と言葉が紡がれる。
まるで、レコードを再生したかのように。
「
芥の体から、どろりと黒いものが溢れる。
色とりどりだった地面のタイルが、黒い泥で塗り潰される。
街灯が割れ、灯りが消える。
月明かりが潰える。
一寸先も見えない空間に、砂の流れる音だけが響く。
やがて、その音も消えた。
「現在時刻は……深夜二十四時八分。商店街『名埋商店街』に確認された悪魔憑き現象は解決した。以上、本件の音声記録は塵散仁が担当した」
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